リストボタン主と同じ姿に―千の風ではな    2007/9

最近「千の風」という歌が知られている。死という最も人間の心に強い刻印を押す出来事をどうとらえたらいいのか、死後はどうなったのか、だれも確実なことは言えないその死後のことを、詩的に歌ったものである。
とくに日本人においては、死後の魂は不安定な存在であって、生きている人に害を加える恐れがある。その害を防ぐために、供養をすればその魂は安定した祖先の霊となって子孫の繁栄を見守るのだ、という民族的信仰がある。
また、何らかの事故や戦争など、あるいは家の外で死んだような場合には、その死者の魂は怒ったり、悲しんだりしているであろうと推測し、そこから、そのような霊を慰めるということ、つまり「慰霊」という言葉がよく使われる。
第一次世界大戦の後(一九一七年)、徳島県鳴門市大麻町に千人ほどのドイツ兵の俘虜収容所が作られ、そこでベートーベンの第九交響曲が日本で初めて演奏されたことは知られている。その収容所は三年足らず続いたが、そこで亡くなった一部のドイツ兵士たちの「慰霊碑」がある。(なお、これは、徳島県の文化財に指定されることになった。)
しかし、そこに刻まれた原文は、「慰霊」すなわち死者の魂を慰める碑ということでなく、ZUM GEDENKEN AN DIE SOLDATEN … と記されており、それは、「…兵士たちへの記念のため」という意味であって、死者の魂が恨んだり悲しんでいるから、それを慰める、などといった意味ではない。
それは、彼らを記念し、その存在や働きを覚えて後に残った者への何らかの導きとするためなのである。それは、彼らの苦しみが不当なものであったなら、それを残された人たちが覚えてそのようなことが生じないように努めるための記念であり、また彼らが生きた有り様がよいものであったなら、それを覚えて模範とし、導きとするというための記念なのである。
だれかのことをすぐに忘れるということは愛がないということを表している。深い愛を持っているほど、相手のことをたとえ死んでもずっと覚え続けているからである。わが子が突然の事故で無惨な死に方をしたという場合、その子どもを愛していればいるほど両親はずっと覚え続けるであろう。
しかし、周囲の人、知人たちはまもなくそのことは忘れてしまう。 愛とは心に刻みつけることであるから、遠い異国で死んでいった人たちを愛する人たちがその人たちを覚えるため、またそれを見る人が彼らのことを思いだしてほしいとの愛からそうした記念がなされる。
慰霊ということは、死んだ人たちがみんな哀しんだり、うらんだりしているなどと勝手に想像して決めて、そうした死者の霊を慰める、というのは何等はっきりした根拠のないことであり、死者は十分に地上での生を生きて、それを感謝して地上の生を終えたかもしれないのである。
そして御使いのような清められた存在となっている霊も有りうる。そのような霊なら、地上の人間が慰めたりするなどは全く必要ないのであり、逆にそうした御使いのようになった霊に私たちが励まされ、慰められることも可能なのである。
しかし、日本人は、このように、死者の霊は、生前に受けた苦しみや悲しみのゆえに怒ったり、悲しんだりしているとみなすのが多く、それゆえに、死者の霊ということがもちだされると、「慰霊」ということになる。
このような、どこか重苦しい死後の魂に対する見方は、仏教、神道の双方にある。神道の基本的な規範とされているのが、古事記、日本書紀などである。その古事記のはじめの方に、イザナギとイザナミという神々のことが書いてある。
妻のイザナミが死んだので、夫のイザナギが死者の国である黄泉(よみ)の国に行って、妻の姿を見た。それは、まっ暗な中に見たイザナミのからだには、ウジが全身をはい回っていて、イザナミのからだのあちこちからいろいろな雷神が生れているという異様な光景であった。イザナギはこの有り様を見て、恐怖に凍りついたようになり、恐れおののきながらそこから逃げ出した…
(「古事記・黄泉国」 新潮日本古典集成 三七頁〜、福永武彦訳の口語訳―河出書房新社刊、角川文庫の武田祐吉訳など参照)
 このように、死者の魂は何か暗いところ、哀しみや恨み、怒りなどを持っているというのが日本人の一般的なイメージとなっている。古事記に記されている、「死者は汚れている」、という考え方は、現代でも葬儀から帰ると塩を使うなどに現れている。
死者の霊というと、幽霊、亡霊といった言葉が連想されるほど、日本人には死者の霊は何か得体の知れない暗いイメージがつきまとっている。
「千の風」という歌が日本においても広く知られるようになったのは、こうした日本人独特の死者への見方があまりに重苦しく暗いものであったことがその背景にある。それは、すでに述べたような古代からの日本人の死者観とは著しい対照となっている。それは明るさと清いイメージに満ちているからである。
その原文の訳を引用する。
………………
私の墓で、立って泣かないでほしい
私はそこにいない。私は眠ってはいない。
私は吹いている千の風なのだ。
私は雪の上にあるダイヤモンドの輝きなのだ。
私は熟したぶどうに注ぐ太陽の光だ。
私は秋のやさしい雨なのだ。
私は、弧を描いて飛翔する静かな小鳥たちだ。
私は、夜に輝く柔らかな星々だ。
私の墓の前で立って泣かないでほしい。
私はそこにいない。死んでいないのだ。
………
この詩の内容とキリスト教信仰との関係はどうなのだろうか。
まず、その前に、この詩は直感的に多くの人たちに、死という暗いイメージから解放するようなものを感じさせるために受け入れられたのであろう。
しかし、次のような疑問が生じる。
まず、死者は死んでいないで風となり、雨となり、また雪や太陽の光となるという。さらに小鳥となったり、星の光にもなっているという。 これは美しくまた清いイメージのものばかりである。
けれども、今吹いた風はだれの生れ代わりの風なのだろうか。罪のない人を殺害などしたひと、あるいは弱い者いじめをした人の生まれ変わりの風なのか、などと考え出したら到底さわやかな気持ちではいられないだろう。
さらに、例えば、死んだら小鳥になる、ということは本当なのか、私たちが目の前に見ている小鳥は誰かが死んだその霊の生まれ変わりなのか、と問われたらどう答えるだろうか。また、小鳥というとイメージはよいが、カラスとかフクロウや、小鳥ではないがコウモリになるなどと考えるとどうだろう。
あるいは、小鳥になるのなら、他の動物にもなるだろう、野良犬や毒蛇、イタチ、ネズミや昆虫等々、などにもなるかも知れない。
実際この「千の風」を、自由に訳した新井満氏は、妻との会話を次のように書いている。

…「ところで死んだあと、あなた、何に生まれ変わるつもりですか。」
「さあてね…」
私もそこまでは考えていなかった。「あの歌のように、光や風になるのもいいが、象やライオンという手もある。いやいっそ屋久杉のような樹木になるかな」
「一生のお願いがあるんだけど」
妻はおもむろに口を開いて言った。「何?」
「ナマコだけはやめて下さい」
妻はナマコが大の苦手なのである。
(「千の風になって」講談社 五六〜五七頁)

このように、この有名になった歌を訳し、作曲した人自身がこのように、死んだらあたかも自分で死後何になるかを決められるかのように、冗談のように夫婦で話したことを記している。これは単なる冗談なのか、真剣な話なのか分からない。この本では、夫や妻、子供をなくして悲嘆にくれていた人たちがたくさんこの千の風のCDを聞いて慰められたということも書いてある。
しかし、そのような慰めは、こんな夫婦の会話を読んだら持続できるだろうか。
自分の最愛の息子が事故で死んだ。その息子が、例えば道端に出た蛇やネズミに生まれ変わっているかも知れない、などと考えて慰めを感じる人がいるだろうか。
そもそも人間は自分の今の心さえ自由にならない。それなのに、死後の生まれ変わりを樹木にするとか、風とかナマコなどにできるかのように書いているのはあまりにも軽い、真実味のない内容である。
新井氏は、この詩の作者の考えを整理したとして次のようにまとめている。
「人間は死んだが、実は死んだように見えているだけで、本当の意味では死んでいないのであって、人間以外の他の存在に生まれ変わったのだ。」
(前掲書四八〜四九頁)
しかし、人間以外のものとして、風や光、雨、小鳥などに生れ変るというのなら、雨は水であり、それなら土や岩石、石ころ、樹木など何でもになるだろうし、小鳥になるというのなら、他の動物にもなるだろう。
風になるとは、何か。風とは空気中の分子の運動である。酸素分子、窒素分子などが動くこと、それが風となって感じられるのであって、分子のないところでは、風もあり得ない。
新井氏は、「千の風になるとは、大地や地球や宇宙と一体になることだ」といっているが、地球をわずか百キロほど離れた上空では、ほとんど真空状態になり、そこでは風も存在しないのである。月の世界は真空であり、従って風も存在しないのは知られているとおりであり、風になったら宇宙と一体になるなどとは何の関係もないことなのである。
人間が死んだらいろいろに生まれ変わる、というようなことは、古代の輪廻説と似ているがそれでもない。分子の運動や水や土に生まれ変わるなどということは輪廻説では想定しなかったことである。
このように考えるとただちに分かるように、愛する人が死んだが、風や太陽の光、あるいは小鳥になっているといったこの詩は、その考え方の基礎には堅固なものをもっていないのである。
このように、自分の愛する者が大空を吹き渡る風になった、といったことは、この考え方をつきつめることなく、ごく表面的に受けとるかぎりでは、ほっとするものがあるだろう。
しかし、以上のような反論を受ければ、たちまちそのイメージは崩れるような、それはごくもろいものである。
それでは、私たちは死んだらどうなるのか。それについてこのようなあいまいなものでなく、もっと強固な基礎をもった死後のことを説明してくれるものは何なのだろうか。
それは、新約聖書にある。聖書にはたしかにこの世で出会うあらゆる問題の究極的な指針と考えるべき道筋がすでに含まれている。

…復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。(マタイ福音書二二・30)

天使のようになる、それなら天使とはどんなものなのか、それについては触れていない。天使とは霊的存在で、イエスの誕生のとき、あるいは復活のとき、どこからともなくやってきて、神のメッセージを告げる存在である。霊的な存在であるゆえに、どんなに言葉で説明したところでその本質を尽くすことはできない。かえって本質から離れていくことが多い。それゆえに主イエスはこうしたたとえのような表現で言われたのである。
また、主イエスが伝道を始めるにあたって、悪魔の誘惑を受けたが、それに対して神の言葉によって勝利された。「そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。」       (マタイ四・11)
と記されている。 このように、時と状況に応じて必要と神がみなされたときにはイエスの側にも来て使える霊的な存在である。
主イエスは、このように死後どうなるかは、ごく短い言葉にとどめている。本来言葉で表現しようとすれば、さきほどの例で分かるように、必ずいろいろと矛盾ができてくるからである。
キリストの霊を豊かに受けていた使徒パウロは、死後どうなるかについて主イエスよりははっきりした表現を用いて言われた。それは次の言葉である。

…私たちは、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。(*)(ローマの信徒への手紙五・2)

(*)「喜んでいる」と訳される原語は、カウカオマイ kauchaomai である。これは、日本語の「誇る」(新共同訳の訳語)というのとはニュアンスが異なる。日本語では、「誇る」という言葉は、自慢する、ということであり、例えば、自分の会社が業績をあげたことを誇る、ということは自慢することであり、またスポーツで優勝を○回したことを誇る、というとそれを自慢していることになる。しかし、新約聖書ではそのような「(神のことを無視して、自分の力のように)自慢する」といったような意味はない。自慢は自分中心であり、自分に働きを帰する。しかし、パウロが用いているこの言葉は、強い前向きの喜びを内にたたえたニュアンスがある。
なお、この箇所については、口語訳、新改訳も「喜ぶ」と訳している。
・…神の栄光を望んで大いに喜んでいます。(新改訳)、
・…神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。(口語訳)
また、そのように訳している英訳を次にあげる。
・we rejoice in the hope of the glory of God.(NIV)
・we rejoice in our hope of sharing the glory of God.(RSV)
・…look forward exultantly to God's glory.(NJB)

さらに、「神の栄光にあずかる希望」については、別の箇所でも次ぎのように現されている。

…わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。
      (Uコリント三・18)

ここでパウロが述べているのは、私たちは最終的には神の栄光を受ける、あずかる(共有する)という希望があるということである。神の栄光とは何か、それは神が持っておられるいっさいのよいことを意味するので、私たちは死んだらそれで終りなのでなく、神のあらゆるよいことを神とともに共有させていただけるという大いなる約束なのである。
この地上の生活においても、主の霊、すなわち聖なる霊の働きを受けることによって、私たちは小さくて罪深いものであるにもかかわらず、主と同じ姿に変えられていくという。
私たちが主イエスに結びついているとき、(主イエスの内にある時)私たちははじめて実を結ぶと約束されている。その実は私たちの内なるキリスト、聖なる霊が結ばせるのである。
私たちがどんなに努力しても、内なる罪の本質は変わらない。しかし、聖なる霊が宿り、キリストが内に住んで下さるときには、内なるキリストがそのことをして下さる。
このように、生きているときからすでに変えられていくのであるから、死後の世界において、あるいは、世の終わりにおいては、この霊的な変化が完成するであろうことが期待できる。
それをパウロは次ぎのように述べている。

…キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。
(ピリピ人への手紙三・21 )
こうした言葉によって、私たちは死後どうなるのかが知らされている。それは、風や星、小鳥、あるいは昆虫やムカデのようなもの、蛇、ネズミ…など何になるのかわからない、というのでなく、神と同質のキリストと同じ栄光を持つ体へと変えて下さるというきである。
これは驚くべきことである。
人間の最後は、病気や老齢で衰え、苦しみのあげくに終わり、それでみんな消えてしまう、といったことが多くの人々の漠然としたイメージであろう。
しかし、そうした目に見える世界の推察や予想と根本的に異なるのが、聖書に記されている真理である。
キリストとは、単なる歴史上の偉人ではない。右の箇所で言われているように、キリストとは万物を支配する力をも持っているお方であり、それは神と本質を同じくするお方なのである。それゆえ、私たちは、最終的には、病気や老年になって体もむしばまれ、あるいは老化したあげくに、朽ち果てるように死に、それで火葬されて骨になる、といったわびしいものでなく、神と同じような栄光ある存在へと変えられるという約束なのである。
このようなことは、ほとんど考えられないほどの約束である。どんな地上の人間に関する約束など、この無限大とも言える約束に比べたら太陽の前の灯火のようなものになる。
そしてもし私たちが神と同質の栄光を与えられるなら、それは当然、その神が創造された風や星、花、山々などの本質的な美しさ、力などはすべて与えられることになる。そうした自然の美しさや力は、神の栄光の一部なのであるからだ。
しかし、だれでもが、例えば悪を犯し続けて悔い改めもしないといった人が、そうした清い自然のようなものになるということは全く保証されていない。
聖書が、キリストの栄光を分かち与えられると約束しているのは、すなわち罪を悔い改めて赦しを与えられた者に対してなのである。
それなら、全く神やキリストを信じなかった者はどうなるのか。そうした者の魂が清い風になるとか星になるかどうかは、聖書的にはまったくわからない。 生前の心のあり方、言動によって神が最善になされることを信じることができる。
信じないだけでなく、意図的な悪意をもって他人を苦しめ続けて悔い改めもかたくなに拒んできた人間が、死んだらすぐに清い星になる、などということは、聖書にも全く記されていないことであるし、どの宗教を問わずたいていの人が考えたこともないだろう。
そのような人間は、生前からすでに深い心の平安は奪われ、清いものに感動する心も失われ、愛を知ることもない状況になり、それこそが裁きである。
しかし、どのような人がキリストの栄光を分かち与えられるのか、だれが最終的に裁かれてしまうのか、それは万物を支配され、生前のすべてを見ておられる神ご自身がその計り知れない愛と御計画に従ってなされるのであって、すべては最善になされると信じることができる。
私たちはたしかに、死んだら墓にいるのではない。ときどき、墓や納骨堂に○○といっしょに入るのはいやだ、といった話しを聞くことがある。
しかし、人間は死んだらいかなる墓にも、また納骨堂などにも行くのではなく、神のもとに行くのである。
長い間、神や真理を信じなかったが、重い病床で息を引き取る前に、神に心を向けて憐れみを願い、悔い改める人もいるであろう。そのような個々の人が死の近づいたときどのような心境になったのかはだれも分からない。ただ神のみがそうしたすべてを御存じである。
私たちが罪を知り、神に立ち帰り、赦しを求める心があるだけで、あの十字架上で最期を迎えた重い犯罪人のように、「あなたは、今日、私とともに楽園にいる」という約束を受けるであろうことが期待できるのである。
さらに、極度の苦しみや貧しさにある人たちも、その苦しみのゆえに神が手を差しのべて下さるであろう。金持ちの家の前で犬になめられ、食物の残飯を食べていたような人が、死んでアブラハムのもとに引き上げられた、と記されている。
また、使徒パウロは、次のように述べている。

…この世を去って、キリストとともにいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが、他方では肉体にとどまる方があなた方のためにもっと必要である。(ピリピ書一・23〜24)

この言葉は、死を迎えた後は、キリストと共にいるのだということを示すものである。
キリストの栄光、神の栄光という限りなきよいもの、永遠的なものを与えられ、キリストや神と共にいる、天使のような霊的な存在になる。
それゆえ、神を信じて死んだものは、風のように自由なもの、星のような清い存在になるであろうということは言えても、風や小鳥あるいは雪そのものになるのではない。小鳥になるといっても、すぐにより大きな鳥に襲われて死んでしまうものでしかないし、風になるといっても、家々をなぎ倒すような強力な台風になったなどと思って安らぐはずはない。
そのような有限なもの、もろいものになるのでは決してない。
そうでなく、いかなる天地の異変にも決して変質することのないキリストの栄光を与えられるのであり、それは無限なる神の栄光そのものであるゆえに、あらゆる力や美しさ、そして清らかさをもたたえたものなのである。


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