リストボタン命の短さと永遠    2008/10

私たちのキリスト集会に属する家庭集会の一つに参加していた一人の女性が召された。まだ小学低学年の子供がいるような若さである。しばらく前までは、難しい闘病生活のなかとはいえ、いろいろとふつうに話しもできた状況からはそんなに突然に召されるとは予想できなかった。
命は神のものという思いを強くさせられたことであった。現代の科学技術や医者がどのようになそうとも、やはり命をどうすることもできない。そしてその人の心をもどうすることもできない。
幼い子供もその家庭集会に参加していたゆえに、主がその幼な子の心に特別な霊を注ぎ、強め、そして慰めを与えて下さることを祈るほかはない。
私たちの命、それは自分が保っているように思っているが、見えない御手によって支えられ、見守られているのである。しかし、それに気付かず神の真実に背き、自分勝手な生き方をつねにしているゆえにますますその御手が分からなくなっていく。
主イエスは、「私を信じる者は永遠の命を持つ。死んでも生きる」と言われた。また、重い病人を運んできた人たちが主イエスの前に連れて行けば必ずいやされると確信して、ベッドにのせて運んでいったがたくさんの人で入れなかった。どうしてもイエスの力をいただきたいと、その家の屋根をも壊して病人をつり降ろしたことがあった。そのようなことは非常識と思われるほどだが、それほどに真剣にイエスのもとに連れて行きたいと願ったのであり、主の力を求めたのであった。それゆえに、求めよ、そうすれば与えられるとの約束の通りに、主イエスは、本人ではなく、運んできた人々の愛によって働く信仰を見て、その病人のいやしを告げられたことがあった。
主を見つめてはたらく愛は力がある。それは主イエスの心をも動かしたのであった。
この福音書の記事は昔の特異な奇跡で終わることなく、現代の私たちにも語りかけている。
祈りの内に私たちはだれかを主イエスの前に運んでいくことができるからである。そしてそれによって主イエスは御心にかなうときには病のいやし、あるいは魂の病気たる罪からの赦しを与えて下さると信じることができる。


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