死の力といのちの力  2008/4

誰でも、生きたいという強い願いを持っている。それは他のどんな欲求よりも強力なものと言える。それは、人間だけでなく、一般の動物にも、また植物においても見られる。植物においては、生きたいという願いなどは感じられないという人がいるかも知れない。しかし、固い土やしばしば岩の中にさえ、その根を張りめぐらしていき、巨木となって大風が吹きつけてもなお倒れないように、想像をはるかに越える強固な力をもって大地に根付いている。ときに岩山の斜面であっても、崖にすら松の木々が倒れずに成長している。斜めに傾いて成長した大木を支えるということを、支えなども一切なくして人為的にしようとすれば、それはほとんど不可能だと思えるほどである。
また、日陰になった植物が、枝を日のあたる方向へと伸ばして陽光を受けようとする。大きな木の陰にある木が、太陽の光を求めて、大きな木の枝のすきまから細長い枝を伸ばし、ほかの枝は枯れてしまって、その細長い枝が太い枝となって、日の光の方に延びていって太い枝となっているのを見かけることがある。このような植物の姿は、生きようとする強い力を感じさせる。
また、自分が枯れて死んでしまっても、種や球根というかたちでそのいのちを存続させようとするいとなみも実に変化に富んでいる。風によって遠くへと種子が運ばれるもの、動物や小鳥によって食べられて運ばれるもの、などなど何とかして自分の持っているいのちを続けようとするいとなみは至るところに見られる。
また、最も小さな生物のなかまであるバクテリア(細菌)は、一般的には熱や薬品に弱いのであるが、これも、増えるために不可欠な水分がなくなると、胞子となって熱や乾燥に耐えるものとなる。
一部の耐熱性の細菌は、百度で、六時間も熱しないと死滅しないと言われているほどである。また、酸素のない状態では、ふつうの動物や植物は生きられないのは誰でも知っているが、細菌のなかには酸素がなくとも増え続けることができるのは多くある。圧力を大気圧の二倍ほどにして高温にし(百二十度)、数分その条件を保ってそれでやっと死滅させられるものもある。( ボツリヌス菌)
この世界に創造されたさまざまの生物はこのようにして、いのちを保つことを千差万別の方法によって続けている。
しかし、他方私たちの周りをみるとき、次々と死の力によってのみ込まれていく事実に接する。今活躍している人も、あと五十年、百年の時間が経つうちにみな地上から姿を消していく。死の力はどんなよい人でも、よき行いにみちた人でもそれらを滅ぼしていくように見える。
それは悪の力に似ている。
私たちは、ふつうは死ということを自然の現象として善悪の問題でなく、生物の自然現象として見ることが多い。しかし、聖書においては、単なる自然現象でなく、悪魔とは死の力を持っているのだということが示されている。
新約聖書では、「死の力を持つ者、すなわち悪魔」(ヘブル書三・14)とあるし、黙示録の最後の部分でも、次のように記されている。

「悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた。死も火の池に投げ込まれた。」(黙示録二〇・1014

このように、世の終わりに最終的に滅ぼされることになるのが悪魔の力と死の力なのである。

罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだ。すべての人が罪を犯したからである。(ローマの信徒への手紙五・12より)
使徒パウロは、
「最後の敵として、死が滅ぼされる。」(ローマ十五・26
と述べていることも、悪の力と死の力が深くつながっていることを示すものである。
罪をおかすとは、悪魔の働きに動かされて負けることである。そこから死に至る。このように、悪魔と死は深いつながりを持っているのが示されている。
それゆえに、黙示録では、悪魔が滅ぼされることと、死の力が滅ぼされることが並べて書いてあるのである。
私たち人間は、絶えずこの二つの力に悩まされている。悪の力によって支配されているゆえに罪を犯し、数々の分裂や憎しみ、そして悲しみや悩みを引き起こす。あらゆるこの世の問題はすべてこの二つ、悪の力と死の力によって生じている。それぞれの人間が互いに悪の力でなく、神の真実と愛の力によってかかわるなら、そこには嘘もなく欺きもない。また攻撃も憎しみもない。あるのは相手がよくなるようにとの深い願いだけである。 そこからは清い人間関係と平和が生じる。
こうした個人的な問題でなく社会的な問題にしても、もとは一人一人の人間の間違った欲望や悪意から始まっている。そして、人間の悲しみや苦しみは関わり深い人間が死んでしまう、ということによって決定的になる。
私たちは、悪意、敵意といった悪の力と、よい人であっても事故や病気その他でみんな死んでいく死の力という二つのことで立ち直れないような深い打撃を受けることが多い。
この二つが除かれるならあらゆる問題は解決する。それゆえに聖書ではこの二つの問題の解決に全力をつくしている。飢餓の問題、戦争やテロ、環境汚染等々、それらも一部のひとたちの贅沢や欲望のゆえに限りなく問題が大きくなっているのである。
悪の問題、それは罪という言葉でも表現されている。この二つの大問題の解決のために、聖書は記されているし、主イエスが地上にこられたのもそのためであった。
そしてキリストの復活という事実は、死の力の克服であり、悪魔が持っている死の力への勝利なのである。また、十字架上での死は、悪魔の力(罪の力)に対する勝利なのであった。そのような深い意味があるとは一般の人は知らない。私自身も十字架がどんな意味を持つのか、単にイエスが処刑されたときの道具にすぎないとしか思っていなかった。その深い意味は二十一歳のときまで全く考えたこともなかった。
死の力、それは自然現象でなく、滅ぼされるべき悪の力と同様なのであるということは、驚くべきことである。
「一粒の麦」という言葉がある。これは賀川 豊彦の有名な著作の題名ともなり、やフランスの有名な小説家も「一粒の麦もし死なずば」という本を書き、現代のノンフィクション作家として知られる柳田邦男もこの言葉が記されてているヨハネ福音書の箇所から大きな影響を受けたと言っているように、一般的にも広く知られている。

まことにまことにあなたがたに言う。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。(ヨハネ福音書十二・24

この言葉は、少し述べたようにさまざまの影響を多方面のひとたちに与えてきた。これは、人間の生涯をわずかこのようなひと言で言い表し、指し示し、また大きく転換する力を持っている。
過去二千年の間、無数の真実な生を生きた人たちは、たしかにこの一粒の麦であった。それが死んだゆえに、神はあらたないのちをそこに与え、そのいのちが大いなる働きとなって広がって行った。
賀川 豊彦も若き日に、旧制徳島中学校時代にキリストを知り、さらにキリスト教の学びを深めるために明治学院に進学したが肺結核になり、死ぬのだと思った。どうせ死ぬのなら、キリストの愛の示すところに従って最も貧しい人たちのところにいってはたらこうという考えから神戸の貧民窟に入った。
その決断によって、後の賀川の多方面にわたる大きな働きがなされるようになった。それは一粒の麦が死んだということであり、そこに神は新たないのちを注いだのである。
苦しみや悲しみ、大きな病気や事故等々によって、さらに聖なる霊によって古い自分が死んだとき、それは人間にとって決定的な転機となる。私自身も二十一歳のとき、古い自分、それは完全でなくても、ある部分はたしかに死んだのを感じた。それによって私の死んだ部分に神のいのちが新たに注がれた。
それゆえに、キリストを信じて一年後に始めた読書会にも、加わる人が与えられ、信仰を持つ人が生まれるようになった。これは私に注がれた神のいのちがはたらいたからである。
死の力に勝利するとは、いのちの力である。そのいのちの力が、この世界を覆っている。

「死は勝利にのみ込まれた。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」
コリント十五・55

この手紙が書かれた当時もほとんどの人が、その逆、すなわち死という力に、よいもの強いものもみんなのみ込まれていく思っていたであろう。現在も同様である。
そのようなただ中に、勝利の力が死の力をのみ込んでしまった、という天来の確信がパウロには与えられた。この確信は死の力や悪の力が至るところにあり、当時はローマ帝国による迫害が始まっている時代であっても、なお、与えられたのである。そしてその確信は単なる人間的な考えとか単なる希望とか想像によるのではなかったゆえに、二千年後の今日までいささかも衰えることなく、この地上にとどまり続けている。
いのちの力は、あらゆる闇の力、死の力をのみ込んでいくほどに強い。そして神のいのち、永遠の命を求めるものにそれは与えられていく。


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