リストボタン憐れみの神    2008/6

聖書においては、神の愛という言葉とともに、神の憐れみという言葉が多く用いられている。
愛という言葉は、あらゆる対象に成り立つ。それは人間同士だけでなく、相手が動物であっても樹木や野草など植物やあるいは、山川や星などの大空のものであっても成り立つ。
しかし、憐れみというのは、人間に対してである。
このように、憐れみということは、本当の意味では、人間に対してだけ、特に成り立つ言葉なのである。(*

*)動物に対しても言われるが、それは限定された憐れみである。というのは、人間は動物に対しても憐れみを持っているように見えても実は、牛や豚、ニワトリ等々の屠殺、あるいは魚にしても網でとったり釣ったりすることは何のためらいもなくなされているからである。それらは不可欠の人間の食物となっている。

憐れみというのは、上からの一方的な愛の注ぎを意味している。神の憐れみは、旧約聖書から新約聖書にいたるまでずっと記されている。旧約聖書においては、すでに兄弟を殺したカインが本来ならば、すぐに神によって裁きを受けて死なねばならないはずであった。カイン自身もそのことを自覚していた。
しかし、神はあえて、カインを生かし、彼を殺そうとする者がないように、カインに特別なしるしを付けられたという。(創世記四・15
このように本来その罪のゆえに滅びるべき者をも、しるしを付けて保護し、立ち直ることを待つということの中にも憐れみの神の姿がある。
愛を受けている、これは対等という感じを与える。実際神の愛は驚くべきことだが、私たちをあたかも神と対等のように、扱って下さることすらある。主イエスは「あなた方は私の友である」と言われたし、使徒パウロは、「私たちは神の同労者である」(コリント三・9)と言った。(*

*)同労者(口語訳)と訳されている原語は、シュネルゴイ。シュンは「共に」、エルゴイは、「働く人たち」 qeou/ ga,r evsmen sunergoi,(英語聖書では、we are God's co-workers あるいは、fellow workers などと訳されている。新共同訳で「力を合わせて働く者」とか、新改訳では「協力者」などと訳されている。)

しかし、憐れみを受けている者という言葉は、明白な上下関係なのである。憐れんで下さい! という必死の願いは、自分よりはるかに上なる神への叫びである。もう死ぬほかはない、あるいはすでに死んでいると言えるような状態にも、注がれるような神の愛を願うときに、私たちは神に憐れんで下さい、と祈り願う。
旧約聖書において、神の愛という言葉よりも、憐れみの神という記述が繰り返し現れる。それは、罪深い人間、あるいは敵の攻撃や病気などによって繰り返し落ちていこうとする人間をも見捨てずに、顧みてその苦しみを御手によっていやして下さるからである。

憐れみを受ける、というような言葉をふだん私たちはほとんど使わない。誰かから憐れみを受けるというと、見下されている、というようなイメージがある。憐れまれることなどいやだ、といった感情が強い。
たしかに人間がだれかを憐れむというとき、それは愛よりも相手の状況を知った上で何の助けもしようとはしないで見下すようなことが多い。人からの憐れみを受けると、後からそのお返しを要求されることもある。
しかし、神からの憐れみを受けることは、そのようなマイナスのことは全くない。ただほとんどの人たちが神など存在しないと思い、神が憐れみを持って私たちを助けて下さると考えてもみないのが大多数である。
何の価値もない者、それをも大切なものとして見つめ、手を差し伸べて下さること、それを経験するときは、本当に神は憐れみの神であることを実感する。
聖書において、愛という言葉はすでに古くから親子や、男女など人間同士の思いを表す言葉として用いられている。愛するという言葉(*)が最初に聖書に現れるのは、神がアブラハムに対して、「あなたの愛するイサクを神に捧げよ」という箇所である。(創世記二二・2) それ以外にも愛するという言葉は、創世記だけを見るとみな、ヤコブはラケルを愛した、というように人間同士の愛情を表す言葉として使われている。
その少し後になると、出エジプト記や申命記においては、愛という言葉は、「神を愛せよ」という命令として現れる。そして神は愛である、といった表現はずっと現れることがない。
そのようななかで、早くから、出エジプト記の二二章においてはっきりと神の御性質として、憐れみということが示されている。旧約聖書は神の正義や裁きがたくさんあって、怒りの神とか裁きの神といったイメージが強い。
しかし、旧約聖書をよく読めば、こうした見方は一面的なものにすぎないのがわかる。
旧約聖書のはじめのほうから、神の憐れみ深い御性質ははっきりと示されているからである。

寄留者(外国人)を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。
寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。
もし、あなたが彼を苦しめ、彼がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。
もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない。
なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。
もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。
わたしは憐れみ深いからである。(出エジプト記二二・2026

ここで言われていることは、裁きの神とは全く異なる憐れみの神という姿である。外国からの人たち、一時的に住んでいる外国人に対し、このような特別な配慮が命じられていることは驚くべきことである。日本人が朝鮮半島からの人たちに対してどのように対したか。それはこのように憐れむということとは全く異なるやり方であった。それは健康を害するようなガスや有毒粉塵が満ちているような炭鉱や鉱山において長時間強制的な重労働を強いるということであり、病気になったらそのまま顧みることもせず、見捨てていくということがたくさん見られた。
それは今から六十年あまり以前のことである。旧約聖書のこの記述は、いつごろのものであるかは正確には分からないにしても、モーセの時代であるとすれば、今から三千数百年も昔である。こんな古い時代から、すでに外国人には冷遇してはならない、ということが書かれてあることに驚かされる。
そして最もみじめな状況に置かれた人たち、それは未亡人や孤児たちであった。現在のように、社会的な保障のなかった古代においては、一家を支える夫が死ぬということは致命的な打撃となった。子供が生まれていて、かなり成人していれば家業を手伝ってもらえるだろうが、小さな子供であればたちまち毎日の生活ができないことになる。当時の仕事は、農業、漁業などにしても肉体労働であり、男手がどうしても必要であるから、女だけになればそうしたすべてはほとんどできなくなる。
また、戦争や病気、事故などで両親を失った孤児についても、社会的な保障がない時代であったから生きていくのも難しい状況に立たされることになる。 このような孤児に対しても神は特別な愛を注がれるゆえに、未亡人や孤児が、周囲の人たちから苦しみを受け、生きていけないような状況に置かれて彼らが神に向かって叫ぶとき、神は必ずその叫びを聞く(*)と強調されている。

*)原文は、「聞く」というヘブル語の動詞の不定形と未完了形が二つ重ねられており、同じ言葉をかたちを変えて二回並べるのは、とくに強調した表現である。英訳では、I will surely hear their cry. と訳しているのが多い。

また、上着一枚しか持っていない貧しい人が生きるためにはその上着をすら質にせざるをえないことがある。そんな人には必ず日没までには返さねばならない。と記されている。もし、そのような貧しい人が上着すらない状態で夜を迎えねばならなくなって神に助けを求めて叫ぶときには、神はその叫びを聞いて下さる。
「私は憐れみ深いからである。」という言葉でこの一区切りが締めくくられている。
このように、旧約聖書において、神は愛である、という表現よりも、神は憐れみの神であることがまず現れる。 愛とは、聖書の古代世界でも男女とか親子につかわれるのが一般的であったから、神は愛だという表現が使われなかったのだと考えられる。それに対して、弱い者、見放された者、だれもが無視するような者を顧みて下さる憐れみの神、ということは、誰にでもわかることなのである。
人間はさまざまの意味で弱い存在であり、吹いたら飛んでしまうようなもの、すぐに壊れて土くれになってしまうようなもろいものでしかない。そのような弱い人間は多くの場合無視され、見下され、踏みつけられる。
上着一枚しかないような貧しい人とか、身寄りのない孤児など、権力者とか金持ちなどは相手にしないだろう。そのような何の値打ちもないように見える者を、しっかりと見つめ、助けて下さるお方こそが、神であり、それゆえに憐れみの神なのだと聖書は古い時代から伝えている。
すでに引用した箇所の少し後の箇所には、旧約聖書のなかでは、最も神の御性質をはっきりと記してある箇所がある。

主は雲のうちにあって降り、主の御名を宣言された。主は彼の前を通り過ぎて宣言された。
「主、主、憐れみ深く、恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、
幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪とそむきと過ちを赦す。
しかし罰すべきものを罰せずにはおかず(出エジプト記三四・67

ここでは、聖書にいう神がどのような神であるかが数千年も前からはっきりと示されている。
ここでも、神の御性質として第一に言われているのが、憐れみの神ということである。ここで、二度も「主」という言葉が繰り返され、さらに、憐れみ深いという意味の言葉も二種類(*)が重ねられて用いられているというところにも、特別な強調がなされているのがわかる。

*)「憐れみ深く」と訳された原語は、ラフームである。そしてここで、「恵みに富む」と訳された原語は、ハッヌーンであり、これは、同じ出エジプト記二二章二二節では「憐れみ深い」と訳されている。このように、この出エジプト記三四章の箇所では、憐れみ深いという意味の重要な二種の語が、重ねられて用いられている。

ヤハウエという名の神である私、私こそは、憐れみ深いのだ、第一に憐れみ深いお方なのだ、と情熱的に語りかけようとしているのが伝わってくる。また、このとき、「主は、主の御名を宣言した。主は宣言した。」と、宣言する(*)という言葉をも二度繰り返している。神の名とは、神の本質そのものであり、それがここでもはっきりと現れている。

*)宣言すると訳された原語は、「カーラー」で、英訳聖書で最も広く読まれてきたAuthorized Version では この語は「cry(叫ぶ)」という訳語で九十八回、「proclaim(宣言する)」という訳語では三十六回ほど用いられている。このように、これは単に 「言う」のでなく、叫ぶというほどに強く言う、従って宣言すると訳されている。

このように、神の永遠の性質を告げるにあたって、その前後の表現などもよく調べると、いろいろな意味で特別な強調された言葉となっているのがわかる。それほどに、この神の言葉を聞き取った人は、これこそ神の永遠の本質だ! ということをまざまざと確信できたのであった。
私たちの現在の生活では、憐れみを受けたい、と願うのでなく、逆に憐れみなど受けたくない、と思っている人が多い。それは、日本人は、宇宙を創造され今も生きて働いておられる神などいない、と思っている人が、九十九%にもなる圧倒的多数であり、憐れみというと人間の憐れみしか思い浮かばない。そして人間の与える憐れみというのは、たいてい恩きせがましく、見下すようなニュアンスがある。人から憐れまれるような人間になるな、と言われたりもする。
それゆえに、私たちのたいていの人は、自分は誰かから深く憐れみを受けた、というように感じる人はごく少ないであろう。むしろ、弱っているとき、倒れそうになっているときに心にも留めてもらえず無視されたという人の方が多いのではないだろうか。
しかし、聖書の世界に戻ってみるとき、人間からの憐れみとは比較にもならない、神の憐れみが真正面から書かれているのに気付く。人間からの憐れみのように見下されるといったものでなく、私たちの最も深い心の傷を知って下さったゆえに私たちの魂のうちにまで来て下さり、すくい取って下さるのである。神は無限に高いところにおられ、その高みから私たちに神のもとにある力を、またいやしや平安を与えて下さる。人間からの憐れみを余り期待して、人のもとに行くならかえって突き放されるだろう。
しかし、神のもとに私たちが憐れみを求めて行くときには、どんなにしばしば行っても決して追い返されることはない。むしろいっそう暖かく迎えて下さる。 一度二度では与えられないように見えても、繰り返し憐れみを心を尽くして求めるとき、神の憐れみは必ず注がれる。
このような、高みから一方的に注がれる神の憐れみこそ、弱い私たちが必要としていることである。
憐れみを真剣に願い求める姿は、旧約聖書の詩編に最もよく表されている。

呼び求めるわたしに答えてください。
わたしの正しさを認めてくださる神よ。
苦難から解き放ってください
憐れんで下さい、祈りを聞いてください。(詩編四・2

主よ、憐れんでください。(*
わたしは嘆き悲しんでいます。
主よ、癒してください
わたしの魂は恐れおののいています。
主よ、いつまでなのですか。(詩編六・34

私はいつも主に目を注いでいます。
御顔を向けて、わたしを憐れんでください。
わたしは貧しく、孤独です。(詩編二五・16)(**


*)「主よ、憐れんで下さい!」という叫びの原文は、「ホンネーニ ヤハウエ」 であり、ギリシャ語では、エレエーソン メ キューリエ evle,hso,n me ku,rie となる。 (これは新約聖書においても主イエスへの叫びとして現れ、ここから、キリエ エレイソン として、ミサ曲に多く用いられる祈りの言葉が生まれた。)ホンネーニとは、ハーナン (憐れむ)という語の変化形である。ハーナンという語から、ハンナという名前や、それにヤハウエの省略形(ヨ)が付け加わって、ヨハンナ (ヤハウエは憐れみ)という人名が生まれた。そこから、英語のJohn (ジョン)、フランス語の Jean(ジャン)、英語のジェーン、ドイツ語のヨハンネス、イタリア語のジョバンニなどとなって、広く知られるようになった。これは、「神は憐れみの神」という真理が、世界の多くの場所で人名となってたえず繰り返し使われ、宣言されている状況となっていると言えよう。真理は不思議な、驚くべき仕方で広く語られることになる例の一つである。

**)「貧しく」 と訳された原語は、アーニィ で、これは「(苦痛や貧しさなどによって)圧迫されている」というのが本来の意味。詩編ではこの語やこれと関連した語がしばしば出てくるので、この語の本来の意味を知っておくことは、詩編の理解には重要。単に、経済的に貧しいというだけでなく、病気や人間関係、敵などさまざまのものによって圧迫され、苦しみ悩んでいる状態を表す語。 この語のヘブル語の辞書による説明を引用しておく。ドイツ語の説明 von Not niedergedrucked,arm,elend ドイツ語のNot(ノート)とは、困窮、困難、苦悩、苦しみといった意味であり、それらによって圧迫されている状態。貧しく、困窮した、悲惨な状況。 英語では、 oppressed by misery, poor, lowly(「LEXICON IN VETERIS TESTAMENTI LIBROS720 P
なお、新共同訳は、最後の行の語順が原文とは違っている。原文では、「私は、孤独で貧しい。」であるから、外国語訳はみな、その語順で訳している。例えば、QUICK, turn to me, pity me, alone and wretched as I am!NJB) あるいは、 Turn to me and be gracious to me, for I am lonely and afflicted.NRS


すでに見たように、旧約聖書で最初に明確に神の御性質として記されているのが、憐れみの神ということである。それゆえに、人間は、その憐れみを求めることによって神の本質に直接に触れることになる。神はその憐れみを必ずや注いで下さるということが期待できる。
もとより、神の無限に大きく広いお心は私たち人間の一時的な求めや苦しみなどにそのまますぐに応えて下さるとは限らない。むしろ応えて下さらないように見えることも多い。しかし、そこからが重要なのであって、応えて下さらないように見えても、それは何らかの私たちに分からない大きな御計画のゆえであり、計り知れないほど深い神の憐れみのゆえなのだと信じることが求められている。
信仰はここでも出発点であるし、人生の曲がり角において重要な手綱となってくれる。信仰なくば、神の憐れみなどもちろんあり得ないし、信仰が揺らいでくるとますます神の憐れみなどが感じられなくなってくる。
神に叫び祈り、憐れみを待ち望むということは、旧約聖書の詩編にも多く記されている。詩編とは、この神の憐れみを求める魂の叫びが多数を占めているほどである。
そのような内容である人間の叫びが、詩編として神の言葉であるはずの聖書のなかに収められるようになったことは、なぜか。それは、そのような追い詰められた状況にある人の叫びを聞いて下さる神の憐れみを記してあるからである。神の憐れみを単に文章で書くのでなく、人間の苦しみからの叫びを通して、そのようななかに注がれるということで、人間を用いて神の憐れみを浮かびあがらせるものとなっている。神の憐れみがいかにリアルなものであるか、それを最も明らかに示しているのが詩編なのであり、それゆえに、詩編が人間の言葉でありながら神の言葉として聖書におさめられているのである。
旧約聖書の詩編における、憐れみの神への叫び、それはそのまま新約聖書の世界に流れていく。
主よ、憐れんでください! という叫びは、新約聖書では、盲人やハンセン病、あるいは自分の娘が恐ろしい病気にかかっている母親が主イエスに向かってなしたものとして記されている。
主イエスご自身が何のために来られたのか、それは心の問題でどうしても乗り越えることのできない人間を担って乗り越えさせて下さることであった。心の問題、それは神のような愛や真実にどうしてもふさわしくない心を持ってしまうということ、そのために間違った言葉や行動をしてしまうということ、そのようなことすべてを罪というが、その罪からの救い、赦しのために来て下さった。
人間の持つ苦しみや悩みの最も奥深いものはそうした心の問題であり、罪の問題である。なぜそういえるのか。それは病人も健康な人も、学者も無学な人も、子供から老人、死に瀕した人まで、また民族や国籍を問うことなく、ありとあらゆる人間が持っているからである。それゆえにこれは人間の本質にかかわる問題であり、最も奥深いものだと言える。
主イエスはまさにこのために来て下さった。私たちの抱えているさまざまの悩みや苦しみは実はこの問題に淵源がある。そうした弱き人間のことを深く見抜いてそこを解決するために来てくださった。そこに主の憐れみがある。それゆえに、次のように言われた。

『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ九・13

憐れみの神はそのまま、罪の赦しの神なのである。主イエスは、罪人を招くため、憐れみのゆえに来られたというこの引用を別の箇所でもされている。
それは安息日に麦の穂を摘んで食べていた弟子たちを、穂を摘むとは収穫の一種として安息日に禁じられていたことを破ったとして当時の宗教熱心な人によってとがめられたことがあった。そのとき、主イエスはやはりこの言葉「私が求めるのは憐れみであっていけにえではない」という言葉を用いられている。
このように、二回も同様なことが記されていることによって、神は罪深い者への憐れみをもって対する存在であること、そのことを具体的に現すために主イエスが来られたのだといわれている。
だが、その根源的な罪の問題のためだけではない。実際の生活で私たちは病気やからだの障害、あるいは人間同士の問題で悩み苦しむ。病気の痛み、苦しみはひどくなれば耐えがたくそれは寝ても覚めても忘れることはできなくなり、安眠はなく食事もできなくなり、心の病気にまで進んでいくことも多い。こうした点から主イエスは、からだの苦しみについても叫び求める者に、しばしばいやしを与えられた。

イエスがそこからお出かけになると、二人の盲人が叫んで、「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と言いながらついて来た。(マタイ九・27

主は、盲人がどんなに苦しい、かつみじめな思いをして生きてきたか、その苦しみと悲しみをすべて見抜き、彼らの信仰を確認したうえで、二人の目に触れて「あなた方の信じているとおりになるように」と言われると、そのとき彼らは目が見えるようになった。
これは、盲人という特別な人たちにだけあるのではない。
私たちにも、同様なことが生じる。私たち自身の心や他人の心、そしてこの世の見えない部分の悪や、逆に真実なものが見えないからこそ、さまざまの苦しみが生じる。神の御手もその正義の御支配も見えないのである。しかし、そこから憐れみを真剣に求めるときには、主イエスが御手をのべて魂の目が見えるようにして下さる。
また、肉体の目は、見えていても、心の問題で、日々苦しくてどうにもならない、人間からの敵意や中傷、そして誤解等々からたえず攻撃を受け、その傷口が痛み続ける、ということもある。
その心の傷をいやして下さい、憐れんで下さい! という叫びは多くのひとたちが人知れず口にだしていることであろう。
私たちは自分の考えや意志、あるいは能力や人生経験といった人間的なものによっては歩んでいけない。過去に犯してきた罪の赦しがなかったら他人に教えたり導くこともできない。キリストの第一の弟子といえるパウロもそうした自分の本質的な弱さを深く知っていた。
パウロが記した手紙のなかでも最も重要なローマの信徒への手紙において、救いとは何かを書いたのち、同胞であるユダヤ人の救いはどうなるのかということに、神の長い歴史的な御計画があることを示し、最後にそのようにして救いの真理が与えられた者はいかに毎日を生きるべきか、について触れている。
その最初に彼が言っているのは、意外なことである。

こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなた方に勧める。
  (ローマの信徒への手紙十二・1

これから実生活における具体的な詳細な指示を与えようとするとき(十二章~十五章)、まずパウロが心にあったのは、自分は神の憐れみを受けて今日がある、ということであった。
その道の達人が後からくる人たちに教えをするとき、「神の憐れみによって言う」このような言い方をすることがあるだろうか。熟達した人ほど自分の経験や身についた技能、知識などがあふれているから自信をもって語るであろうが、パウロはキリスト教の世界で比類のない達人であったにもかかわらず、自分は神の憐れみがなかったら言えないのだ、という意識を持っていた。
それは深い罪の意識からくるものであったし、その罪が赦されているという実感からのものであった。
また、そのすぐ後にも、「私に与えられた恵みによってあなた方一人一人に言う」(同三節)と書いている。ここにも、自分の熟達した知識や確信から言う、といわず、神の恵みを受けているからこそ、あなた方に教えることができる、という意識がつねにあったのがうかがえる。
五千人のパンの奇跡、それは四つの福音書のすべてに記されており、さらに、マタイとマルコの福音書では少しだけ違った形でやはり同じようなパンの奇跡(四千人の奇跡)が掲載されている。マルコはイエスの誕生や若いときのことなどまったく省略している簡潔な福音書であるにもかかわらず、このパンの奇跡は二回も繰り返して書いている。福音書全体では、六回にもわたって書かれてある奇跡であり、このような特別な記述はほかの奇跡にはないことである。それほどまでに力を入れて書かれたパンの奇跡、それはごくわずかなものが主イエスの祝福によって限りなく増やされ、人々を満たしていく、ということである。
その重要な奇跡の前に書かれていることが、イエスの憐れみなのである。

イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、深く憐れみ(*(マタイ十四・14
とある。また、ほぼ同じ記事である、四千人にパンを与えた記事においても、やはりこの同じ「深く憐れむ」という言葉が記されている。

イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「私はこの人たちに深い憐れみの心を感じる(*)」 (マタイ十五・32

*)ここで「深く憐れむ」とか、「深い憐れみの心を感じる」と訳された原語は、スプランクニゾマイであり、スプランクノン(内臓)を動詞化した言葉である。内臓が痛むほど、からだ全体で感じる、といったニュアンスがある。それで、ある訳では、「私は、はらわたがちぎれる思いがする。」と訳されているほどである。(「新約聖書」岩波書店刊) 新共同訳のように、「群衆がかわいそうだ」という表現では、この原語の特別なニュアンスが伝わらない。かわいそうだ、というのは、ごく日常的に虫や植物のようなものに対しても使われるし、ちょっとした日常的なことにでも使うのであって、福音書でイエスの心情を表す場合だけに用いられているこの原語とは大きい差がある。

五千人のパンの奇跡、それはいかに主イエスが小さなもの取るに足らないものを用いて大きな祝福を注ぐことができるか、を示すものである。これはその後二千年にわたってキリスト教の真理が、取るにたらない無学なもの、奴隷やごく普通の庶民たちによって広められ、数知れない人たちを霊的に満たしていったことを象徴する出来事であり、預言ともなっている。そうしたあらゆる時代のいかなる状況にある人たちにも共通しているのが、霊的に食べるものもなく弱り果てていることであった。
そうした全世界にいる魂の貧困を深く憐れんだがゆえに、そうしたすべての人たちに与えることのできるお方であるということを示したのが五千人のパンの奇跡なのである。主イエスがなされること、その背後にはつねにこうした深い憐れみ、からだ全体で感じるような痛みを感じつつなされる憐れみがある。

愛はあらゆるものに対して及ぶ。いわば上下左右全方向なのである。
それは、身近な動物や植物、さらには山河や星や雲といった自然などに及ぶし、親子、男女、友人、さらに重い病人からマスコミにもてはやされるスターとか真理の探求に邁進する学者、そしてさらには敵対するような人に対して、あるいは目には見えない神や聖なる霊に対する愛にいたるまで、実に千差万別である。
主イエスも、「第一に神を愛すること、同様に大切なのは隣人を愛すること」と言われ、愛は神にも人にも及ぶべきことを示された。
このような多方面な性格を持つ愛に比べて、憐れみは、一方的な流れである。上から下に向かう水の流れのように、高みから下に向かうものが憐れみである。
私たちは自分が滅ぶべきような悪いもの(罪をもった人)であると、深く知れば知るほど、そこに流れ注がれる水を求める。そしてただ天を仰ぐだけ、神の憐れみを願うだけで、おのずから天からの水が流れてくる。

天つ真清水 流れきて
あまねく 世をぞうるおせる
長く 渇きし わが魂も
汲みていのちに かえりけり (讃美歌二一七より)


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