リストボタン一つになるための祈り  2008/10

祈りは神を信じる者の霊的な呼吸である。神とキリストを信じるまでは、肺を使ってする普通の呼吸しかしていなかったが、ひとたび信仰を与えられたときから、もう一つの別の呼吸があるのを知らされた。それは祈りであった。祈りなくば、私たちの信仰的な命は枯れていく。
私たちの祈りがどのようなものであるべきか、それは主イエスが主の祈りというかたちで明確に教えられた。そこにはあらゆる場合にあてはまる祈りが簡潔なかたちで表現されている。そして私たちのどのような祈りも結局その主の祈りの内容に含まれるのである。
例えば、「御国が来ますように」という祈りは、神の王としての御支配が来ますように、神の支配のうちにある完全なよきものが来ますように、ということである。これは、私たちが病気のとき、人間関係で苦しむとき、将来の不安にさいなまれるとき等々、その不安と問題のただなかに、神の王としての御支配が来ますようにということである。
もし神の愛と正義に満ちた支配が来るならば、私たちの病気の苦しみも軽くされ、担いやすくなる。病気そのものがいやされることもある。また私たちを攻撃してくる人間に苦しむとき、その人間の心に、また自分自身の心に神の御支配が来ることによって、相手の心から悪意が除かれるし、自分の心にもそのような悪意に耐える力が与えられることになる。
また、世界のさまざまの貧困や戦争などの苦しみや災害からの困難等々、これらの状況においても、私たちが願うのはそこにも愛の神の御手が差し伸べられることであり、その願いは、「御国が来ますように」という祈りそのものとなる。
このように、主の祈りはあらゆる状況にあってどんな人でも祈ることのできる内容を持っている。
ここではその主の祈りを念頭に置きつつ、主イエスご自身がどのような祈りをなさったのか、その一端を学び、私たちもすべてにおいて主の祈りを模範とするゆえに、その具体的な祈りを学びたいと思う。
イエスが最後の夕食のときに祈ったと伝えられてきた祈りがある。

わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父よ。あなたがわたしに下さっているあなたの御名によって、彼らを守ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。(ヨハネ十七・11

父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。(ヨハネ十七・2123

このように、繰り返し主は弟子たちが一つになることを祈られた。この世は分裂に悩んできたし現在も同様である。それは個人的なレベルにおいても、親しいはずの家族や、学校、職場などにおいても、絶えず争いや憎しみ、妬みや中傷などがあるし、それは分裂そのものである。また、私たちの心そのものが、絶えずよりよきものを見つめる心と罪深いことを考えたり行ったりする分裂に悩んでいると言えよう。そのような人間が集まっているゆえに、その集団である家庭や学校、職場、あるいは国全体や国際社会においても分裂が絶えず生じる。
キリストを信じる人たちにおいても、そのような分派が生じ、互いに分裂が生じて神の正義や愛を無視した行動によって悩まされることをすでに主イエスは予見していた。
そして、このヨハネ福音書が書かれたのは、キリストの死後七〇年近く経ったころだとされているから、すでにキリストの福音がローマ帝国全土に広がっていた状況だということができる。
そのような広がりの中で、キリストを信じる人たちの間での大きな問題が、一つになることの困難さであった。すでに、使徒パウロは紀元五五年ころに書かれたと言われるギリシャの都市コリントのキリスト者たちに宛てた手紙で、その地域のキリスト者たちが一つになれないという問題をまず書いている。

さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして 、固く結び合いなさい。
わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると知らされました。
あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」などと言い合っているとのことです。
キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。コリント一・1013より)

このように、コリントの信徒への手紙の最初に書き始めた問題がこうした分派争いのようなことであったということに、私たちは驚かされるが、それほどに人間は絶えずこのような人間的なものをもって離れられない状況にあると言えよう。
それはすでに、主イエスが生前に弟子たちを伴って行動されていたときにも見られた。弟子たちは主イエスがもうじき捕らえられ、十字架で死刑にされるということを話しておられたのに、彼らは弟子たちのうちで、誰が一番偉いか、などということで議論していた。

「この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている。」
弟子たちはその言葉が分からなかった。彼らには理解できないように隠されていたのである。
弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた。(ルカ九・4446

真理の言葉が隠されていたために、弟子たちは理解できなかった。誰が最も偉いか、というようなことへの強い関心は、小さい働きのものを見下し、大きい働きをする者に近づこうとしたり、「偉い者」への妬みが生じたりする。すべてを捨ててイエスに従った弟子たちであってもこのように、人間的な思いがいろいろとあって、一致が難しかったのが分かる。
このような一致の困難さということは、すでに旧約聖書のはじめの記述からはっきりと現れている。
最初の家庭としてのアダムとエバの子供たち、アベルとカインであったがその二人のうち、カインはアベルの捧げ物が神に受けいれられたのを妬み、弟の命を奪おうと考えそれを実行してしまったのである。このように、兄弟が一つになって神の道に歩むことが期待されていたであろうのにそれを裏切ることになった。
またアブラハムと甥のロトは、遠いユーフラテス川の河口に近いところから、カナンの地にともに旅立ち、生活を共にしてきた。その長い旅路の間に、ただ神だけに従っていくアブラハムの生活と信仰に触れていたのである。それにもかかわらず、ロトは、不正の横行する土地に住んだためにその悪影響を受け、滅びる寸前でアブラハムのゆえに助けられたが、妻は神の命令に従わなかったために、塩の柱とされ、ロトの運命も大きく変わっていくことになる。ここでも一致の困難が現れている。
あるいは、アブラハムの妻が子供が生まれなかったので奴隷の女を家庭に入れて、アブラハムの子供をつくることになったが、妻サラがそのことを妬み、アブラハムもサラに味方をして奴隷の女が追いだされることにもなった。
さらにそれよりもっとのちの時代、イエスよりも千年ほども昔のダビデ王は優れた人物であったにもかかわらず、心の油断から重い罪を犯し、そのことが遠因となって子供たちも大きな罪を犯し、兄弟の間にも深い憎しみが生じて命を奪いあうことまでも生じ、さらにはダビデ王自身の命をねらうことまでに発展していった。
こうした分裂の歴史はそのまま一致への著しい困難を示すものとなっている。
主イエスご自身が聖霊となり、生きた神ともなって導く新たな神の民たちが、一つになることを、強い願いとして言われているのもこうした昔からの困難さのゆえであっただろう。
このように、聖書の世界ですら、一つとなることが実に困難であることが記されている。そしてそのような記述はそのまま現代に至るまで世界の至る所での分裂の現状を暗示するものとなっている。
一つとなるということは、人間の世界では完全なかたちでは実現できたことがないと言えよう。こうした人間の現実を思うとき、主イエスの最後の夕食のときの特別な祈り、繰り返し祈るそのことの意味がはっきりしてくる。
この長い祈りの最後に記されているのは、次の言葉であった。

わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。 (ヨハネ十七・26
 そして主イエスが弟子たちの内に住もうとされるのは何の目的かといえば、「かれらが完全に一つとなるため」(同23)であった。
すなわち、弟子たちが一つとなるためには、単に一つになりたいという願いや、互いの話し合いとか経験、あるいは思いやりといった人間的な手段ではできないのであって、ただ、キリストが信じる者たちの内にいて下さる、ということが不可欠なのである。
ヨハネ福音書の別の箇所で、イエスは「人が私の内にとどまり、私もその人の内にとどまっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」と言われたが、そのことも同様である。一つになるということも実のうちに含まれるからである。
このように、一つになること、それは主イエスが私たちの内にいて下さるときにはじめて可能となる。
 もしキリストが私たちの内にいて下さるなら、イエスご自身が万人に仕えることをその基本的生き方とされたゆえに、自分こそは上なのだといった自負心はなくなる。またあのように十字架で処刑されるまえにひどい辱めを受け、不当な鞭打ちや刑罰まで受けることになったが、なお周りの人たちを憎んだり、敵視することはないばかりか、「彼らの罪を赦してください」と祈られたほどであった。
 そのようなお心を私たちがいただくときに私たちもまた悪を行おうとする人たちにも彼らの魂がよくなるようにとの願いと祈りの心を与えられるであろう。
そのことは、そうした人たちとも一つになろうとすることである。憎しみは分裂を生じさせるがキリストから来る敵対するものへの愛は、祈りという方法で結びつけようとする。
祈りなくば、結局生前のイエスに従った弟子たちすら誰が一番大きいか、などといって地位争いをして分裂を大きくする本性を持ち続ける。
祈りはもともと霊的なことであるから、距離や年齢を超え、生まれつきの能力の差とか、健康、病弱といったことをも超えていく。
それだけでなく、聖霊、あるいは活けるキリストがとりなして下さる場合には相手の魂にも霊的に働きかけることを信じることができる。
愛とは一つになるということと深くかかわっている。私たちがだれかを深く愛するほどその人と一つになっているということになるだろう。 逆にある人を敵視したり憎んだりするときには最も遠くに離れ人間関係は壊れていると言える。
このことは、人間でないもの、自然の事物についても同様である。私たちが谷川の流れを愛するとき、その流れの側にいるときには、その清い水の流れと一つになっているのである。
それゆえに、敵対するような人をも、その人がよくなるようにとの、祈りをもってみるとき、それは神の愛に根ざした思いであり、愛である。そのときには確かにその人たちと一つになっていると言えよう。愛はすべてに勝つ、と言われているとおり、敵対する人の心にも勝利して一つになろうとする。
病の人のことを思って祈りを合わせることは、その人と一つになろうとすることであり、またその人の重荷を負うことである。ガラテヤ書にも、次のように記されている。

互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになる。 (ガラテヤ書六・2
と特に命じられている。重荷を担うとは、相手の苦しみや悲しみを少しでもともに感じてその苦しみが少しでも軽くされるようにと祈る心である。そしてそのような祈りが真実であれば、可能なことを実際に行動に移すということもできるようになる。そのための意志や力を神からいただくようになるからである。
主イエスが「あなたの敵を愛し、あなた方を迫害する者のために祈れ」と言われたことは、人間関係の究極的なあり方を示すものである
イエスの時代には、ユダヤ人からの敵視や迫害が激しく、彼らの訴えによってイエスは十字架の刑を受けることになったが、ローマの皇帝の命令でキリスト者を迫害することはまだ始まっていなかった。しかし、キリストの死後数十年を経ると、キリスト者はローマ帝国に広く増え広がっていき、皇帝はその力を無視することができなくなり、迫害に転じる。
そして三百年近い間そうした迫害は続くことになる。このような状況を主イエスは見抜いていたのであろう。これから始まろうとする迫害に直面して、相手を憎み、敵対行動を取ることは、何等根本的な解決にならないばかりか、かえって分裂を深め敵対する力をも強めてしまう。
そのような状況にあって以後の迫害の時代にも唯一の正しい道として通用し、それ以後のすべての時代にも通用する一つになる道として、イエスは敵対する者にすら向かう愛の祈りをあげたのであった。敵対する者は時として命までねらってくるのが迫害の時代である。そのような者に対してすら愛する心を持つとはまさに神のわざであって、人間のふつうの気持のままではできることではない。神の霊を受けてはじめて彼らの中から悪の力が除かれ、彼らの魂がよくなるようにとの願いを込めて祈ることが可能となる。
 このような態度を少しでも取ることができるならば、ほかのどんな人間関係においても祈りをもって相手に対することができるであろう。
人間が互いに一つとなるために何が妨げとなっているだろうか。それは一人一人の高ぶりであり、自分が支配しよう、上に立とうとする傲慢である。そうした心の深いところにある人間中心の心を罪と言うが、その罪ゆえに人間同士はいつも一つになれない状態が続いている。
そうした人間同士の分裂と対立の根源には人間の罪がある。その罪というのは人間に対してだけでなく、神に対して犯しているものである。例えば、ある人に嘘をつく、欺くなどといったことをすれば、敵意や対立を生み出すが、それはそのまま神との関係にも深い溝が生まれるもとになる。真実に反することをすれば、それを相手の人間に対する罪でもあるが、同時に真実そのものが神の本質でもあるので、神に対する罪ともなる。
そこから、人間が一つになることと、神と一つになることとは密接な関係があり、人間が一つになることを望むならば、その根源にある神と一つになる、神を信じ、愛することが必要になる。そのためにまず分裂を生み出す根源にある罪を清めることが最重要なことになる。そのために、イエス・キリストが十字架で死んで人間の罪への罰を身代わりに担う必要があった。

主イエスが最も重要な戒めと言われたのは、次のことであった。

「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。
イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
これがいちばん大切な、第一のいましめである。
第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。
これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。(マタイ二二・3640

この重要な戒めとは、一つになるためであり、これらの二つの戒めこそは神と一つになり、人とも一つになる唯一の道なのである。使徒パウロが、生けるキリストに示されて、聖霊の実としての愛こそは最も重要なことであり、それがなかったら空しいといったことも同様である。
人間と神との間にある妨げである罪が除かれるとき、人は初めて神と一つになり、人間同士が一つになるという道が開かれる。
 この道を神はキリストを通して知らされ、それを受け取った人は、程度の多少はあっても、一つになる道を導かれていく。
 しかし、人間全体の将来はどうなるのであろうか。一つになることは有りうることなのかという疑問が生じてくる。
この世界は今後どうなっていくのか、それについては誰一人正確な予見はできない。人間はすぐ目先のことすらまったく予見できないのである。自分が明日どうなるのか、例えば交通事故で怪我をする人は、年間百万人をこえているが、そのような事故に出会う人は誰も自分がそんな目に会うとは予想もしていなかったはずである。日本の首相が一年間に二度も突然辞めたこと、アメリカに生じた大証券会社の破綻といった経済上の大問題とその世界経済への影響なども同様で少し前までは誰も予想しなかったようなことである。 このように、個人的なことから国際的問題に至るまで、人間は実に狭いことしか、分からない。それゆえに、将来どうなるのか、については通常の考え方では誰一人確信をもって言うことはできないということになる。
そのような全く未来がどうなるか分からない状況にあって、人間の判断を超えた深い洞察を持つことが可能だというのが聖書の示すところである。主イエスは自分の運命も正確に予見し、また数十年後に生じるエルサレムへの攻撃と崩壊ということもはっきりと分かっていた。これは人間の判断を超えた特別な予見であった。それは人間を超えた力によって知らされたからである。それが啓示と言われるもので、聖書とはその啓示に満ちた書物なのである。
その啓示とされたものが単なる人間の想像とか創作であるなら、聖書など到底伝わらず消滅していたであろう。人間の作り出した物などは次々と至る所で行われ、生み出されていくがほとんど時代の流れと共に消えていくからである。
そのような中に、どんな学者もまったく及ばない人間の学問や科学技術などでは決して与えられない将来の展望が、神からの啓示として与えられている。それは次のようなことである。

神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。
これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。
こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。
天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。
(エペソ一・810
分裂と対立に悩む人間の世界において、このような啓示が与えられているということは私たちにとって究極的な希望となる。このような啓示がなかったら、この世界はだんだんと分裂し、災害や政治の混乱、科学技術の悪用、軍備の増強と核兵器の拡散など、解決しがたい問題に渦巻きのように呑み込まれ、次第に希望を失っていくであろう。
一つになる、という主イエスの最後の夕食のときの祈りは、このように、弟子たちを出発点としつつ、神の愛によって敵対する人、病気や災害で苦しむ人たちとも愛の伴う祈りによって一つになる道が示され、最終的にはここで引用したように、神ご自身の万能の力によってすべてが一つになるという道が示されているのである。


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