リストボタン本当の新しさ

私たちは常により新しいものを求める。新しい家や車、新しい服、新しい器具、新しい曲とか目新しい出来事にだれもが飛びつく。スポーツがあれほど大々的に、ほかのどんな文化領域でも、見られないような大画面で特定の個人の写真などを繰り返し掲載すること、それはスポーツが、常に新しいと感じさせる、勝負とか試合を提供してくるからである。
試合、それは新しい緊張感を生み出す。その勝負はどうなるのか、といった関心は、一般的に言えば、悪人でも善人でも、また老人や子供でも強い関心を持つ。
この、目新しいという意味の新しさは、新聞や雑誌、映画、テレビ、ラジオなども常に求められている。
そうしたものは、絶えざる目新しさの追求によって成り立っていると言えよう。
このような新しさは、なるほど一時的には人間の煩いや病気、人間関係のもつれなどを忘れさせてくれる。しかし、それは一時的な気休めに過ぎない。
憲法や教育基本法を変えるといった問題も、多くの人たちが賛成するようになったというその理由は、深く内容を検討したうえでのことではない。教育基本法など、大多数の人にとって、学校時代にもまったく説明を受けたこともなかったはずである。
それゆえ、その基本法が間違っているのかどうかすら考えたことがない。圧倒的な人々は、内容が何であるか、ということより、目新しいものを好むのであって、 今の教育基本法は古い、それを作り変えたら新しいものができるだろう、という漠然とした期待に過ぎない。現在の政府もそうした一般的な動きを利用しようとしているのである。
このような「新しさ」を追求することと、際立った対照となっているのが、聖書、キリスト教のもとになっている考え方である。
聖書においても、旧約聖書の相当の分量は「新しい」という真の意味をもたらすものが何であるか、まだはっきりとは意識されていなかったことがうかがえる。
創世記から、出エジプト記、民数記さらにヨブ記に至る、八〇〇頁を越える分量においても、霊的な意味における「新しさ」に触れた箇所はほとんどない。詩編三三編に至って、ようやく後の新約聖書の時代にきわめて重要なことになる、霊的な新しさに通じる言葉が現れる。

主に従う人よ、主によって喜び歌え。
主を賛美することは正しい人にふさわしい。
琴を奏でて主に感謝をささげ
十弦の琴を奏でてほめ歌をうたえ。
新しい歌を主に向かってうたい
美しい調べと共に喜びの叫びをあげよ。
主の御言葉は正しく
御業はすべて真実。
主は恵みの業と裁きを愛し
地は主の慈しみに満ちている。(詩編三三・15

このように、全世界が神の慈しみ、愛で満ちていると実感し、啓示されたこの詩の作者は、混乱と人間的な悪しき支配がつねにあったであろう古代社会のただ中にあっても、このように、神のなさるわざをまざまざと見、それを感謝することができたのであった。
そしてそのような神への感謝は神ご自身を喜びとすることができた。私たちももし、このように目に見える人間や物、あるいは地位とかでなく、目に見えない神ご自身を喜ぶことができるようになれば、人間同士のみにくい争いなどは生じ得ないだろう。そうした争いや憎しみは、すべて魂が深いところで満たされていないところから来るからである。
「新しい歌を、主に向かって歌え!」というこの呼びかけは、この作者が内部からわき起こる神への感動を黙ってそのままにしておくことができないところから生じている。

主にのみ、わたしは望みをおいていた。主は耳を傾けて、叫びを聞いてくださった。
滅びの穴、泥沼からわたしを引き上げ
わたしの足を岩の上に立たせ
しっかりと歩ませ
わたしの口に新しい歌を
わたしたちの神への賛美を授けてくださった。
人はこぞって主を仰ぎ見
主を畏れ敬い、主に依り頼む。
いかに幸いなことか、主に信頼をおく人は!(詩編四〇・25

この詩において、作者の心から新しい歌が生れたのは、滅びると思われるほどの、泥沼のようなところで苦しみあえぎ、そこから救われたという重大な経験からであった。新しい歌、神への感謝と讃美ができるようになったとは、心の深いところで新しくされ、そこから泉が湧くような状態である。 新しい心とは、このように、神への感謝と喜び、そしてそこから神のすべてに対して心からすばらしいと実感することであり、それが讃美の心となる。
それは単に歌を歌う、という状態とはまったく異なる。人間の魂の最も深い部分から新しくされ、そこに神ご自身が住んで下さることである。
このような新しさは、人間の決心とか経験、あるいは時が新年になった、というようなことでは与えられない。神ご自身(聖霊)を私たちが受けることによって初めて私たちは本当に新しいものとされる。
神が与える新しい心を受けとることのできる画期的なときが来る、それは、キリストよりも六百年近く昔の預言者がすでに神から示されていた。

わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。
彼らがわたしの掟に従って歩み、わたしの法を守り行うためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。(エゼキエル書十一・1920

こうした、人間の最も深いところにおける出来事とは、神ご自身の新しい霊を受けることなのである。
これに比べて、単なる時間的な新しさや目に見える表面的な新しさはすぐに古びる。新年がおめでたい、と言っても一〇日もたてば、ほとんどの人は何もその新しさを感じなくなるだろう。新しい服や車なども、それを使っていればじきに当たり前となって新たな感動を生み出さなくなる。
しかし、ここで言われているような、神の霊を受けることによる新しさは、永遠の神に根ざすものであるゆえに、その新しさの実感はずっと続いていく。
詩編二三編の有名言葉も、やはりこの霊的な新しさを深く体験した人の言葉であり、それが神を信じるだけで、誰にでも共感できるからである。

主は、わが羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
主はわたしを青草の原に休ませ
憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。(詩編二三より)

生き返らせると訳されている言語は、シューブという語で、日本語訳では他の箇所で、「立ち返る、方向を転じる」、英語でいえば、turn とか、return の言葉で訳されることの多い言葉である。魂が疲れ、古びてきて命がなくなっているのを転じて、命へと立ち返らせて下さるという意味であるから、多くの英訳は、回復する(restore) と訳している。
そして、より一層新しいものと変えられることを強調して、英語訳のなかには次のように、「新しい命を与えて下さる」とか「私の力を新たにして下さる」と訳されているのもある。

He gives new life to my soul.
He renews my strength.

人間はそうした新鮮な生き生きした実感を生み出すことができないが、神は万能であるゆえにそれが可能なのである。それゆえに、寝たきりのきわめて単調な、新しいものに自分の力ではほとんど触れることができない状況にあっても、何でも目新しいもののところに車で自由に行ったり、インターネットでそうしたものを見る人よりはるかに新鮮なものを実感することさえ可能となる。次の詩の作者はそうした例である。

わがために
野菊が香り
わがために
虫が鳴き
わがために
夕空がそまる

わがために
昨日も今日も
神様に
祈ってくれる
人々よ (水野源三)

ここには、ささやかな野菊、外から聞こえてくる虫の音、夕空の美しさ、等々多くの人たちが何の関係もないと思っているものが、神様の自分への愛のゆえに、そのような美しさがあり、音色があるのだと、素直に実感できる心がある。詩とは、心のそのままの表現であり、心の世界がそのままに文字となって広がる。
この詩が生み出されたその心とは、日常繰り返される何でもないような、自然の小さな動きもみんな、神が自分を愛して下さるゆえにあるのだと実感できる心なのであった。
これこそ、新しいものを日々感じる心である。愛はさまざまのものを常に新しいものとして感じさせる力を持つ。路傍の野菊や虫の音、空の色など、大多数の人たちには、単なる偶然でしかない。
しかし、この詩をつくった水野源三の心は、何十年も寝たきりでありながら、神ゆえの新しさを感じていたのである。

使徒パウロは、新しい創造について、次のよく知られた表現を用いている。

だれでもキリストの内にあるならば、その人は新しく造られた者である。
古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。(コリント五・17

原文では、簡潔に、「もし、誰かがキリストの内にあるならば、新しい創造。」(*)という表現になっている。
英語訳では、そうした原文の表現に近い。(**
* ei; tij evn Cristw/|( kainh. kti,sij
**if anyone is in Christ, he is a new creation;
the old has gone, the new has come!

原文では、英語訳の a new creation という訳文にあるように、「新しい創造」という言葉だけである。

キリストの内にある、という表現は、パウロが繰り返し用いている。キリスト者とは言い換えると、「キリストの内にある人」ということができる。日本語訳のうち、新共同訳は、「キリストと結ばれる人はだれでも」と訳されているが、口語訳、新改訳では、それぞれつぎのように訳されていて、原語の表現をより忠実にあらわしている。

・だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。(口語訳)
・だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。(新改訳)
キリストと結ばれる、というのは直線的なイメージがあるが、本来は、原語の表現や英訳でうかがえるように、「キリストの内にある」という意味であるから、それはキリストが神と同様な霊的存在なので、そのキリストの内にいることである。それこそが、新しい創造物となることだと言われている。
パウロが、ここで、「見よ、すべてが新しくなった!」(Behold, everything has become new! )と強い感嘆の念を込めて述べているのは、創世記の巻頭にある有名な言葉、

神は言われた。「光あれ」! こうして光があった。(創世記一・3

という言葉が背後に感じられる。
闇の中に光が生じた。それは新しい創造物であった。同様に、人がキリストの内にあるとき、その人は新しい創造物となったというのである。キリストは主ご自身が言われたように、「いのちの光」そのものであり、その光の中に置かれることがすなわち、新しい創造物となることである。
私たち自身の内に、光なるキリストを感じるとき、キリストが住んでいて下さるとき、私たちは外見では単調な生活であっても、絶えず霊的な新しさを感じることができる。その光によって新たなものを見、感じることができるからである。
ここに、人間を本当に変えるものは何か、ということがきわめて単純な表現で表されている。
こんな人間に誰がしたのか、とか自分はどうしてこんな性格なのか、どうして○○さんのようになれないのか、などと、自分をほかの人と比べて不満を持つことは、よくあることだろう。そして人間を変えるものとして、勉強する、教養をつける、経験を積む、いろいろな人と交わる、等々は誰でもが思い浮かぶことである。
そうしたことによっても確かに人は変る。経験によって落ち着いた人間になる、苦しみを経験して他人の苦しみにも共感できる人になる、芸術にいろいろと触れることで、感性が洗練される等々、人間が変えられるためには、さまざまの手段がある。
逆に、そうした経験によって暗い人間になる、無感動になり、またテレビや悪い雑誌、ゲームなどによって悪い方向に変わっていくこともよく見られる。
こうしたことから考えると、人間を変えるものは、環境や教育、経験などだと思う人が大多数になるのは自然なことである。
聖書が驚くべき書物であるというのは、そのような誰でもが思っているようなことと、まったく異なること、思いも寄らないことをはっきりと示しているからである。
この、「キリストの内にある」だけで、「新しい創造」なのだ、という簡潔な断定は、旧約聖書の長い時代にも想像もできなかったことである。
しかし、はじめにあげたように、旧約聖書の詩編の中には、「神に向かって新しい歌、讃美を歌おう!」という詩が見られる。キリストはまだ現れてはいなかったが、神ご自身の驚くべきわざに触れ、実際に死ぬかと思われる苦しみから救われたゆえに、そこから新しくされた魂は、パウロが述べたような、「すべてが新しくなった」という感動をすでに与えられたのがうかがえる。
さらに、終りの日には、新しい天と地になる、ということは、ごく一部の特別に神に引き寄せられた預言者に示された。
こうした旧約聖書の記述は、まだ、ユダヤ人だけ、しかもその内のごく一部の人だけが実感できたことであったが、キリストが現れてからは、ただ、キリストを信じるだけで、私たちはキリストの内にあることになり、ただそれだけで、新しい創造物となったのである。
ここには、いかなる貧しい人、苦しむ人、無学な人であっても、ただキリストにあるだけで、新しい創造物としていただけるという大いなる希望が込められている。
そしてこれは、罪深い人間、心の奥深いところではどのようにしても、清くならない、純粋な愛を他人にも持てないという罪深さをも根本から解消することになる。すべてが新しい創造物なら、そうした罪の本性もまた払拭される。
老齢化という、苦しみと悲哀の入り交じった状況はもはや医学も経験や学識もどうにもならない。しかし、そのような状況であっても、すべてが新しくされるために、霊的には生れたばかりのようなフレッシュな状態が有りうるという約束なのである。
確かに、イエスとともに十字架にかけられた重罪人は、釘で打ちつけられて激しい苦しみのさなかにあったが、まさに「キリストの内にとどまろうとした」ゆえに、彼の魂は新しくされ、その日にすでに過去のあらゆる大罪は拭われ、清められてパラダイスに住むことになった。
確かに、彼にとって「見よ、すべては新しくなった!」のである。
聖書とは、またキリスト教とは、喜びの知らせである。そして同時に、それは新しい創造の知らせなのである。
常に古びていくこの世、地球や太陽ですら、数十億年といった長期間には、古びていくものでしかない。そのただなかにあって、どこにあっても、どんな状況に置かれている人であっても、常に新しく創造された、という実感を与えられることは、ほかのどんなものにも代えられない恵みである。


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