人の不真実と神の真実    2008/10

信頼していた人から、意外な真実に反する言動に触れて、驚き、あるいは怒りを覚えたという経験は多くの人が 持っているだろう。最近もある県外の方からそのような仕打ちを受けて精神的に打撃を受けてどうしたらよいかと たずねられたことがあった。
そうしたことが繰り返されると人間そのものがいやになるということも生じる。そして生きるのがいやになったり、まわりが憂鬱な雲で覆われてしまうような気持になることもある。
人間はなぜ真実を保てないのか、とふしぎに思われるほど不信実に満ちている存在である。どうしても徹底した真実を持ち続けることができない。
聖書のなかにもかつて親しかった者が思いがけない背信行為をするということが生々しく記されている。

わたしの信頼していた仲間、わたしのパンを食べる者が威張ってわたしを足げにします。(詩編四一・10

そしてこの詩の作者の味わった苦しみは、主イエスもまた経験することになった。主は、三年間パンをともに食べ、生活をともにしてきた弟子の一人から裏切られ、金で売り渡されるというさらにひどい経験をされたのである。

また、次のような経験も記されている。

わたしを嘲る者が敵であればそれに耐えもしよう。わたしを憎む者が尊大にふるまいのであれば彼を避けて隠れもしよう。
だが、それはお前なのだ。わたしと同じ人間、わたしの友、知り合った仲。
楽しく、親しく交わり、神殿の群衆の中を共に行き来したものだ。(詩編五五・1315

こうした不信の空気がまわりを取り囲む状況にあって、いかなる暗雲がたちこめようとも一貫して真実を守り続け、死に至るまで徹底したのが主イエスであった。
その主の力をいただくとき、私たちもそうした不信実に直面しても、そこから主イエスの苦しみを少しでも味わうことのできた恵みとして受け取ることができるであろう。そしてそのような人間の不信実ゆえに人間やこの世に絶望するのでなく、かえって、そのようななかであるからこそ、イエスの光がいっそう輝いて見えてくるという世界へと導かれる。
人を頼らず、人に過大な期待もせず、しかし人を嫌悪するのでもなく、主のまなざしを受けつつ相手を見つめることへと導かれていくことを祈り願いたいと思う。


音声ページトップへ戻る前へ戻るボタントップページへ戻るボタン次のページへ進むボタン。