リストボタン死と永遠の命    2008/7

人はこの世の命はわずかしかない、必ず死を迎える。そのときにすべては終わるのか、それとも何かが残るのか、ということは、はるかな古代から人間と動物とを区別する重要な点であり続けてきた。
何かが残る、霊が残る、しかもそれはていねいに葬らないと怒ったりたたってきたりする、というかたちで残るという信仰のかたちは現在の日本でも至る所で見られる。
「慰霊」という言葉がごくあたりまえに使われているが、これは死んだ人の霊が怒ったり、悲しんだり、恨んだりしているから、その「霊を慰めて」、生きている人間にたたってこないように、という意味が込められている。
葬儀の前の通夜というのも、もともとはその文字のとおり、夜を徹して行うものであった。なぜそのようなことをするかと言えば、それは故人への愛着とかのためでなく、亡くなった人の霊が、正体不明の霊、あるいは悪の霊のようなものに奪われないようにするためであった。
また、死者の霊が生きているものに害悪をする、ということは古くから日本では信じられてきたことである。 たとえば、京都の北野天満宮という有名な神社は、菅原道真が太宰府に左遷され、そこで没した後、京都は雷や地震等の災害が次々と生じたという。これは、菅原道真の祟りであると恐れ、それを鎮めるために造られたのが、北野天満宮で、菅原道真を神として祀ったのである。
けれども、死んでからある期間をすぎると、死者の霊は落ち着いてきて祖先の霊となる。それからはその家や郷土の守り神となる。そして毎年正月と盆という時期に家に帰ってくる。その祖先の霊を食物を備えて迎える。正月にしめなわを飾ったりするのもそのためである。
死後ある期間は死者の霊がどこにいくか定まっていないでさまよっている。そのために、よいものに生まれ変わるようにと、特別な儀礼を行わねばならない。それが四九日の法要が始まった由来であるという。(こうしたことの説明は多くの書物に書かれてある。例えば、「日本の仏教」岩波書店 一〇三~一〇九頁より 渡辺照宏著)
これが日本で昔からあった風俗で、神道と仏教とが入り交じってこのようなかたちとして行われてきた。
このような考え方とは全く異なるのが、キリスト教の見方である。
死後はどうなるのか、それは生前に神とキリストを信じていた者は、すでに死なない者とされている。

はっきり言っておく。(*
わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。
はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。(ヨハネ福音書五・2425

*)新共同訳では、「はっきり言っておく」と訳しているが、原文は、アーメン、アーメン と二回繰り返された強調した表現となっている。アーメンとは、「真実に」という原意があるため、外国語訳は例えば英語訳などを見てもつぎのように、ほとんど 「真実に」というニュアンスを入れている。
Truly, truly, I say to you
RSV; Very truly, I tell youNRS;
I tell you the truth,
NIV;
In all truth I tell you
NJB Wahrlich, wahrlich, ich sage euch LUTHER


この言葉は、人間はその罪のゆえに死んだと同様な者であるが、神を信じ、キリストの言葉を聞くことによって永遠の命を与えられ、この地上にある間からすでに「死から命に」移されているというのである。
世の終わりのときに復活するといった表現もある。しかし、ヨハネ福音書では、このように、信じるならすでにそのとき、復活したのと同じ永遠の命を与えられるのだということが強調されているのである。
つぎのマルタという女性への言葉はそのことを明確に示している。

イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、
マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。
イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。
生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」(ヨハネ福音書十一・2327

このように、すでに世の終わりのときに復活するということは、イエスの時代から一六五年ほど前のユダヤ人への激しい迫害を記したマカバイ記(旧約聖書続編)にも記されていて、一部のユダヤ人は、世の終わりの復活を信じるようになっていたのがうかがえる。
マルタはその信仰をイエスに表したが、イエスはその世の終わりのときに初めて復活するということを訂正して右のように言われたのであった。
主イエスも、十字架での処刑のとき、すぐとなりに重罪人が処刑されていたが、彼が主イエスの復活を信じる信仰を表明したとき、「あなたは今日パラダイスにいる」と約束された。それは、その罪人の死後に与えられる祝福の約束であった。
弟子たちすらイエスの復活を信じられなかったのに、みんなから見捨てられ、さらしものになって死んでいく重い罪人が、イエスは十字架で苦しみもだえているにもかかわらず、なお死んで終りでなく、復活して神の国に帰っていくのだ、と確信していたのは驚くべき信仰であった。
こうした信仰に対しては、最高の賜物を主は与えられるであろう。かつてフェニキアの異邦人の女が、自分の娘が悪霊にとりつかれて苦しみうめいているので、必死になってイエスに救いを求めたことがあった。しかし、イエスは答えず、それでも女はあきらめずに「憐れんで下さい!」とよりすがってきた。弟子たちですら、うるさいから、追い払うようにイエスに言ったほどであった。なおも、受けいれられなかったが、しかし、決してあきらめることのないその女のイエスへの信頼に対して、主イエスは「あなたの信仰は立派だ」と言われ、願いどおりに聞き届けたことがあった。
こうした単純率直な信仰には大いなる賜物を下さり、祝福を与えられる。
十字架上での信仰を表した犯罪人も、その最期のときのひと言の告白によって最善のところへと導かれることが約束された。
さきにあげたヨハネ福音書において、主を信じそのみ言葉を聞くだけで、私たちは死の世界から永遠の命の世界へと移されることが、真実なこととして強調されている。
使徒パウロのよく知られた言葉がある。

生きているのは、もはや私ではない。キリストが私のうちに生きておられる。(ガラテヤ信徒への手紙二・20

これはヨハネ福音書で言われていることと同様に、復活した永遠の命そのものであるキリストがパウロのうちに生きているのならば、死によっていなくなることはないし、単なる眠りに入ることもない。
キリストとともに永遠の命そのものとして存在していることになる。
永遠の命をいただいた魂のすがたはどのようなものなのか、それはつぎの言葉が指し示すものである。

わたしたちは皆、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。(コリント三・18

主と同じ姿に造りかえられていくのであるから、それは死んだり一時的に消えたりするものではないといえる。主は永遠に生きている存在だからである。復活し、神とともにあり、神と同じ本質の霊的存在となられたキリストと同じ姿へと変えられる、などということは人間の現状をみるだけではおよそ信じがたいことのように見える。しかし、このことはパウロが神からはっきりと啓示されたことであったから、別のところでも繰り返している。

キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。(ピリピ 書三・21

死んだらどうなるのか、それはここに言われているように、神のもとにおられる完全なキリストと同様な栄光ある姿に変えられる、ということになる。
死んだらどうなるのか分からないというのが多くの人間の気持である。しかし、私たちの浅くてきわめて狭い考えをはるかに超えた永遠の真理を深く啓示された使徒たちが、私たちには受けていない真理を代わりに受けているのである。
そもそも愛と真実な神が存在するということからして、この世をふつうにみるだけでは決してそんなことは信じられないことである。災害やありとあらゆる犯罪や悲劇的な事件が至る所であるのであって、愛や真実の神、万能の神がいるのならどうしてそんなことがおきるのか、という疑問が自然に生じる。
そのように目でみえる現象や論理や学問、あるいは科学技術などでは決して愛と真実の神の存在は分からない。 そのような疑問と不信の洪水のなかで、神の啓示を受けたものは、その闇のただなかで神がたしかにおられるのを実感する。
死後のことも同様である。ふつうに考えたら死んだら終りで何もなくなる。眠っているなどというのは単に死んでいるということを言い換えただけである。土に埋めてもすぐに土中の生物によって食べられたり、細菌類によって分解され、さらに時間が経つと、土にしみ込む雨水に含まれるわずかな炭酸によって骨のカルシウム化合物も溶かされたりして跡形もなくなっていく。
火葬にすれば、体重の六〇%をしめる水分は水蒸気となって大気中に拡散し、肉体のタンパク質や脂質などは、燃焼して二酸化炭素、窒素やイオウ酸化物となってやはり大気に出て行く。残った金属化合物だけが、気体となれないために、骨や灰となって残る。温度を高くし、さらに火葬する時間を延長すれば、骨もすべて灰となる。
遺骨を特別視する人が日本人では多いが、それはこうした観点からみるときあまり意味のないことなのである。火葬にしても土葬にしても、大部分のからだを構成していた物質は大気中と土中に拡散していくからである。火葬場での遺骨と遺灰の大部分はゴミとして捨てられ、どこかの土地に運ばれる。そうして土に入りこむ。 わざわざ海や山中に遺灰をまくとか空中からまくなどしなくとも、大部分の故人のからだを構成していた物質は空中と土中、あるいは川や海へと流れていくのである。
遺骨は、故人の目にみえる記念のものとして意味があると言えよう。ちょうど、故人の愛用していた筆記具など持ち物が記念となるように。 そのような筆記具が故人そのものでないように、遺骨も故人そのものではないことは明らかなことである。
死者が、生前に神とキリストを信じていなかったらどうなるのか、そのことに対する最善のことは、その人が死にいたるまで、その人の魂が神とキリストを受けいれるようにと祈ることである。そうして周囲の身近な人の真実な祈りによってその人が救われるということは、次のような箇所に照らしても十分に有りうることなのである。

すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。
イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と言われた。(マタイ九・2

ここで私たちが意外に思うのは、中風の人本人の信仰にはひと言も触れられていないことである。まわりの人の信仰を見て、中風の人の罪が赦された、救われた、と確言されたのである。
神は愛の神であり、万人を太陽のように照らす神であるゆえに、私たちは生きているときに神を信じることもしないで罪のままに生きたように見える人も、死ぬ直前にどのような心の変化があったか誰も分からない。神がその御手を伸べて、その人の魂を揺り動かし目覚めさせて言葉にはならなかったが神の方向へとまなざしを向けたかも知れないのである。
ダンテはそうした最期のときに人知れず悔い改めた魂の救いを神曲の煉獄篇において劇的な描写で描いている。(煉獄篇第五歌)
それゆえに私たちは、神を信じなかった人たちの魂が、死後どうなったかはすべてをご覧になって最善になさる神を信頼して委ねることができる。そして私たちの関心事は、信仰を持たなかった人の死後の魂の行く先をあれこれ詮索することでなく、生きている人たちへの祈りと関わりのほうに心を向けるべきなのである。
主イエスが、父親の葬儀をしてから、従っていきたいと言った人に対して、「私に従え。死せるものに死者を葬らせよ。」(マタイ八・22)と言われたことはそうした方向と一致する。
イエスに従うということは、死せるものに形式的にかかわってあれこれするような後ろ向きのことではない、あくまで生きている者に対する真剣な関わりこそ、神のみこころにかなったことなのである。
キリスト教における葬儀、記念会などもすべてこのような生ける者への関わりという目的によってなされる。キリスト教葬儀は伝道であると言われるが、それはこうした遺族や親族、友人、参列者に、聖書の言葉を贈り、み言葉による力によって死者との別れによる淋しさと悲しみから立ち上がり、故人の信仰による生きざまを証しして生きている人たちへのみちしるべとなすためなのである。


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