クリスマスと新年    2006/12

キリストへの礼拝の日、それがクリスマスである。
マタイ福音書では、東の博士たちがはるかな遠くで星を見たということから始まっている。星を見た、そして未知の遠いところへと旅を始め、ついに到着したということ、それは一見こどもの物語のような雰囲気がある。じっさい、この東方の博士たちが、馬小屋で生れたイエスのもとに来る、ということは、子供の絵本に繰り返し描かれてきた。それだけに、何か現代の複雑極まりない世界には関係のない架空の物語のように受けとる人も多いだろう。
しかし、このことは、さまざまのことを私たちの心に投げかけてくる。想像の世界のことでなく、現実に私たちが経験する喜ばしい事実、そしてそれと並んで厳しい現実をも指し示す内容なのである。
私たちは、このような「星」を見るまでは、闇の中をさまよい、歩むべき道も分からず、疲れ果てていく。しかし、突然私たちの生活の闇のなかに、天からの光が射してくる。そしてそ
の光は私たちの魂を導く力をもって迫ってくる。 その力によって私たちは、その光のみなもとへと、歩み始めるのである。
旧約聖書の預言者と言われる人たちがいる。キリストが現れる五百年以上も昔から、将来において民を救う神の人が現れること、その人は特別に神の霊にあふれ、その神からの力によって支配し、弱きものを助け救うことが特別に知らされ、それを予告したのである。
このような預言者と言われる人々もまた、時代の闇のただ中で、「星を見た人」なのである。
そうしてその星をいわば胸に抱いて語り続け、ときには命をも犠牲にしてその星の光の示す道を歩んで行ったのである。
今も、星は神のご意志に従って、私たちの全く予想もしないところに輝くのである。ここに私たちの希望がある。
私たち自身の心にも、もうどうにもならない、という倒れてしまいそうになる時にあっても、きっとそのような星が再び輝き始めるであろう。
この世の不幸の極みにあるような人の心にも、どんな方法もないような、遠い国の虐げられた人たちにも、このはるかな東方で輝いたという星は、だれも予想できないような場所で輝き始めることが期待できる。神の御手は万能であるからだ。
新しい年、それは単にカレンダーが二〇〇七年になった、ということにとどまるなら、そのような新しさは、日常の生活の中では、たちまち数週間もすれは消えていく。
しかし、このような星が私たちの魂の内で輝き続けるとき、日々新しいものとして感じられるようになる。
「 私たちは聖なる霊の導きによって生きているなら、そのような霊の導きにしたがって前進しよう。 」と使徒パウロは呼びかける。私たちを導き、迫ってくるのは、この世の闇でなく、キリストの愛なのであり、それゆえにパウロは「キリストの愛が私たちを駆り立てている」(コリント五・14)と言うことができたのである。


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