無数のリピーターを持つ本    2008/3

世界には本は無数にあるし、次々と膨大な数の本が出されている。それらの本もある種の催し物をしているようなものである。その本の内容に惹かれてやってくるようにと宣伝し、いろいろな目を引くようなグラビア、図版などを入れている。
しかし、ほとんどの本はそのような努力にもかかわらず、ただ一度だけ、あるいはせいぜい数回その本を開いただけでもう捨てられてしまう。新聞は一日経たないうちに、その新聞はゴミになってしまう。マンガ、雑誌、週刊誌なども、せいぜい一か月もするとやはりもうリピーター(*)はなくなって捨てられてしまう。

*)リピート(繰り返し)する人の意。

リピーターを数知れないほど持っているのは、聖書である。一度訪れ(その本を開き)二度、三度とその本を訪れる人は無数にある。一年に数百回も聖書を開く人もたくさんいる。どんな面白いテーマパークのようなものでも、リピーターといっても年に数回、あるいは毎月一度行っても年に十回あまりということであろうから、聖書という本には驚くべきリピーターがいることになる。
他の本、例えば岩波文庫発刊以来、最もたくさん読まれてきたのは、夏目漱石の「こころ」だという。これはタイトルに惹かれて購入したり、読んだりするのであって、その内容は不快なもの、暗くなるようなものであって、繰り返し何度も読むという人はごく少ないであろう。一年に十回もこの本を読むようなリピーターというのは聞いたことがない。
なぜ聖書だけ際立ってリピーターが多いのだろうか。
それは、聖書という本は、ほとんどどのページも、繰り返し訪れる(開く)たびに新たな何かを感じ取るからである。例えば、「あなた方は羊、羊は羊飼いの声を聞く」(ヨハネ福音書十章)という短い文を知識として知っていても、それを私たちへの生きた主イエスからの語りかけとして聞き、羊飼いであるイエスの声を聴こうとするとき、イエスの声に近いかすかな響きのようなものを聞き取るということなら、いくら繰り返しても奥は限りなく深い。羊飼いである主イエスの声を聞くということは、何十年試みても、何十年聞いたとしても、いっそう惹かれるものなのである。聖書の言葉とは、窓なのである。神の面影や神の国の光、神のいのちの水などが見えてくる窓なのである。
聖書の言葉、とくに新約聖書の言葉は、それを単に表面的に知っているというのでなく、その言葉が生きて働いておられる神からの言葉だとして感じられるようになるときには、飽きるということがない。いのちの源である神から直接来るものはいつも新鮮でいのちに満ちているからである。
私とつながっていなさい、と主イエスは言われた。主イエスとともにあるとき、毎日見聞きしていること、何度読んだか分からない聖書の言葉も新しいものとして感じられる。そしてしばしば新たな意味をも感じ、見出すことにつながっていく。主と結びついているときには、神が霊の養分をつねに与えて下さるから、そのように読み慣れた聖書の言葉であっても、そこからこうしてつねに養分をくみとることができる。これが聖書が数知れないリピーターを持っていることの理由であり、また繰り返し聖書をひもといてみようという気持ちを起こさせるのである。
これはまた、神の直接の被造物である、周囲の自然に関しても同様である。星などは、一年中、まっ暗な闇にただ単純に光っているだけであるのに、これもまた無数のリピーターを持っている。繰り返し夜空を見つめて、あるいは折々に見上げてそこから地上のものからは得られない何かを与えられる人は昔から数知れずいた。
神ご自身が、そこに訪れる無数のリピーターを持っておられるお方なのである。


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