リストボタン谷間にある者を    2008/9

この世は、どのような世界であっても、強い者が評価される。典型的なのはスポーツである。大新聞でも最も大きく繰り返し報道するのは、スポーツである。それも人間の行動の一つの形であるから、報道されるのは当然であるが、ほかのどのような文化が、あのようにわずかの特定の人間を毎日のように大きな写真とともに報道するであろうか。
学問、医療、福祉、文学、あるいは音楽などの芸術の世界であっても、あのように毎日毎日同じような人間が大量の紙面をつかって登場するということは、あり得ないことである。
強い、力がある、ということはそれほど人間にとって魅力的なのである。 弱いものはたちまち相手にされない。
学校でも、勉強もできない、スポーツも、芸術も何もできない、となると、相手にされないということになりかねない。何かができない、という弱さは谷間に落ち込んでいくようなことである。
強いと思われている人でも、例えば飲酒運転を少ししただけで、懲戒免職になったりすると、とたんに周囲の者からは見下され、収入はなくなり、否応なしに弱さを思い知らされるだろう。今、周囲から注目されるところにいて活躍しているように見えてもいつ深い谷底に落ちていくか分からない。病気や最後に訪れる死ということは、深い闇につつまれた谷間となりうる。
しかし、どんな人生の谷間に置かれても、大きな失敗や罪を犯して見下されて誰からも相手にされなくても、真剣に求めるときに必ず愛をもって相手にして下さるお方がいる。それが聖書に記されている神であり、主イエスである。
これはたしかな事実である。そしてこの一点があるからこそ、キリスト教という信仰のかたちは続いてきた。死んだような者すら、最大の力を注いで生かして下さるのである。この世のいかなる変動にもかかわることなく、このことは変わらない。ここに、神とキリストを信じる者の平安があり、心の土台がある。
無事でいる九九匹の羊をおいてでも、いなくなった一匹の羊のために探して下さるとは、そうした暗い谷間に落ちた者を探し出して下さり、引き上げて下さる神の御性質を表すたとえなのである。


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