巻頭言

神は人の歩む道に目を注ぎ
その一歩一歩を見ておられる。

(ヨブ記三四・21


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早朝、まだ暗いときから風が吹いている。時折の小鳥の声を乗せて、またあちこちで木々や葉を鳴り響かせながら吹きわたっている。夜の闇に、また光に満ちた昼も、あるいは藪のなかにも、高い梢をも、さらに高く雲の流れるところも、風はどこにでも吹いていく。
そのように、神の国からの風は、私たちの小さな心にも、また病や孤独に悩み、人間同士の憎しみや悲しみのなかにも吹いていく。
そしてその風に触れた者、受け入れた者は、変えられていく。

風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。(ヨハネによる福音書三・8

聖書には、その巻頭の創世記においてこの風(*)が現れる。全くの混沌と暗黒のなかにあって、神の霊的な風が吹いていたことが記されている。
(創世記一・2
*) 聖書の原語であるヘブル語でもギリシャ語でも、霊という語と、風という語は同じであって風は霊を暗示するものとなっている。

現代においても、神の国からの風(聖なる霊)を誰が受けるか分からない。それは人間の思いを超えたところで神がなされる。私たちはただ祈って待つ。自分自身の魂のうちに、そして闇と混沌のなかにある人たちの魂、さらにこの世界にそのような風が吹き続けるようにと。

信望愛と、求め、捜し、門をたたくこと

「信仰は求め、希望は捜し、愛はたたく」という。
私自身、若き日に神とキリストを信じて初めて目に見えないよきものを求めるようになった。そして神が与えて下さるという希望をもって、より深い真理を探し求めるようになり、さまざまのよき書物と、その書を書いた過去の人物や、現在生きている人たちとの出会いが与えられてきた。そしてさらに神が私の魂を愛をもって叩いて下さっているのが少しずつ分かり始めた。
見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をする。
(黙示録三・20
主とともに食事をする! このようなことを誰が本気で考えたりするだろう。しかし、そのような驚くべき恵みが、求めるなら誰にでも与えられると約束されているのである。
そしてその恵みを与えられた者は、受けた神からの愛をもって、身近な一人、二人の心の扉をたたき続けるようになるであろう。

小さな世界からの脱出

妻が古い苔むした水瓶にメダカを飼っている。餌を上からまいてやると、喜んで食べる。メダカたちはその小さな水瓶の世界を小さいとも知らずにそこが自分の世界として満足しているように見える。
人間も宇宙からみれば、この水瓶よりはるかに小さな世界である地球のそのまたきわめて狭いところに、そのうえ自分という小さなものに縛られて生きている。そしてそれが小さいということも自覚していないことが多い。
さらに、目には見えない広大な霊の世界においても、私たちはやはり自分という小さく狭い世界に生きていて、水瓶の中のメダカのようなものである。
しかし、私たちはメダカと違って霊的存在であり、神に導かれ、その霊を注がれることによってこの水瓶のような小さな世界から脱して広大無辺の世界へと導かれて行くことができる。
「希望とは、何と勇敢な能力であろう。それは一瞬にして無限、永遠をわがものとしようとする。」と言った思想家がいるが、キリスト者にとって希望とは、単なる夢や空想でなく実現される事実なのである。
「ああ、幸いだ、心貧しき者たちは! 天の国はその人たちのものである。」と主イエスは言われた。貧しき心とは、自分の罪深さを知り、何にも頼ることができないことを知っている幼な子のような心を意味する。そのような心でただ、神を仰ぐだけで私たちに神の国という無限のもの永遠のものが与えられるという約束なのである。


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