リストボタン多くの人の中でも    2008/5

人が大勢集まるところ、そこには清い流れのようなものはたいてい失われる。 しかし、このたびのキリスト教の全国集会(無教会)において二〇〇人ほどの人が集まったにもかかわらず、どこか清い流れが感じられた。それはたしかにこの世のさまざまの会合とは異なるものであった。
主イエスは、二人三人、私の名によって集まるところに、私はいる、と祝福の約束をされた。主イエスの名によって集まる、それは言い換えれば祈りをもって、主(神)を仰ぎつつ集まるということである。
それがなされるなら、わずか二人であっても、また二〇〇人であってもたしかにそこにイエスがおられる。イエスこそはあらゆる清いものの根源であるゆえに、そこにはどこからとなく清い風が感じられ、目には見えない水があちこちに流れているのを感じることができる。
清い流れを実感することは、都会の雑踏など人の多くいるところでは難しい。それゆえに神は身近な大空や海、山、川、数々の樹木や野草などの自然の風物を創造し、そこに清いものを注ぎ込んで、人間がそうしたものに触れて神の国の清い本質に触れるようにしておられる。
私たち人間はそうした自然の純粋さにははるかに遠いが、それでも弱きを顧みて罪を清めて下さる主に結びつくときには、本来もっていない清さを天からいただくことができる。そしてそのような人たちが集まることで、さらに恵み深い集まりとなって私たちをうるおすようになる。


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