リストボタン重度障害の夫と共に   2008/7
        戸川 恭子

 私がイエス様と出会ったのは、夫の交通事故により暗闇にいた時です。それは二六年前、私の悲しみが始まったのは事故後2日目、第4第5頸髄損傷だと聞かされてからです。両上・下肢マヒ。もう一生寝たっきり。歩けないのです。それ以降、仕事をしている時と、寝ている時以外は涙の涸れる時はなかったのです。
昨日と同じ道を通っているのに、昨日と同じ太陽が照っているのに、周りが全く違うのです。心は悲しみで一杯だったのです。前を向いていると涙顔なので、いつもうつむいて歩いていました。
 仕事を持っていたので、職場と夫の入院している病院との往復。
「肩関節は上下に少し動くでしょう。足は 車椅子145度くらい寝かせた車椅子での生活くらいにはなるでしょう。」と言われたのは事故後3週間後。
祈る神様も知らないけれど、私は必死で祈るというより叫んでいました、「どうかどうか、もう一度夫を歩かせて下さい。もう一度庭を散歩させて下さい」と。
夫の受傷後、10ヶ月後に、私は仕事を辞めて看病に専念し始めました。
 コヘレトの言葉3章に、「何事にも時があり、天の下の出来事には、すべて定められた時がある。」とあるように、夫の交通事故に遭う少し前に、Mさんとの不思議な出会い。クリスチャンであり無教会のキリスト集会に行っている事も聞いていました。神様による出会いとしか考えられない短い時の交わりだったのです。結婚して離れて行ったかのように思えたのですが、夫が入院して、今度はMさんのご主人が集会の行き帰りの途中、回り道をして見舞って下さるようになりました。そしてある時、集会のYさんも一緒に見舞いに来て下さいました。
 Yさんは聖書の言葉を話して下さいました。私は一応聖書は持ってはいました。しかし、それは本棚の飾りに過ぎず、読んでも解らない書物だったのです。いろんな宗教の方々が訪ねて来ては、「こうこうしなさい。そうすれば治ります。」と言う中で、「神様を信じて治るわけではない。それに変わるものが与えられる。パウロは神様にずっと祈り続けたけれどそれは癒されるものではなかった。けれども、別のよきものが与えられた。」
また、別の箇所でも、「神様は人は耐えられないような試練を与えられない、試練と共に逃れの道をも備えて下さっている事」を教えられました。また人には使命があり、その使命が終わるまでは生かされている事。また何事にも偶然はなく、全ての事は神様が背後でされている事を聞きました。
理解出来る事、出来ない事もありました。確かに交通事故でその時に死んでしまうのか、体の一部が損傷してしまうのか、あるいは無傷でいられるのかは、人の関知するところではないのです。
 初めて徳島聖書キリスト集会に参加したのは、クリスマス集会でした。それを機に集会に参加する思いが起こされていました。自分の罪とか言うのは全く解りませんでした。「私たち何も悪い事をしていないのに、どうして神様はこんなに辛い悲しい目に遭わせるのか」解りませんでした。でも集会に行くと、聖書の箇所を順番に教えて下さるのです、いろんな事を、その時その時に必要な事を教えて下さるのです。
この人はどうしてクリスチャンになったのか?と思いつつ読んだ本は、三浦 綾子さんの「道ありき」「光あるうちに」でした。
また、淡路に住んでいたことがあるので、その本にでてくる地名が懐かしくて読んだのは榎本保郎の「ちいろば」や「二日分のパン」などでした。
またテープも貸して下さり、聖書の内容は憶えてはいませんが、その中で歌われていた讃美、「夕日はかくれて道なお遠し」と、夫を介護するために寝泊まりしていた大学病院の窓から夕日を見ながらよく歌ったものです。 
 2年半の入院生活の後、退院する頃には、「退院しても集会に行かせてね。」と夫に言うようになっていました。でも寝たっきりの夫を一人残しての約半日の外出は不安もありましたが、神様にお任せしようと決めて参加。
病院にいる間は集会員のNさんがずっと集会と病院の送り迎えをして下さいました。退院してからは、家から自転車で集会に参加する事が出来たのです。
私は視覚障害者(かなり強い弱視)のため、何事にも積極的ではなく、夫が元気な時は、夫任せ、夫について行けば良かったのです。そんな弱い私に、神様はもう立ち上がれないと思っていた所から立ち上がり歩ませて下さっているのです。
夫は交通事故により、重度の障害者となったけれども、私には何ものにも代え難いイエス様を信じる信仰が与えられました。神様の導きと助けを思わされます。事故の処理にも、看病にも助け手が与えられました。なかなか仕事が辞められずにいると、神様が辞めるようにし向けて下さいました。
また、 私が一人でも家で世話が 来るように、夫の足の運動神経は残しておいてくれました。歩行器を使っての歩行が出来るようになっていました。とは言え、一人では起き上がることはもちろん、寝返りも出来ないのです。
 私たちが寂しくないように、神様は友達も沢山与えて下さっています。いろんな事すべてを、最も良いようにして下さっているのです。
 「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ロマ書8の28より)
これからも年を重ねて 行く私たちと主は共にいて下さり、守って下さり、御国への道へ導いて行って下さる事を信じています。


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