リストボタン生涯、私は主を呼ぼう   2007/1

一般的に宗教といえば、多くの人たちは、組織に入るとか、行動や献金などにおいても強制される、何か特異なことというイメージを持つ場合が多い。新聞に掲載される宗教に関する記事は、たいていどこかの教団が何か不正なことをしたといったものが多いからである。
聖書は、全世界で最も広くまた長く読まれ続けてきて、その影響が断然際立っているのは誰もが認めることであるが、聖書がどんな内容であるか、具体的な聖書の箇所の解説などはほとんどなされることがない。聖書は、母胎となったユダヤ教とそこから発展したキリスト教だけのものと多くの人たちに思われているが、イスラム教にもとくに旧約聖書の内容が深く入り込んでいることは、コーランを見ればすぐに分かることである。
しかし、聖書に基づく信仰は、その中心は、組織に加わるとか、そこでの強制などではなく、目には見えない存在への愛、最も清くて真実なもの、正しいものへの愛なのである。
これは、すでに信仰を与えられて生きている具体的な人間を通しても分かることであるが、現実の人間には、さまざまの不十分なこと、罪の名残があってそのためにその人の内部でどのように神への愛、神からの愛が働いているのか、分かりにくいことがある。時には、神への愛などまるで感じられないような場合もある。
そのために、最も深い魂の記録としての、聖書を心して読むとき、そこに数千年を流れてなお古びることなく、無数の人たちの共感を呼んできた神との交わりの実体が見えてくる。
ここでは、そうした一つの詩(詩編一一六編)から学びたい。そのために、少しでも、その作者の心をより十分に受けとるために、その一部に英語訳をつけておく。

わたしは主を愛する。
主は嘆き祈る声を聞き
わたしに耳を傾けてくださる。
生涯、わたしは主を呼ぼう。

I love the LORD, because he has heard my voice and my supplications.
Because he inclined his ear to me, therefore I will call on him as long as I live.

この詩は、まず自分の歩みの結論を歌う。それは、冒頭にあるように、「私は主を愛する」ということである。
神を信じる、とか神の教えを守ろう、あるいは神よ守ってください、という願いでなく、彼自身の究極的な魂の経験とは、「私は主を愛する」という簡潔な一言なのである。
すでに数千年も昔から、この詩の作者にとって、神は単に信じるだけの存在とか、裁きの神として恐れる存在、あるいは得体の知れないことを人間にする不気味な存在でもなく、 何よりも、神は私たちの心を尽くして魂を注ぎだす相手なのであった。
目には見えない、そして大多数の人たちが神などいないという、そのようなものに対して、心からの真実をもって、目には見えない神を愛する、と一言で断言できるほどにこの詩の作者は、神からの愛を強く実感していたのである。私たちが何かを愛するためには、まず、相手が自分に何か心地よきものを与えてくれるのが出発点にある。美しい音楽を愛する、それはその音楽が自分に安らぎや力、あるいは心を清くするといった何かよきものを与えてくれるからである。
山を愛する、植物を愛するというようなことも同様である。また特定の人、自分の子供や友人や異性を愛するというときにも、相手が何か自分によきものを与えてくれるからこそ、自分も心を注ぎだす、それが愛である。
それゆえに、この詩においても、神を愛する、という一言が確信をもって言われる背景に、さばきの神と言われ、万能の神であり、天地創造の神ゆえに無限に遠い存在であるにもかかわらず、自分を個人的に顧みて下さる、という魂に触れる経験がなされたのであった。
主イエスは、最も重要なことは、「神を愛すること」と「隣人を愛すること」であると言われたが、この詩の作者はこの最も重要な「神への愛」を深い個人的体験から持つようになったのである。
あるものを愛するとは最も心に近いということであり、神を愛すると言えるのは、神がこの作者の魂の最も近くにいるのを感じていたからである。
そして次に彼が、どうして神を愛することができるようになったかが記されている。それは、「主は嘆き祈る声を聞いて下さった」(*) ということであった。

*)原文には、「私は主を愛する。なぜなら、主は」とあって、愛するようになった理由を表す接続詞がある。それゆえ、ほとんどの外国語訳も、例えば英語訳なら、つぎのように理由を表す接続詞が訳されている。

I love the LORD, because he has heard my voice and my supplications.
NRS

この詩の作者は、長い苦しい経験のなかから、神に向かって叫び、必死の祈りを捧げてきた。 その結果は、「神は聞いて下さった!」という、生涯忘れることのできない体験となった。
これは、神がどこか遠いところでじっと存在しているとか、特定の神殿、神社などの建物にしかいないような神であるなら、このような生きた確信は与えられないだろう。
人間同士でも、こちらが相手に語りかけても、何等応答もない相手は愛することはできないはずである。自然のような本来応答しないように見えるものでも、野草や星、山なみなどから自分に向けて語りかけるものがあるからこそ、それらを愛することができる。
神への愛も同様であって、人間の側からの語りかけ、祈り、叫びというものが確かに聞かれたという実感があってはじめて、神への愛は深まるし確実なものとなる。
次にそれほどの強い体験をしたゆえに、この詩の作者は、神を呼び続けることを生涯続けようという。これも、神が自分の叫びに、身を乗り出すようにして、ご自身の耳を傾けて聞いて下さった、という実感があったからである。ここでも、英語訳のほうがより、原文のニュアンスを表現している。

Because he inclined his ear to me, therefore I will call on him as long as I live.

この英訳では、「なぜなら、神が私に耳を傾けて下さった、それゆえに私は生きているかぎり、神の名を呼ぼう。」(*)ということであり、原文に従って、特にこの作者が生涯、神を呼ぼうという強い気持ちになった理由が強調されている。
*)従来の口語訳、新改訳も、理由をあらわす語が訳されているが、新共同訳では、おそらく、詩として簡潔に訳するという目的であろうか、その理由をあらわす言葉が省略されている。

神がその耳を傾けて下さると感じるほどに、この作者は神を身近に、また個人的に深い愛を受けとったのである。天地のどこにも神などいない、そんなものは勝手な空想だ、というのが大多数の日本人の感じ方であろうが、そうした神不在の精神世界とはいかに大きな差があることだろう。
耳を傾けて聞いて下さる神、そのような神が同時に、天地宇宙を創造し、万物を今も御支配なさり、導いておられる、それは常識的に考えると到底あり得ないようなことである。
無限に大きく、遠いお方が、宇宙のなかのチリの一点にもならないような自分の叫びに耳を傾けて下さる、それが実際にあるとすれば、まさに奇跡である。そしてその奇跡が現実に生じたのだというのが、この詩編なのである。そのような驚くべきことをなさしめたのが神であり、神の愛ゆえである。そのため、この詩は背後に神ご自身のお心があり、だからこそ、人間の詩でありながら、神の言葉として聖書に取り入れられたのであった。
このように、この作者は、自分の信仰によって歩んだ結果の経験を最初に簡潔に表現した。
次には、どのような困難に置かれていたかを述べていく。

死の綱がわたしにからみつき
陰府の脅威にさらされ
苦しみと嘆きを前にして
主の御名をわたしは呼ぶ。
「どうか主よ、わたしの魂をお救いください。」(三~四節)

この言葉によって、この作者がいかにけわしい状況に置かれていたかがうかがえる。それは一言で言えば、死の迫るほどであった。それは、こうした表現から重い病気であったと考えられているが、死の迫り来るほどに困難な状況は、病気や迫害、また戦争など世界のいたるところであったし、現在もあり続けている。
そのような苦しみの極限にあって、この作者は、叫び続けた。それによって、確かな救い、魂の平安を得ることができた。

主は憐れみ深く、正義を行われる。
わたしたちの神は情け深い。
哀れな人を守ってくださる主は
弱り果てたわたしを救ってくださる。(57節)

この作者の実感は、神は苦しみのとき、絶望的な状況にあっても必ず助けを与えて下さるという経験が与えられていた。このように追い詰められた状況から救われた者は、たしかにこれからもずっと神の救いを確信することができる。

わたしの魂よ、再び安らうがよい
主はお前に報いてくださる。
あなたはわたしの魂を死から
わたしの目を涙から
わたしの足を突き落とそうとする者から(*
助け出してくださった。
命あるものの地にある限り
わたしは主の御前に歩み続けよう。(710節)

*)新共同訳では「突き落とそうとする者から」と訳されているが、原文では、単に「つまずき」「倒れること」という意味の言葉なので、二〇種類を越える外国語訳や他の日本語訳なども、「つまずきから救い出された」というように訳されている。

このような救いの確信が与えられたゆえに、作者は、自分の魂に向かって、「わが魂よ、再び安らうがよい(憩いに帰れ)」( Return, O my soul, to your rest,…)と語りかけることができた。
ここで、「帰る」という原語は、シューブという語で「(神に)立ち返れ」といった預言者が繰り返し強調する呼びかけに数多く用いられている。これは、方向の転換を意味する。
嵐の吹きすさぶ人生の荒海のなか、どこにも寄せるところがなかった船が、風も波もようやく静まって、港に入ることができた。それは、神の平安であったゆえに、この作者は、その平安に帰れと、魂に呼びかけることができるようになったのである。
人間をつまずかせ、倒れさせようとする力、それは至るところにある。そのような力、それは病気であったり、人間であったり、事故、災害であったりする。
しかし、そこから救い出されるという実際の経験こそは、この作者の生きる土台となった。それゆえ、生きているかぎり主の守りの内にあって歩みたいと願うようになる。

わたしは信じる
「激しい苦しみに襲われている」と言うときも
不安がつのり、人は必ず欺く、と思うときも。

この作者は、苦しみのあまり立ち上がることができないほどになり、恐ろしい苦しみにあえぐことがあったし、人間の偽りに満ちた態度に苦しめられることもあった。それでも、信じ続けてきた。都合のよいことが起こる時だけ、信じることはやさしいが、この作者は死が近いと思われるほどの苦しみにあっても、人間の不信実に直面してもなお信じ続けた。
このような闇の世界から救い出された作者は、おのずから、この感謝と喜びをそのままにしてはおけなくなる。神に何かを捧げたい、という心に導かれる。

主はわたしに報いてくださった。わたしはどのように答えようか。
救いの杯を上げて主の御名を呼び
満願の献げ物を主にささげよう
主の民すべての見守る前で。
あなたに感謝のいけにえをささげよう
主の御名を呼び
主に満願の献げ物をささげよう。
(詩編一一六より)
この詩は、作者が神に捧げるという豊かな心があふれてきたことで終わっている。それは、そのまま、冒頭の言葉、「私は主を愛する」という言葉につながっていく。
自分の最も大事なものを捧げようという心、それは深く愛するものがなかったらそのような心にはなり得ないからである。神を知らないときには、人間がしばしばそのような、愛の対象となり、特定の人間に何もかも捧げてしまい、その結果欺かれて人間不信に陥るということはよく見られる。
あるいは、仕事や事業などに捧げることも多くあるだろう。そうしたものに捧げた結果、魂の奥深いところでの平安や静かな喜びは退いていく。
それは捧げた対象、仕事や人間は移り行くものであり、変質していくものだからである。捧げようとするからには、最もよいもの、重要なものと思えばこそである。しかし、時代や状況によって、また人間の罪によってそうした大切だと思われたものもいとも簡単にその価値を変えていく。そうなると、かつて必死になって捧げたのは何だったのか、と深刻な疑問に取りつかれることにもなりかねない。
いかなる苦難のときにも、私たちの声がかき消されるような細い声になっても、なお耳を傾けて私たちの叫びを聞いて下さる、その神の愛ゆえに、私たちは神とともに歩み、神に魂の最も大切な部分を捧げていく心へと導かれる。


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