リストボタン神の守りー詩編九一編ー    2007/2

聖書のなかに、詩編というのがある。それは、詳しく学べば学ぶほど、実にさまざまの内容が、深く祈られ、考えられ、神に導かれて集められているのが分かってくる。この一〇年ほどをとっても、私たちのキリスト集会では、絶えず詩編は、主日礼拝あるいは、どこかの家庭集会で学ばれてきた。 現在も、私たちのキリスト集会では、三カ所で、それぞれ異なる詩編の箇所を継続して学んでいるゆえに、ますます詩編の奥深さと広がりを知らされている。
ここでは、それらの詩編のうち、神が守って下さるという確信と、神から与えられる平安が記されているものを学びたいと思う。
私たちの生きる過程において、どんな人でもさまざまの思いがけない問題が生じ、苦しみや悲しみが襲ってくる。そのような時、私たちは何によってそのような苦しみや困難に耐えて、打ち負かされずに前進していけるのだろうか。
この点について、次の詩編は私たちの揺らぐ魂に強く語りかけてくるものを持っている。

いと高き神のもとに身を寄せて隠れ
全能の神の陰に宿る人、
その人は主に向かって言う
「わが避けどころ、わが砦
わが依り頼む神よ」

ここには、まず、隠れ場を持つ人の確信が記されている。人生の歩みにおいて、何が私たちの魂の避け所となるだろうか。苦しみのとき、惑うとき、病気の苦しみにあえぐとき、そしてだれも助けてくれない時、そのような時はだれの生涯にも有りうることと言えよう。そこから隠れる場を持っている人と、そうでない人との大きな違いを生じる。
自分の力、あるいは組織、他の人間、あるいは国に頼ろうとするとき、私たちは動揺する。しかし、神により頼むときには、平安を得る。

神はあなたを救い出してくださる
仕掛けられた罠から、陥れる言葉から。
神は羽をもってあなたを覆い
翼の下にかばってくださる。

神への確信は、単に神は存在するという内容でなく、救って下さるという確信である。
さまざまの悪意、あるいは重い病気など、苦しみは、この世に仕掛けられているかのように、私たちを攻撃してくる。 しかし、そうしたこの世の力に対して、神は愛をもって信じる民を覆い、親鳥がひなをつばさの下に招き寄せるようになされる。私たちの身近なところでは、親鳥が、ひよこを育てている時、ネコや、トビ、カラスが近づいたりすると、ひよこは急いで親鳥の羽の下にもぐり込もうとする。親鳥は、翼を広げてひよこをまねき入れ、その翼の下にかくまってやる。これは心に残る光景であって、私はもう五〇年以上前の子供時代にこのことを何度も見たものであった。
現実のこの世では、悪魔の手が伸びてきて私たちをとらえようとするかのように、次々と驚くような出来事が生じていく。しかし、その背後では、大いなる翼がある。そして私たちを招き入れて闇の力から守って下さる。そうした作者の経験がここに記されている。

神のまことは大盾、小盾。
暗黒の中を行く疫病も
真昼に襲う病魔も
あなたの傍らに一千の人
あなたの右に一万の人が倒れるときすら
あなたを襲うことはない。
あなたは主を避けどころとし
いと高き神を宿るところとした。
主はあなたのために、御使いに命じて
あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。
あなたは、ライオンと毒蛇を踏みにじり、
ライオンの子と大蛇を踏んでいく。(詩編九一・411より)

ここには、他の詩編にはない、勝利への確信が溢れ出る言葉によって記されている。現実には神を信じる人たちも、信じない人も戦のときは倒れるし、病気によって倒れるのはこの詩の作者もよく経験してきたことであろう。 しかしそれでも、このような揺るぎない確信がなぜ生じたのか。
それは啓示であった。目で見える現実からだけでは、決してこのような確信は生れないで、かえって善は勝つのか、死後の命はどうなるのか、等々さまざまの疑問が生じてくるであろう。
目で見える現象からの結論をはるかに超えた啓示によってこの詩の作者に示されたのがこの詩編の言葉となっていると言えよう。
それは、最終的にはキリストを指し示すものとなっている。すなわち、キリストは、いかに悪の力が襲ってきても、なおそうした悪には決してつぶされることがなかった。
悪意や聖霊を汚したといったいわれなき非難を受けても、キリストは動じなかった。いかに愛のわざをなそうとも、妬みのゆえに当時の宗教的指導者たちはイエスを憎み、殺そうとした。そしてついに捕らえられ、鞭打たれ無惨な十字架での処刑となった。しかし、それにもかかわらず、復活し神のみもとに帰り、聖霊として、また生けるキリストとして永遠に存在を続けるようになられた。 その姿は、まさに千人、万人が倒れてもなお、災いが襲わなかったことを示すものである。
そして毒蛇のような悪意にも打ち勝ち、ローマ帝国の権力がライオンのごとく襲いかかっても呑み込まれず、かえってのちにはそのキリスト教を迫害するローマ帝国をキリスト教国へと変えていった。
このように、単に二〇〇〇年前の人間の姿をもっておられたときのイエスだけでなく、復活したキリスト、すなわち聖霊(生けるキリスト)が、歴史を通じても、たしかに、この詩編で言われているような強固な力を発揮してきたのである。
そしてキリストがそのような力を持っているゆえ、そのキリストに結びついた者もまた、そのような力を受けてきたのである。

彼はわたしを慕う者だから
彼を災いから逃れさせよう。わたしの名を知る者だから、彼を高く上げよう。
彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答え
苦難の襲うとき、彼と共にいて助け
生涯、彼を満ち足らせ
私の救いを彼に見せよう。(詩編九一・1416より)

私たちが神を信じ、愛するときには神からの祝福が豊かに注がれる。そして多くの人にとっては、祈っても何の反応もないと思われている神が、生きた応答をして下さる。神が答えて下さるということは、人間の励ましなどよりもはるかに深い力と平安を与えられることである。それゆえ、この詩の最後に、魂の平安と満ち足たらせて下さることが約束されている。


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