リストボタン全国集会での証しから    2008/6

神の愛と導き           玉栄 千春(沖縄)

「また、群集が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた。」(マタイ9章36節から)
わたしは元うつ病患者です。うつ病と診断をうけ、社会生活を送れるようになるまでに長い月日を要しました。私の場合は、いつも死ぬ事を考え、強い不安感、厭世感、無気力感などの主症状がありました。三年ほど前からは薬も飲まずに生活を送れるようになり完治しました。それはイエス様と聖書との出会い、家族の支えと愛があっての事です。
簡単に言っている様ですが、実際心の回復までには長い時間がかかりました。 
一番に言えるのは、イエスさまとの出会いが無ければ私と私の家族はそれを乗り越える事は出来なかったということです。今、この病気で苦しんでいるひとが沢山いるとの事です。
私は病気になる以前は、自分の事も周りの人のことも「赦す」ということができず常に完璧を求めていました。自分や人を責めては完璧を求め続け、要求が満たされないと今度は責めの思いが怒りに変わりました。人に弱みを見せることもできず、それにもかかわらず自分の中に「土台」という、揺るぎないものがない為、心の中は常に恐れや不安がありました。「赦す」とか、「不完全でいい」というような、価値観は私の頭のどこにもありませんでした。しかし常に自分で自分を追い詰め、自分の物差しで生きていく事は過酷で耐え難く、そんな状態が続いた事が、病の引き金となった一因ではないかと考えています。
この病気だけではなく、なんらかの理由で生きる目的を見失ったり、苦しみの中をさまよい消えかかっている命がこの世界の至るところにはあると思います。初めに読み上げた御言葉を読む時、倒れ、弱り果てていたかつてのわたしをイエスさまがあわれみ、救い出してくださったことを思いだします。そのまなざしは今もどこかで倒れ掛かっている誰かに対して向けられています。
病の中にあったある日のこと、部屋で死ぬ方法を考えていましたが、気がつくと家にあった聖書を開き、パラパラとページをめくっていました。
「すべて重荷を負うて苦労している者はわたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」のマタイによる福音書11章28節の御言葉が目に入ってきました。この言葉を目にした時、初めて心の苦しみを本当に認めてくれる存在に出会った、そんな気がしました。死ぬ事ばかりを考えていたわたしがなぜだか、すがりつくようにしてイエス・キリストを求め始めました。
教会へいき、聖書の世界に触れ、そして本当の意味でのキリストの十字架の愛というものを知ることになりました。高校生の頃に洗礼を受けたものの一旦は神様から離れ、神さまを馬鹿にすることもありました。 罪も犯し、与えられた命に感謝の気持ちもありませんでした。生を尊ぶ気持ちはかけらもなく、挙句の果てには死ぬことしか考えられなくなっていた私。そんなわたしの罪を帳消しにするためにイエスさまが痛い苦しい思いをして十字架にかかってくださったことがその時始めて理解できました。
「汚いままでいい。弱いままでいい。死にたいと思っていてもいい。そんなあなたの為に私は命をすてた。それほどあなたはわたしにとって大事な存在なのだ」と十字架の出来事は教えてくれました。わたしをこんなに大事に思ってくれる存在がいる。初めて私に向けられた命がけの愛でした。この愛を知り、わたしの内面に変化がおきてゆきました。
死ぬことよりも、生きることを考えるようになり、弱い自分、できない自分を許すことができるようになり、新しい一日に希望が持てるようになりました。
内面の変化がゆっくりと現れてゆき、私の心はいつしか癒されていました。癒されることは諦めていたので、信じられないことでした。その期間を通して、わたしとイエスさまは離れられない親友になっていました。イエスさまの愛はわたしの人生を全く新しいものにしてくださいました。
イエスさまは共にいて、わたしの人生を導いてくださっています。困難の時には助けを与え、信仰が弱るときには、生活の中のちいさな出来事を通して「わたしはあなたと共にいる。だから大丈夫」と語りかけてくださいます。日々の些細なことに楽しみを感じられる事、心に平安があり、希望がもてることそれらのことは、以前のわたしには考えられないことでした。こういう気持ちはイエスさまの愛がくれたものです。
神さまの愛は無条件で一方的です。人間の愛の様に移り変わりやすく、いつまで続くか分からないような、そんな愛ではありません。どんな人にとっても、そのような普遍の愛を教えてくれる存在が必要です。そのような愛のなかでこそ、人は本当の意味で生きることができるからです。そのような愛を提供できるのは神さまだけです。
時々「生きる目的を見失い、自分の存在価値が分からない」と耳にします。心の中に空洞を抱えて苦しんでいる人が現実には沢山いるのだと教えられることがあります。そのような人が、神さまの愛と福音に出会い、この世界に休み場所と、生きてゆく希望を見つけることができたらと願います。
そして、自分という存在が愛された尊い存在であるということを知ってほしいと思います。イエスさまはルカによる福音書10章2節の中で、「収穫は多いが、働き人が少ない。だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」とおっしゃいました。欝で苦しんだ頃は行き着く先が見えませんでしたが、その苦しみを経験したことは、この愛を知るためだったと今では理解できます。私は、先に救われたものとしてイエスさまと歩む人生の素晴らしさを伝える働き人として、これからの人生をイエスさまの為に歩みたいと決心しています。 

・家族はみんなクリスチャンという環境に生まれ育ち、私自身は高校2年生の頃洗礼を受けクリスチャンとなりました。十字架の愛を本当の意味で知ったのはクリスチャンとなってだいぶ後のことです。今はキリストの命がけの愛に感謝しつつ、イエスさまと共に日々の生活をほのぼのと、味わいながら歩ませてもらっています。(玉栄さんは三年前の徳島での、キリスト教・無教会四国集会に初めて参加されて以来、その翌年は姉の麗子さん、次の年は母親を同伴して参加され、今年は沖縄や関東に在住の友人と共に参加された。なお今回は姉妹で10分ずつ主に導かれた証しをされた。編者注)


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