リストボタン祈りの道    2007/3

光と水と祈り
聖書は祈りの書である。聖書は人間の意見や考え方、あるいは辞典類のようにさまざまの知識を書いているのではない。それはいかなる時代や状況にも決して変ることのない真理、すなわち神の言葉を記している。そしてその神の言葉は、神との深い交わりのなかで示されるものであり、その神との交わりが祈りである。それゆえに、聖書全体が祈りの書ということができる。
聖書を開くとその巻頭にあるのは、無限の混沌と闇であり、そのただ中に「光あれ!」と神が言われた。そうすると、ただちに光があった。
と記されている。
これは、人間がまだ一人もいない宇宙のはじまりの時であるから、誰かが実際に見てそれを書いたというのではないのはすぐにわかることである。とすれば、どうしてこのようなことがわかったのか。なぜ、宇宙創造のときの神の言葉という、人間の創造のはるか昔のことがわかったのだろうか。
それは、深い祈りのなかで啓示されたことなのである。祈りはこのように、聖書の言葉の背後にはじめから存在しているものであり、特に神に召された人たちの祈りなくば、こうした聖書もまた存在しなかったと言えよう。
そして、その最初の神の言葉の内容それ自体が祈りの心が込められている。神は愛であり、愛であるゆえにそのなすことは愛がしみ込んでいる。
混沌と暗黒の世界に、光あれ!という言葉はそのまま愛ゆえの祈りの言葉となりうる。私たちも神の愛を受けるときに、周囲の闇にある人たちの魂に神の光があるように、と祈る心が生れるであろう。
このように、聖書巻頭の有名な「光あれ!」という言葉は、深い祈りのなかで神から直接に啓示された言葉であるという意味で、祈りの賜物であるが、またそれは神に選ばれた人が、闇にある人たちのために祈る中心的な内容ともなっているのである。
聖書は不思議な書、驚くべき書である。宇宙創造のときの宣言が同時に祈りであり、愛の表現となっているからである。
神の愛、真実の愛とは、どのようなことを指すのであろうか。新約聖書において、主イエスは何と言われているだろうか。
主イエスは、愛といっても、「自分を大事にしてくれる人を愛しても、あなた方にどんな報いがあろうか。」と言われた。(マタイ福音書五・46
自分を苦しめる者、敵対する者が本当によい人間になるようにと心を注ぎだすような愛、それこそ「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」という教えに一致するものである。
敵とは、自分に悪意や中傷、攻撃など、悪を意図的になそうとする者であり、その最もひどい場合には、命まで奪おうとする。そのような人は、その攻撃を受ける者にとっては、闇のような存在である。そのような闇を持つ人間は滅んでしまえ、といった憎しみや反感はだれでもが持ちやすい。しかし、主イエスのご意志はそのような自分の存在を抹殺しようとするような者であっても、その者のためによくなるようにと祈る心こそ、本当の愛だと言われた。
そのような愛の心は、相手の闇の心に神の光が射すように、との祈りの心を生み出す。それゆえに、聖書巻頭の神の言葉、「光あれ!」はそのまま、敵を愛し、迫害する者のために祈る、その祈りの心そのものともなっている。
神が光あれ、と言われ、そのみ言葉によって現実に光があったからこそ、私たちは光あれ、と祈ることができる。もし、このような保証がなかったら、それは空を打つような祈りとなるであろう。それは確信の持てない祈りとなる。
主の祈り、それは御国がきますように、というのがその中心にある。御国、すなわち神の御支配が来るとは、光が来ることである。闇をも混沌をも支配される神であるゆえに、その御支配を表す中心的なものは、光をもたらすことができるということである。
主イエスが教えられた主の祈り「御国が来ますように」という祈りは、この創世記の冒頭の「光あれ!」という神の言葉にその根拠を持つのである。
その意味で、聖書の最初に記されている、「光あれ!」は、いかに祈るべきか、ということと、その祈りが究極的に聞かれるものであることを保証しているものと言えよう。
こうして本当の祈りの本質が冒頭に示されてから聖書は始まっていく。
つぎに創世記の第二章は第一章とは異なる創造に関する啓示であるが、そこでは、いのちの水が象徴的に記されている。第一章では暗黒と混沌があってそれらは人間の存在を根底からおびやかすものであった。そして第二章で、水のない荒涼たる大地があり、これもまた、生存の不可能な状況である。このような状況にあって、神はエデンというところに園を造り、エデンからの水は園を通ってそこから、全世界に分かれて流れ出ていた。ここにも、渇ききった世界をうるおすいのちの水が流れていた。神がいのちの水をきわめて重要なものとして位置づけていたのがうかがえる。そしてこのいのちの水こそ、主イエスがヨハネ福音書において特別に強調して語っていることである。そしてそれははるか昔の創世記に記されている驚くべき預言と言える。この二つのことは、最も重要なことであるゆえに、また私たちにとっての最も重要な祈りの内容となっている。このように、聖書ははじめから祈りが背後にあるのがわかる。

最初の人間たちの神との応答
祈りとは人間と神との応答であり、交わりである。そのような意味での祈りはどこに始まるのだろうか。それは、やはり創世記にある。
神と人間との最初の応答は、どのような内容であっただろうか。
それは、神とアダムとの次のような対話であった。

その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、
主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」
彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」
(創世記三・810

このように、アダムとその妻エバは、神の命令に従わずに、食べてはいけないといわれていた木の実を食べてしまった。それゆえに、神を恐れて隠れていた。そのようなアダムに神が「どこにいるのか」と呼びかけた。それに対してアダムは、「神を恐れている、隠れている」と答えた。これは、神との愛の結びつきどころか、神を仰いで罪の赦しを願うこともなく、神に顔をそむけ、木の間に隠れたのであった。
「どこにいるのか」という神の問いかけは、つねに私たちを探し求めておられる神の心を表している。放蕩息子の例、いなくなった一頭の羊のたとえも同様である。悔い改めとは方向変換であり、それは私たちを探し求めておられる神へと向き直ることである。
神は、それを最も喜ばれる。

言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない(と思っている)九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
「あるいは、銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。
そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。
言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」(ルカ十五・710より)
祈りとは、その私たちを探し求める神の方向に向き直ることがその本質にある。
しかし、聖書の最初にあるその応答は、神に向き直ることをせずに、隠れようとすることであり(創世記三・10)、また、「知らない」と言って、真っ直ぐに神を見ようとせず、心を開こうとしない態度である。
ここにすでに人間のかたくなな神への姿勢が表されている。
しかし、こうしたかたくなな態度は、そのまま私たちの姿勢でもある。神への正しい応答ができないということである。
聖書において、神との応答はこのような内容が最初に出ている。それは、人間全体の神に対する対し方を象徴していると言えよう。
このように、神と人間の初めての対話は、人間の側が神への恐怖をもったり、神からの愛の配慮をも断るようなかたくなさから始まっている。
神あるいは人間を超えたような目には見えない存在は、怒って災いを起こしたり、裁きや罰を与えるものだという考えが日本にはしみ込んでいる。
目に見えない存在に対して、ある種の恐怖を抱くこと、それは古代から現代に至るまで日本人に深く見られる。
現在も日本人の多くが、仏壇に食べ物などを供えるのは何のためなのか知らないで習慣としてやっている。それは、人間が死んだらある期間はさまよっていて、死者が何らかの霊的なものになって生きた人間にたたってくる、ということを恐れてのことなのである。死者の霊は、しばしば嘆き悲しんだり、恨みを持っていて、それがこの世に病気などを起こすと信じられた。日本最大の祭の一つである祇園祭もそのような怨霊のたたりを恐れるあまり、その霊をなだめ、慰めるために始まったほどである。
聖書においても、そのような正体不明の霊ではないが、神との最初の応答が、一種の恐怖がそこにあって、神の前に隠れようとすることであった。次に、聖書であらわれる神との応答は何であっただろうか。

カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。
主はカインに言われた。「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」
カインは答えた。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」(創世記四・89

聖書において、二回目となる神と人間との応答は、ここでも、「どこにいるのか」という言葉が神から投げかけられている。カインは弟を殺すという重大な罪を犯した。だが、神はいきなり彼を罰したり、厳しく叱責するのでなく、弟のアベルはどこにいるのか、という意外な問いかけをされたのである。もちろん神はカインが何をなしたか、アベルはどうなったのかも知った上でこのように言われたのであった。
先のアダムに対する言葉も同様で、食べてはいけない木の実を食べてしまうという、神の命令に真っ向から背く態度であったにもかかわらず、ここでも神は、ただちに怒ったり、罰を与える厳しい言葉でなく、「どこにいるのか」という、やはり意外な問いかけであった。
このように、聖書に記されている最初の神と人間との応答は、いずれも罪ある人間への神の愛の呼びかけであり、罪を犯した人間が、自分がどこにいるのか、あるいは、ひどい害悪を及ぼした相手がどうなったのか、を問いかけて、自ら立ち返るように仕向ける言葉なのであった。
しかし、人間はこの二つの場合に、いずれも心を堅くし、神の前に自分の罪を言い表して赦しを乞うというのでなく、神から隠れていくことであった。
 カインの場合は、殺した相手がどこにいるのか、という問いかけに答えて、「知らない。私は弟の番人なのか」という偽りと神への反抗的な言葉を返したのである。
いかに人間が真実に反する存在であり、神の愛をかたくなに受け入れようとしない存在であるかがこうした二つの記述に示されている。
聖書の記述は大昔の単なる神話的な話だと思われるような表現の奥に、深い人間の罪と神の愛を描き出しているのである。
神との応答こそは、祈りであるから、この創世記の記述は、祈りの最初の形と言えよう。
 しかし、それがこのように、罪深い人間であることは祈りにおいても露呈している。
現代においても、人間は祈るといっても、神の御前にすべてを表さないとか、心を閉じたまま、形式的に祈るとかして神との真実な交わりとなっていないことも多いと考えられる。
聖書ではこのアダムやカインの記述のあと、彼らの子供たちの時代、「主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである」(創世記四・26)という短い記事があり、祈りの萌芽のようなものであったのがうかがわれる。
その後には、エノクという人物が現れ、「エノクは神とともに歩み、神が取られたのでいなくなった」(同五・24)というやはり短い一文がある。神と共に歩むということは、祈りなくしてはできないことであり、祈りの人であったことがうかがわれる。しかし、ここでも、エノクの祈りの具体的な言葉は記されていない。
そうして、次にノアの記事が現れる。しかし、神はノアに語りかけるだけで、やはりノアはどのような祈りを神に捧げたのかは記されていない。人間の罪が裁かれて大洪水が起こり、その裁きに神を仰いで生きていたノアとその家族や動物たちだけが救われたとあるが、長期にわたる洪水が引いたそのあとで、ノアは自分たちだけが救われたことへの大いなる感謝があったと思われるが、聖書には、「ノアは主のために祭壇を築いた」と記されているだけである。ノアがどのような言葉で祈ったかは全く記されていない。

祝福の祈りと讃美
このような祈りに関する記述のあとに、アブラハムが現れる。彼は、現在のイラクの南部地方にあたる、カルデアのウルにおいて神からの呼びかけを聞いた。「あなたは生れ故郷、父の家を離れて私が示す地に行きなさい。私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、祝福の源となるように。」(創世記十二・13より)

この言葉を聞いたアブラハムは、「主の言葉に従って旅立った」と記されている。これは本当に神の声なのか、他の人はそのような唯一の神など知らないのであったろうから、ノアがそうであったように、神の声に従って住み慣れたところを離れて、はるか遠くへと旅立つなどと言うと、周囲からはあざけられ、変人扱いされたかも知れない。
長い間過ごした地、慣れ親しんだ親族たち、生活の仕方も慣れていたその地からはるか遠くへと、何の目にみえる保証もなく、旅立っていく。その途中でどんな困難が生じるか分からない。悪い人間に襲われるかもしれない。同行者や家畜などの病気や天候の異変によって道に迷うこともある。水や食糧がなくなったり、奪われたりすればそのまま死に至る、そればかりか、神から示された目的地にたどりついたとしてもそこにはすでに別の民族が長い間生活している。水や牧草があるような生活に都合のよいところはすでに人々が住んでいるはずである。遠いところからやってきた未知の人たちによい土地が与えられるという保証は何もない。水がなければたちまち死に至るような乾燥地なのである。
このようなさまざまの前途の危険性や困難を考えるならば、それはよほどの強力な力が働かなければそのような決断はできない。アブラハムはそのような力を受けたからこそ、出発し、ついに示された地にたどりついたのである。
しかし、このようなアブラハムの決心のときに、どれほどの祈りがあったか、それは一言も書かれていない。さらに旅立ってからのカナンまでの千七百キロにも及ぶような長大な旅の途中にいかなることが生じたのか、またその困難をいかにして乗り越えたのか、それらも一切記されていない。
そのような沈黙の記述にあって、はっきりとした祈りの言葉がそのアブラハムに関連して現れる。
それは次のような祈りである。

神の祭司であったサレムの王メルキゼデクもパンとぶどう酒を持ってきた。
彼はアブラムを祝福して言った。
「天地の造り主、いと高き神に
アブラムは祝福されますように。
敵をあなたの手に渡された
いと高き神がたたえられますように。」
アブラムはすべての物の十分の一を彼に贈った。(創世記十四・1820

これは、すでに見てきたようにそれまでの聖書に書かれている積極的な内容を持った祈りの言葉が、ほとんどない状態であったのに対して、初めての明確な内容を持っている祈りである。
まず、祈りに天地の創造主である高き神、という言葉がある。これは現在の世界のキリスト者の祈りにもしばしば含まれる言葉である。私たちが正しく祈るためには、祈る対象の神がどんな存在であるかをまず明確にしておかねばならない。
この世のことでも、私たちは相手を見て使う言葉や願い事を言う。相手が心の冷たい、愛のないような人間に、だれも自分の苦しみを訴えたり助けてほしいと願ったりしないだろう。
同様に私たちも祈りの対象である神がいかなるお方かを正しく知って初めて正しい祈りをなすことができる。私たちがまず知っておかねばならないのは、この祈りにあるように、神が天地を創造された高き神、人間のあらゆる汚れや思惑に左右されない神だということである。そのような神であるからこそ、願いを聞いて下さることが可能となる。
次にこの祈りは、「アブラムが祝福されますように。」という内容である。
この祈り、他者への祝福を祈ることこそは、現代の私たちにとっても中心にあるべき祈りだと言えよう。結婚式などで、「みんなの祝福を受けて式をあげた」といった言葉が使われるが、人間が、誰かを祝福することなどは本来できないことである。祝福されるとは、単に健康であったり、家族がやさしいとか、仲良くしている、長寿であるなどということではない。それらは祝福の内容のある部分にすぎない。祝福されるとは、そのようなすべてが与えられていなくとも、その孤独や貧しさ、病気などにもかかわらず、不思議な力がその人に与えられ、それら欠けたところを補うばかりか、それらの欠乏を強力なバネとして乗り越えていく、それらの苦しみや困難を霊的な栄養源として、新たな力を与えられ、安楽な生活であったら決して登ることのできなかった高みへと引き上げられていくことである。
そのような真の祝福された状態は聖書にも多く記されている。

弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。
年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる。
しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。(イザヤ書四〇・2931

これはまさに神によって祝福された状態を表す表現である。
さまざまの困難や悩み、苦しみによって人は弱り、立ち上がれないほどの状況にもなる。家族や職場の困難な人間関係、あるいは病気や死の近い状況になればなおさらである。若いときに元気で活動していたような者であっても、年老いてくると職場も家庭も遠くなり、淋しさが陰のように覆ってくる。しかし、私たちが神の祝福を受けるときには、そうした死の陰の谷であっても、そこを越えていく力が与えられていく。

主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
主はわたしを青草の原に休ませ
憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。
死の陰の谷を行くときも
わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖
それがわたしを力づける。(詩編二三編より)

祝福を受けるとはこのような状態になることであり、私たちが隣人を愛するとは、相手の人にまさにこのような祝福が与えられるように、と祈ることなのである。悪人といわれる人間であっても、そのような人に神の祝福が与えられるなら、悔い改めて真っ直ぐ神の赦しを求め、そして罪の赦しが与えられ、この詩のような祝福された状況へと導かれるであろう。

次にこのメルキゼデクの祈りは、もう一つの重要な内容を含んでいる。

「敵をあなたの手に渡された
いと高き神がたたえられますように。」

それは、神がたたえられるように、との祈りである。その神への讃美の心は、何から由来するかといえば、敵への勝利のゆえであった。主イエス以降の時代においては、それは敵対する人間への勝利でなく、その悪意ある人間の内に宿る悪そのものに対する勝利を意味している。
神が悪の力を退けられた。そこに神への讃美の源がある。
このように、メルキゼデクという神秘的な人物の祈りには、人への祝福と、悪に勝利される神への讃美が含まれている。この二つは、その後の祈りにおいても、基本的なものとなり、原型となったと言えよう。
聖書に記されている神は、悪に勝利する神であるということは、聖書の重要なテーマになっている。それゆえに、主イエスは、次のようにはっきりと啓示を受けたことが記されている。

イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見た。」(ルカ十・18

また、主イエスが最後の夕食のときに、深い内容を持った教えを語られたが、その終りに言われたのも、このことであった。

これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ十六・33

「世に勝っている」とは、この世の力、すなわち悪の力に勝利していることを述べているのであって、十字架にかけられる直前になされたこの教えの最後に悪に対する勝利のことを述べてその長い教えが終わっているのも、この問題がとくに重要だからである。
そして、聖書の最後の黙示録にあっても、やはり根本的なテーマは悪の力に対する勝利なのであり、世の終わりには、「悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた。」(黙示録二十・10)と記されている。
このように、メルキゼデクの祈りには、はるか後までずっと聖書の最大のテーマとなり続けていった内容が含まれていると言えるのである。キリストの十字架による罪のあがないということも、サタンの力の現れでもある罪の力に対する勝利に他ならない。

事実、詩編には、次のように神への讃美が最終的な人間の姿であることを指し示して、その一五〇編の詩が締めくくられている。

力強い御業のゆえに
神を讃美せよ。
大いなる力のゆえに
神を讃美せよ
息あるものはこぞって
主を讃美せよ。(詩編一五〇・26より)

メルキゼデクという人物は、旧約聖書全体でも、二カ所しか現れない。(もう一つの箇所は、詩編一一〇~4)しかし、新約聖書では、とくにヘブル書において五章から七章にわたってメルキゼデクはキリストを指し示すような存在として詳しく記されている。

メルキゼデクという名の意味は、まず「義の王」、次に「サレムの王」、つまり「平和の王」です。
彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です。(ヘブル書七・23より)

このように聖書において最初の重要な内容を含んでいるこのメルキゼデクの祈りは、メルキゼデクが、キリストを預言する存在であるゆえに、神の直接的なご意志がそこに感じられる。
 このヘブル書の箇所にもあるように、とくにヨハネによる福音書において、キリストは永遠の昔から存在しており、生涯の初めも、命の終りもない、神の子だと記されている。
このメルキゼデクから千七百年ほども後になって、キリストが現れ、主の祈りという祈りの最も深い内容を示されたが、その中には、「御国がきますように」、というのがある。それは「神の王としての支配がきますように」、ということであり、悪の力が追いだされるように、という祈りを含んでいる。
以上のように、創世記におけるメルキゼデクという存在が、はるか後のキリストを指し示す存在であるゆえに、その祈りもまた、キリストの祈りを含む重要な内容となっている。

とりなしの祈り
次に、やはり創世記における特に重要な祈りがある。それは、アブラハムによってなされたものである。これはアブラハムの記事が聖書では、二十四頁にわたって詳しく書いてあるにもかかわらず、彼が祈ったその内容は次にあげる場合以外は全く記されていない。とくにアブラハムにとって、最大の試練であった、一人子イサクを神にささげよ、との神からの言葉に対して、どれほど悩んだか、その苦しみやそこからの祈り、神への叫びは何も記されていない。その命令を聞いてからかなりの距離を息子と共に歩いていく間も、彼は祈り続けたであろうが、その祈りも全く記されてはいない。
そのような沈黙のなかで、次にあげる祈りは、とくに詳しく記されており、この祈りの重要性がそこに浮かびあがってくる。
それは、正義や真実に反したことを続けて、堕落しきったソドムとゴモラの町々が神の裁きを受けて滅ぼされるというときに、アブラハムは心を注ぎだして神に祈った。

「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。
あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。
主は言われた。「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」
アブラハムは答えた。「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます。
「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その十人のためにわたしはその町を滅ぼさない。」(創世記十八・2332より)

このように、聖書におけるアブラハムの長い記述のなかで、唯一詳しく神との応答(祈り)が記されているのが、このとりなしの祈りである。滅びようとする人々、そのためにアブラハムは懸命になってとりなしの祈りを神に訴えた。
普通の人間的感情からすれば、悪に悪を重ねて堕落しきったような人たちは、神の裁きがあって当然だ、やっと彼らも裁かれるのだと、むしろアブラハムとは逆に、そうした悪人や汚れた行為にふける人たちへの裁きを待ち望み、喜ぶというのが自然な感情であろう。
しかし、アブラハムは全くそのような普通の気持ちとは異なっていた。正しい者たちだけを救ってください、という願いなら、誰でもが持つ願いである。ここで注目すべきは、少数の正しい者の存在によって、その町のすべての人たちが赦されることを願っていることである。
旧約聖書は、裁きの書だと言われることが多いし、そのように思っている人は多数にのぼるだろう。しかし、意外なことに、旧約聖書の創世記のはじめの方にこのような、罪を犯した人々への赦しを請い願う深い祈りが記されているのである。
これは、アブラハムの二十四頁にわたる詳しい記述のなかで、他にもいろいろの困難があったであろうのに、その時の祈りは記されておらず、ただこのとりなしの祈りだけ、念入りに詳しく重複をいとわずに書かれている。(すでに引用した部分はその一部)
それは、この祈りの重要性を示すものである。真実なる神に背き、悔い改めようとはしない人々への裁きでなく、赦しを願うということ、ここには、はるか後の新約聖書のキリストの精神を思わせるものがある。
ここでは、わずかに十人の正しい人がいたら、その町の人たち全体を赦そう、と神は言われた。しかし結局、その町には十人もいなかったゆえに、滅ぼされていったのである。
この少数の「正しい者」がさらにわずかに一人であっても、その一人のゆえにすべての人々を赦そう、というご意志がキリストによって表されることになった。キリストの十字架の死とは、まさに人間全体へのとりなしの祈りのゆえの死であったと言える。
このアブラハムのとりなしの祈りの異例ともいえる詳しい記述は、神がキリストを指し示すために書かせたということができる。
このようにして、聖書で初めてのはっきりした祈りは、キリストを暗示する存在であったメルキゼデクの祈りと、キリストのあがないの死の意味を指し示すアブラハムのとりなしの祈りという二つであるが、それがいずれもキリストを指し示すものとなっているのである。
このようなところにも、聖書という書物はじつに深い洞察と見通しをもった書物であるのがわかる。
このようにして、すでに旧約聖書の創世記において、真の祈りの内容が啓示されていて、祈りの道は明確なものとされたのであった。

祈りの書、詩編
こうした真実な祈りの道は、その後ずっと続いていく。それが主イエスへと通じていくのであるが、その間で、特に祈りの大道ともいうべき新たな段階が聖書に示される。それが祈りの書というべき詩編である。詩とは、ふつうは人間の感情を韻律をもった美しい言葉でつづるものである。それは苦しみや悲しみ、美しいものへの感動といった人間の個々の感情であるにもかかわらず、聖書においては神の言葉として位置づけられている。それは意外なこと、不思議なことに見える。人間のそうした感情がいかにして神の言葉でありうるのか、私が初めて詩編に触れたときにまず疑問に思ったことであった。
人の苦しみや叫び、嘆きを書いたものであろうとも、神に訴え、神からの救いを得て新たな確信に導かれる、その死に瀕したほどの苦しみからの救いによって、悪の力に勝利したその喜びが詩編の内容になっているのも多い。
また苦しみの叫び自体が、そのような苦しみを通って神の国へと導かれるのを指し示すことも多い。主イエスが、十字架上で最後の叫び、「我が神、わが神、どうして私を捨てたのか(エリ、エリ、ラマ サバクタニ)」(マタイ二七・46)は、詩編二二編の冒頭の神への叫びそのものである。
このことは、詩編二二編のその箇所が、キリストの預言になっているのを示す。このように、詩編に記されている人間の叫びや助け、救い、そして讃美は、背後に神がおられて、人のそうした叫びや讃美を用いて、神のご意志を行われる手段としておられるのである。
それゆえに、詩編には神のご意志が深く存在しており、それゆえに神の言葉なのである。神ご自身が人間を通して語っておられるからである。
詩編には、あらゆる祈りがある。
最初には詩編全体の要約というべき詩が置かれている。その一部を次に引用する。

ああ、幸いだ!
主の教えを愛し、
その教えに昼も夜も心を注ぎだす者は。
悪しき者は風に吹かれるもみ殻のよう。
その道は滅びに至る。(詩編第一編より)

こうした確信は祈りの中で啓示され、祈りのなかで、このような確信がさらに強められるようにという祈りがなされる。
それに対して次に示す第二編は、国々とか地上の王、支配者といった政治的、社会的な言葉が現れるので、個人の心の嘆きや苦しみとは大きく違った内容と感じられるであろう。

なにゆえ、国々は騒ぎ立ち
地上の王は構え、支配者は結束して主に逆らうのか。
天を王座とする方は、彼らを嘲り
彼らに宣言される。
「聖なる山で、私は王を即位させた」と。
主はわたしに告げられた。
「お前はわたしの子
今日、わたしはお前を生んだ。
わたしは、国々を、地の果てまで、お前の領土とする。
お前は鉄の杖で彼らを打ち
陶工が器を砕くように砕く。」(詩編第二編より一部省略して引用)

これは、世界全体にたえずわき起こる政治的混乱、戦争、支配のただ中にあって、そうした出来事のすべてを支配されている聖なる神がおられるという確信が込められている詩である。さらに神はわが子というべきメシアを使わしてそのメシアに人間的なあらゆる権力や野望を打ち砕く力を与えることが預言される。これはそのまま、新約聖書のキリストの預言となっている。
これは、普通にいう詩とは大きく異なっている。これは信仰的確信である。それはしかし、祈りと深くかかわっている。世界がいつの時代にも混乱と人間の権力欲、物欲によって荒れているさなかに、そうしたあらゆる動きを天から見つめ、支配なさっているお方がおられる、それは深い祈りの中において初めて啓示されるものである。祈りがいかに表面の動向を越えて高みから見ることができるかをこの詩ははっきりと示すものである。そしてこのような世俗の動きに超越した確信を持ち続けるためには、やはり祈りの心が不可欠である。絶えず祈る心であって初めて、この詩編のような世界全体の動きに関する確信が与えられる。

次にそれに次ぐ第三編の詩は、第二編とは大きく内容が異なっている。

主よ、わたしを苦しめる者は
どこまで増えるのでしょうか。
多くの者がわたしに言います
「彼に神の救いなどあるものか」と。
主に向かって声をあげれば
聖なる山から答えてくださいます。
救いは主のもとにあります。あなたの祝福が
あなたの民の上にありますように。
これは、第二編が社会的、政治的な問題とも深くかかわるのに対して、全く個人的な苦しみの詩である。このように、全世界を視野におさめたような詩のあとに、一人称「わたし」の苦しみのみを主題とし、その耐えがたい苦しみから救い出して下さった神を讃美する詩である。これは私たちのだれにも親しみやすい詩である。この詩も苦しみを神に叫ぶということがすなわち祈りであり、そこからの救いが与えられたことも、その祈りの結果なのである。
以上、簡単に、詩編の最初の三つを見たが、そこにはいずれも深い祈りの心が息づいている。こうした詩を読むにあたっても、祈りなければこのような詩編は心に入ってこないであろう。それはあらゆる表面的な動きにもとらわれず、祈りのなかで神にのみより頼んで啓示された内容だからである。
こうして、詩編はその全体がさまざまの祈りの集大成となっていて、旧約聖書の心臓であるといわれるのも当然といえよう。

キリストの祈り
旧約聖書の祈りは、しかし一つの不十分な点を持っていた。それは敵対する人たちへの祈りが欠如しているということである。敵対し、滅ぼそうとする悪の勢力を裁き砕いてください、という必死の祈りは多く見られる。それはまた自然なことであろう。命までねらおうとする者たち、戦争で実際に殺されそうになる危険のただなかに置かれるとき、どうかその敵を砕いて下さい、と願い祈るのは自然なことであった。
しかし、主イエスはその自然な人間の敵や悪人への心が、さらに深く、高くされることを明確に示された。それが、次の祈りの教えである。

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。
しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。
自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。(マタイ福音書五・4346

これは、祈りの道の究極的な姿であり、到達点である。それゆえキリスト教史上で初めての殉教者となったステファノという人は、この祈りをもって地上での最後の言葉となした。

こうして、彼らがステファノに石を投げつけている間、ステファノは祈りつづけて言った、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」。
 そして、ひざまずいて、大声で叫んだ、「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」。こう言って、彼は眠りについた。(使徒言行録七・5960

 敵とは自分に害悪を加えようという悪意を持った者である。そうした人を憎むのは自然の情であるし、戦争のときなどは敵を憎めと命令するのが当然となる。太平洋戦争のとき、アメリカやイギリスのことを鬼畜米英などと表現したのも、その憎しみを煽り立てるためであった。
戦勝祈願として、日本が米英や中国などの敵を打ち負かすことを国民全体が祈る。それがこの世の通常の姿であり、そうした祈りの道は闇であり、破局へと向かう。
そのような人間の混乱のただなかで、いかなる時代や思想、そして人間の感情に動かされることなく、この主イエスが示された祈りの道は聖なる道として続いている。
このような祈りの道は、星が地上の何者によっても汚されず抹殺されないのと同様にやはり私たちのすぐ近くから伸びている。それは歩けないような高い道であるが、ただキリストの力を受け、キリストに結びついているときに初めて、この道を少しばかり歩み始めることができるようになるだろう。
この敵への祈りを含みつつ、さらにすべての祈りを含んだ広く深い祈りの心は、主が示された祈りである。

御名が聖とされますように。
御国が来ますように。
御心が天に行われるとおり
地上でも行われますように。 (マタイ福音書六・910

これは、祈りのなかの祈りである。これにすべてが含まれている。この主の祈りの全体の説明はここでは省いて、そのなかの「御国が来ますように」という祈りを取り出してみたい。
御国、すなわち神の王としての御支配が来ますように、という祈りは、悪が退けられるようにとの祈りを含むものであり、主イエスが教えられた、悪人のために祈る心である。悪人といえども、その魂から悪の力が追いだされるならば、よき人になる。新約聖書にも、七つの悪霊にとらわれていた女が主イエスによって解放されたことが記されている。十字架刑という極刑でさらしものにされたような重罪人であってもイエスを信じることで、息を引き取るまぎわによき人になった例も記されている。
私たちは、悪人のためにも、またよき人のためにも、病人にも、死の近い人、そして信徒の集まりや国家、社会においても最も必要なのは、真実で清い神の御支配が及ぶことである。
この祈りこそは、私たちが絶えず祈ることのできる祈りである。試みのときも、喜びのときも、また人から中傷され、捨てられるときも、常に私たちの心はこの祈りをもって満たすことができる。
それゆえに、このような祈りの道は、途切れることのないものとなる。

絶えず祈れ。
すべての事について、感謝せよ。
これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。
御霊を消してはいけない。
テサロニケ五・1619

暗い夜道を歩くには、明かりが必要である。私たちも正しい祈りの道を歩くためには、そのようなともしびが不可欠となる。それが聖なる霊である。御霊を消してはならない、という聖書の言葉は、その聖霊こそが、暗夜を歩く祈りの道を導くものとなるからである。
聖なる霊を受けるには、使徒言行録にもあるように祈りが不可欠であり、祈りなくばせっかく与えられた聖霊も消えていく。
聖霊が内で燃え続けているかぎり、私たちは形式的な祈りや、心にもないことを祈るような不信実な祈りからも守られる。 そうして天の国へと続く祈りの道を正しく導かれ、歩み続けることができる。
神は愛である。そしてその神は万物を創造された。それゆえに、愛の神が創造したものは、みな神の愛が込められていると言えよう。
人間においても、愛の深い人は、その考えること、なすことはすべて愛のゆえになすであろう。何かを作ってもそれはだれかの心に愛を届けたいと思うゆえである。
神は無限の愛の存在であるゆえに、神がなされることは、すべて深い愛ゆえのことだと言えよう。それゆえに、私たちの周囲にあるさまざまの自然、月や星、青く澄み、夕暮れには茜色に染まる大空、そこに浮かび時間や季節によってさまざまの形や色彩を見せる雲、はるか遠くまで連なる山々、そして身近な野草、樹木、小鳥たちやいろいろの動物、昆虫たち、そうしたものはすべて神の愛ゆえに創造されたものだということができる。
そしてその愛は人間だけが、目に見えない神への感謝を表すことができる。背後の創造されたお方を見つめることができる。人間が動物と根本的に違うのは、このような目には見えない存在、視覚や聴覚、触覚、嗅覚など感覚で全く捕らえられないものを、実感することができるという点にある。
美しい自然、それは私たちが正しい祈りの道を歩むことができるようにとの、神の愛の御配慮なのである。
このように、聖書の全体を通して、そしてキリスト・イエスを通して、また、神が愛を持って創造された天地万物によっても、祈りの道は示されているのである。


音声ページトップへ戻る前へ戻るボタントップページへ戻るボタン次のページへ進むボタン。