リストボタン学ぶことと愛すること    2007/4

学ぶとは、前進であり、たえず新しい価値あるものを取り入れていくことである。学ぶことをしなくなったらその人の魂は枯れていく。職業を持っている間は、必要上、いろいろな新たな知識や考え、対応が必要なので、何らかの学びをせねばならない。それが老化を防ぐことにもなっている。しかし、退職し、年老いてくると時間もお金もあるが、学ぶことが全くなくなり、それゆえに枯れていく場合が多い。
老齢化の拡大につれて、人間の魂が枯れていく風景がさまざまのところで見られるようになるだろう。仕事がなくなる、病弱になる、孤独になる、好きなことができなくなる、こうした老齢化のゆえに学ぶことが必要なくなってその精神が停滞し、退化していくこと、それこそ老人問題の根本問題だと言える。
もし、学ぶことを継続できるなら、そこには魂への活性化があり、心に緊張感が生れる。
いかにしてそのような前進的な学びを継続できるだろうか。
ゲーテは、学びについてこう言った。

「人はただ自分の愛する者からだけ学ぶ。」

この言葉には、共感を持ちつつも、疑問を感じる人が多いだろう。例えば車の運転技術を自動車学校で学んだが、その際に教えた人を愛しているなどは全くなかったというのが大多数であろう。また、たいていの人は、数学、国語、英語等々の教科で別に教師を愛していなかったが、それなりに学んできたという人は多いからである。
しかし、教師が差別することなく、できないものにもエネルギーを注ぎ、一人一人を大切にするような人であれば、当然生徒もその教師を愛するようになり、一層その習得はすみやかになることは確実である。
そうした知識とか技術とかでなく、人間の本質にかかわること、真理とは何か、永遠に変わらないものとは、心の真実さ、何が価値あるものか等、目には見えない真理にかかわることについては、愛し敬っている者からでなければ学ぶことはないだろう。相手が愛のない人であれば、他の点では能力のある人であっても、彼から愛を学んだりすることはないからである。
それゆえ愛と敬意を持つことができる人を持たない場合、真理にかかわることを十分に学ぶことができないことになる。たしかに、家庭や学校で愛を受けなかったために、愛する人を全く持たない子供は、真実や正しさにかかわることを学ぶことができないゆえにいじけていく。
また、老齢化して家族も周囲にいなくなり、愛する対象がいなくなるという状況が、多くの老齢化とともにやってくる。愛を働かせる相手を持たなくなったとき、人は学ぶこともなくなってしまい、魂は前進をやめて枯れていく。愛と学びの心は不可分に結びついているからである。
そうした家庭や学校、あるいは働きの場、さらには老齢化での恵まれない状況にある人たちが昔から無数にいるからこそ、 神はどのような場にあっても、愛を受けることができるようにして下さったのである。そのためにはただ、愛と創造の神を信じさえすればよい。私たちが幼な子のような心、真っ直ぐな目をもってその神を仰ぐときには、神はその愛を私たちに注いで下さるようになる。
もし人がそのような神の愛を実感するなら、周囲のさまざまの人間や自然、出来事はその愛する神が深い目的をもって創造され、今も背後にて動かしておられると信じるのであるから、それらすべてが学びとなってくる。ある人間がよくない人であっても、その背後に愛する神がおられると思うときには、その人間に対する忍耐を学びとることができる。敵対してくる人からでも学ぶことができるようになる。
本当の魂の学びは、小中高校、大学や家庭、あるいは職場などがあるからでも能力があるからでもなく、神の愛を受けるところでなされる。
それゆえに、主イエスは、最も重要なことは、「神を愛すること」、そしてその愛を受けて、「人を愛すること」と言われたのであった。


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