あなたのなすことを主にゆだねよ。
そうすれば、あなたの計画することは必ず成る。

(箴言十六・3)


リストボタン働きの継続    2008/2

なにかよいことを始めても、それを続けることは困難である。始めることより継続がはるかに難しいのはだれもが実感するところである。
人間はもともと揺らぎやすく、何かあるとすぐに続けていけなくなる。
やっていることによい結果がなかったらそれだけで続けていけなくなるし、労力ばかりかかっても同様である。人から認められず、やっていることを否定されたりすると一層続ける気持ちは失われてしまう。
継続、そのためには他人がどう言おうと、評価がどうあろうと、内部で動かすものが不可欠である。それは言い換えれば、神に結びついてその道具になることである。

「人間の力の秘密は、神の道具であるという性質にある。
なぜなら、すべて永続的な真実の力は神のものであって、人間のものではないからである。
エゴイズムと超感覚的世界に対する不信とが、人間の弱さの根元である。」(「眠られぬ夜のために下」ヒルティ著 一月三〇日)

「私のうちにとどまれ」と主は言われた。そのみ言葉に従って、私たちが主のもとに留まるとき、主が継続して下さる。いかに小さなものであっても、主が代わりにして下さる。
主が、「私はぶどうの木、あなた方はその枝である。私につながっていなければあなた方は実を結ぶことができない。」と言われたのも、私たちに善きことを継続するための力を与えるための言葉でもあった。
また、「私に従って来なさい」ということも同様である。主イエスに従っていくとき、私たちは新たな力を受けることができる。また「主はわが魂を憩いのみぎわに伴い、緑の牧場に導く」と言われているように、魂に深い休みが与えられる。 それによって継続が可能となる。
今、活動的に働いていても必ず老年になると弱り、病気になったりついには死に至る。それで私たちの仕事の継続は終りになるだろうか。そうではない。それが神の国のためのはたらきであるなら、決して終わることがない。私たちが病気や高齢でできなくなっても、また思いがけない所に、また予想しない人が起こされてそのはたらきは継続されていく。
人の事業は終り、壊れていく。しかし、神の国の事業は壊れることがない。それは神ご自身が守り、かたちを変え、人を変え、場所をも変えて継続していかれるからである。
山を歩くと、思いがけない植物が芽をだしているのに気づくことがよくある。その付近一帯にどこにも見られないような野草が花咲いているのに出会うとどこからこの植物はやってきたのだろうかと、不思議な気持ちになることがある。種でなく、球根で増えるようなものはなおさらである。
もう、三十年以上も前に、徳島県の中央部に近い山深いところにある標高千メートルあまりの山の頂上付近にだけ、カタクリが群生しているのに出会ったことがある。周囲の広大な山域にはまったく見られないので、いつ、どのようにしてその植物が生えるようになったのか、自然のなすわざに驚かされたことであった。
それと同様に、神は、驚くようなところに、だれも予想しないような形であらたに神のわざを起こされていく。私たちが体力もなくなってできなくなっても、神は思いがけない人を起こして継続させていかれる。
種まきのたとえもそのようなことを意味している。 蒔かれた種が鳥に食べられ、日照りで枯れても、また水に流されたり、石につぶされたりしてなくなっていくように見えても、意外なところで芽をだして成長していく。そして大きな実りができ、その種がまた次の世代へと継続されていく。継続は神のわざである。


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