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旧約聖書における希望
 2008/11

大きな望みがすばやい羽と翼になった。
先達が希望を与え、光となってくれた。
(ダンテ・神曲 煉獄篇第四歌)

知識と希望
旧約聖書を開くとそのごく初めの創世記第二章に、有名なエデンの園という記事が現れる。
ここには、食べてはいけない木として、園の中央に「善悪(あらゆること)を知る木」というのがあった。その木の実を食べると必ず死ぬと神は言われた。
この箇所は、「善悪の木」と訳されることが多いが、これは道徳的な善悪を知る木という意味であろうか。
もし、一切の道徳的善悪を知ってはいけない、などというのがこの意味なら、神に従うとか背くといったことも善悪の知識といえるのだからこうした命令自体も意味を失ってしまう。
このことは、この原語を調べてもわかることである。この原語を調べて、その原語が旧約聖書のどのような箇所で、どのような訳語に訳されているかを調べると、これが道徳的な善悪だけを意味するのでないことはすぐに分かることである。
善と訳された原語(ヘブル語)は「トーブ」であり、「悪」と訳された原語は「ラァ」であるが、それらは、それぞれ口語訳では五十種類ほどの訳語(*)が当てられている。

*)例えば、「トーブ」 については、愛すべき、祝い、美しい、麗しい、かわいらしい、貴重、結構、好意、幸福、好意、高齢、ここちよい、財産、好き、親しい、幸い、親切、順境、親切、正直な人、善、善人、宝、正しい、尊い、楽しむ、繁栄、深い、福祉、ほめる、まさる、恵み、安らか、愉快、豊か、喜ばす、りっぱなどと訳されている。
 「ラァ」については、悪、悪意、悪人、悪事、痛み、いやな、恐ろしい、重い、害、害悪、悲しげな顔、危害、逆境、苦難、苦しい、苦しみ、汚れた、そしる、つらい、悩み、罰、破滅、不義、不幸な、滅び、醜い、物惜しみ、悪い、災いなどである。


善という言葉は、例えば、この食物は善であるなどとは言わないのであって、道徳的な意味にしか使わない。
しかし、トーブという言葉は、ここにあげたように、実に多様な意味に用いられているのであるから、善悪の木、と訳するとかたよった意味となるのが分かる。トーブという言葉であらわされることは、さまざまの好ましいことを総称するといえるし、ラァ というヘブル語は同様にさまざまのよくないことを含んだ意味を持っている。それゆえ、トーブとラァ の木というのは、あらゆるよいこと、悪いようなことを知る木、すなわちあらゆることを知る木ということになる。
これは、知るということの根本的な限界とその問題を鋭く見抜いた言葉だと言えよう。現在の私たちの世界では、あらゆることを知ることをつねに奨励してきたし、それを自慢し、またあらゆることを書いてある百科事典がインターネットでも重んじられている。
知識が重要視されるこの世の中で、「知ることが死につながる」とは、 こうした全体的方向とは逆のことを指し示す言葉なのである。
知ることがなぜ、必ず死に至るのであろうか。
ここで、人間の知るということで最も大きく目に見えるかたちで状況を変えてきたのが科学技術である。今日のインターネットをみてもそのことは言える。
しかし、科学技術によっては希望は生まれない。医学も同様であって、病気はいやすことはあっても、希望のない人間をいやすことはできない。主イエスは病気をいやされた。それは、あなたの信仰があなたを救ったと言われたし、中風の人を運んできた友人たちを見て、彼らの信仰を見て、 中風の人にあなたの罪は赦されたと言われた。このように病気のいやしだけでなく、信仰によって罪の赦しへと向かうようにと方向付けられている。
科学が明らかにしたところでは、この地球自体が永遠でなく、太陽も同様であることが示されている。
太陽の現在の年齢は約四六億年、その寿命は一〇〇億年程度というからまだ五十億年ほどは輝き続けることになる。
夜空に見える恒星で最も明るいシリウスは地球からの距離は、九光年ほど、最も近い恒星はケンタウルス座のアルファ星で、四・三光年である。
このように遠いからその位置も変わらず、永遠のように見えるが決してそうではない。
太陽の明るさや熱を生み出しているのは核融合反応である。それは、四個の水素の原子核が一個のヘリウム原子核を作り出す反応でこのときに、莫大なエネルギーを生じ、これが太陽の熱の源である。このことを見出したのはドイツのワイツゼッカーやアメリカのベーテらであり、ベーテは一九六七年にノーベル物理学賞を受けている。
今から十数億年経つと、太陽の半径は二倍、明るさは四倍ほどに増大することが理論的計算で分かっているという。しかし、それまでに今から数億年経つと海も蒸発し、地表の温度は百度を超えてすべての水は蒸発してしまう。
このようなことで分かるように、目に見える世界だけを科学の予見するところで見るならば、全く希望はない。
これはしかし、驚くべきことではない。人間の死という身近に至るところで生じている現象が実は、それと本質的には同じなのである。科学的に見れば、人が死んで土に埋葬されると微生物によって分解され、骨のみが残る。そしてその骨も土の中に放置されておくならば、長い年月のうちには、植物の根や土中の生物などにより破壊され、また土中にしみ込んだ雨水に溶けている微量の炭酸などにより骨の主成分であるリン酸カルシウムも溶かされて土中に混じっていく。
火葬されると人体の六〇~七〇%をしめる水は蒸発する。残りは二酸化炭素や窒素、硫黄酸化物となって大気中に出て行く。気体にならない金属化合物が灰や骨になって残る。
そして大部分は廃棄され土に帰る。このように、物理的、科学的に考えると人間は消滅してしまうのであって、すべては消え去っていくという結論しか出てこない。科学の進展によってもこのような死後の希望や人類の前途の希望といったものは全く生まれることはないのである。
この点で、初めてノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹の著書には、上田秋成の「青頭巾」(*)という物語が引用されて次のように記されている。

*)上田秋成(一七三四年~一八〇九年)江戸時代後期の著作家。「雨月物語」がとくに有名。この「青頭巾」は、巻之五に含まれる。

「ある坊さんが熱心な僧であったが、たまたま旅先で小さな子供を好きになって連れ帰り、かわいがり、そのあまりに僧としての仕事もおろそかにしだした。ついにその子供が病気になって死んでしまった。そのためその僧は死んだのちもかわいがってとうとう、その子供の肉を食べるようになり、鬼のようになってしまった。それとともに、寺にいた者たちもみんな逃げ出して荒れ放題となり、その僧は訪れる人間を食べるとか里にでてきて人を襲うといった状況になった。そのようなとき、一人の禅僧がきて、そのような恐るべき状態となり果てた坊さんを救おうとした。夜中にその坊さんは禅僧を襲おうとしたが見えない。走り回って疲れ果てたが朝になってその禅僧に気づいた。 禅僧はその鬼になった坊さんに「江月照らし松風吹く。永夜清宵、何の所為ぞ」という言葉を一心に唱えているように、と諭してそこを旅立った。一年経ってそこに行くとまだその坊さんその言葉をやせ細ったからだで唱えていた。 禅僧が、一喝して坊さんを打つとその鬼となった坊さんの姿は忽然と消えて、あとには青い頭巾と骨だけが残っていた。
湯川は、このような本来科学とは何の関係のない特異な物語を取り出して、つぎのように言っている。

月が照って、松には風が吹いている。いい景色や。人間はそこにはいないかも知れない。それは何もののしわざなのか。どう考えたらいいのか。考えれば考えるほど分からなくなる。 わからんけれどふだんに問うていかなければならない。その結果は、骨だけが残ることになりはしないか。私はそれが科学だと断定するわけではない。もっと明るい科学の未来像が考えられないというわけでない。ただ、科学とはそんなものかも知れないという、いやな連想を消しきれないのです。 (「人間にとって科学とは何か」一六五頁~一六七頁 中央公論社 一九六七年)

ここに記された人類の将来への連想は、この書物の最後の頁に出てくる。そしてこの書物は、湯川秀樹と梅棹忠夫(京都大学人文科学研究所 助教授)との対談の形で書かれているが、相手の梅棹は、「はっきりした結論は出ないと思います。科学は究極的な答えを与えてくれません」という言葉でこの書は閉じられているのである。
科学的知識によっては希望は生まれないということは、現在のさまざまの知識と過去の状況を比べるといっそうはっきりする。
今から七〇年ほど前と現在では、例えば二〇歳くらいの人間が持っている知識ははるかに多いと言えよう。小学校から大学まで、戦前では旧制中学はわずか八%程度で、村からの中学への進学は一人か二人というほど少なかった。それに対して現在では高校までほとんどの子供が進学し、大学へは短大も含めると五〇%を越えている。それほど以前に比べたら比較にならないほどの知識を得る時間が増大した。
しかし、だからといって、若者が前途の希望を持つことは増大したかというとそのようなことは考えられない。引きこもりの状態の人の数は全国で三〇〇万人以上とも言われる。引きこもるという心は、希望が持てないということである。外に出て行くこと、学校や仕事に出ていっても何もよいことが期待できないからこそ、引きこもるという状態になる。
それに対して希望を持っているほど、前進的となり、自分が置かれた状況のなかでできることを模索し、それに取り組もうとする。このように、学校教育や情報のはんらん、知識のあふれるばかりの洪水の中にあって、かえって希望はなくなっていくという現象が現実に見られる。

聖書における希望
こうした状況に対して、聖書はどのように私たちに語りかけているだろうか。
聖書の巻頭に、神が天地を創造されたときの状況が記されている。

地は混沌であって、闇が深遠の面にあった。
神は言われた。
「光あれ!」
こうして光があった。

闇と混沌、それは希望が全くないという状況である。そこに光あれ!とのメッセージを投げかける神によって光が生じた。このことは、どんな深い闇があり、どうやって生きていけばよいのか分からないときにあっても、前途を指し示す光が与えられるということ、神にもとづく希望があるということを示している。
聖書はその巻頭において、強力な希望のメッセージから始まっているのである。
そして最初に創造された兄弟という人間関係はカインとアベルであったが、兄のカインは妬みから弟を殺してしまう。この悲劇的な結末は、彼らの両親であるアダムとエバが、神の言葉に従わずに背いて神の創造されて理想的な場(エデンの園)を追いだされたゆえであった。楽園を追放されたがゆえに彼らの家庭も楽園とは正反対の憎しみ、殺意が生じてしまったのである。
そのような暗闇にみずから落ち込んでいったカイン、それは万能と正義の神によってただちに滅ぼされると予想されたし、カイン自身もそのように思っていた。
神が私をここから追放すれば、私は地上をさまよう者となってしまう。そうすれば、私に出会う者はだれでも私を殺してしまうだろう。

しかし、意外なことに、そのようなカインの言葉に対して、神は次のように言われた。

カインを殺す者は、だれでも七倍の復讐を受けるであろう。
そしてカインに出会う者が誰も彼を殺すことのないように、カインに特別なしるしを付けた、と記されている。(創世記四章)
このような古い記述は現代の私たちとは何の関係もないように思われがちである。単なる古代文書の話し、神話のようなものだとしか受け取らない人も多い。しかし、聖書の記述は一見そうした私たちと関係のないように見えても実は深く人間の本質とかかわることが随所で記されている。
ここでも、どんな重い罪を犯してもなお神からは見捨てられていないという希望が記されているのである。旧約聖書の神は裁きの神、正義の神だというイメージが強い。たしかにそのように思われる箇所も多く見られる。
しかし、聖書の最初にある書の初めの部分にすでにこのようにそうした裁きの神というイメージとは大きく異なる姿がある。ここではすでに、罪を犯した者を見つめ続け、悔い改めを待って下さる神の本質がすでに記されているのに驚かされる。
カインにはしるしが付けられた。それは裁くためのしるしでなく、殺されないための守りのしるしであった。私たちも罪を犯し、他人に深い心の傷を負わせてしまうことがあるだろう。自分では気づかなくともそのようなことはしばしばあるだろう。しかし、それがあるから裁かれてしまうなら人間はみな滅ぼされてしまうだろう。
神は、そのような人間にいわばしるしを付けて見守っておられるということなのである。人間すべてにいわばしるしが付けられていて、悔い改めを待たれているということが言える。
希望を与える神の姿は、旧約聖書で最も重要な人物の一人である、アブラハムにもはっきりと示されている。

神は未知のところへ行くようにと指し示すお方である。そしてそこに祝福があると約束される。このような記事を読むときに、過去の特定の人だけにあてはまると考えがちである。しかし、過去の特定の信仰の人に生じたこと、約束されたことは、私たちも信仰を与えられて生きるときには、本質的には同様の約束を受けるということが暗示されている。
希望とは将来のこと、未来について言われることである。そして聖書の記述は未来への祝福がつねに約束されているゆえに、確固たる「希望」を内に秘めた内容となっている。

主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。
わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となる。
(創世記十二章より)

このことは、主イエスの山上での教えの最初にある次の言葉と関連している。

ああ、幸いだ。心の貧しい人たちは。
神の国はその人たちのものだからである。(マタイ五・3

神の国が与えられるということにまさる祝福はない。そのような最大の祝福が与えられるということは、その祝福が基となって当然外に向かっても流れていくということを意味する。自分だけにしか役だたないことは真の祝福ではないからである。
そう考えると分かるように、アブラハムがはるかな昔に祝福の約束を受けたことは、実はキリスト者すべてに対するものであったのである。
このような希望を連想させる記事は、アブラハムの孫にあたるヤコブにも見られる。ヤコブは兄から激しい憎しみを受けて命があぶなくなった。母親がそれを知って遠い北のほうにある親族へと一人送り出した。かつて歩いたこともない未知の地に向けて出発していくのは、アブラハムと似たところがあった。その途中で、神からの大いなる啓示があった。
天に達する階段が見えてそこを、神の御使いたちが上り下りしていた。そして主がその側に立ってヤコブに語りかけた。

あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。
あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。
見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。(創世記二八・1315

このように、この驚くべき光景を示しつつ言われたことの中心は、大いなる祝福であり、その祝福がヤコブの子孫だけでなく世界に波及するという雄大な内容であった。
これほど大きな希望が示されることがあるだろうか。ふつうの人間の希望は個人的なものである。自分が望むようなスターとか職業とかにつきたい、ということであったり、自分の家族とかが幸いであったらよい、といった希望である。
しかし、聖書に言われている希望はこのように、本人の幸いだけに留まるのでは決してなく、それは周囲の人々からさらにはあらゆる人たちに広がっていく大いなる希望なのである。
希望ということの極限はこうした永遠に広がり続けるエネルギーと祝福そのものが持っている霊的な深さにある。天使が天地をつなぐ階段を上り下りしていたということは、ずっと後にヨハネ福音書の第一章に全体の重要なことを記したその最後のまとめのように現れる。それはヨハネ福音書を書いた著者もこの創世記の記述の霊的な意味、象徴的な意味の深さを啓示されていたからである。
この世界は天が閉ざされこの地上の悪と混沌の世界ばかりが見えてしまう。そこではいくら考えても希望は生まれない。聖書にも「多く学ぶと疲れる」とある。知識は希望を生み出すことはない。
しかし、ひとたび天が開けるなら、私たちの暗い汚れた世界であっても、そこから天の国のメッセージが伝わってくるし、御国の香りが感じられ、神の光が実感されてくる。そして単にそれらがあるのを漠然と感じるだけでなく、神と地上の世界との交流がなされているのが見えてくる。人間同士の交流は間違って互いに傷つけあってしまうことも多い。それがひどくなると互いに憎しみすら生じてしまう。戦争などはそうしたことが拡大膨張してしまった結果である。
しかし、神との交流を与えられるならば、猛々しい心も静まり、汚れた心も清められていく。神が私たちの深い悩みや苦しみを掬いあげ、また神からの霊、いのちの水が注がれる。キリストの十字架による人類の罪の赦しということも、こうした天地の交流によってなされたことである。天から送られたキリストが私たち人間の魂の奥深い部分にある暗い部分を取り去り、清めてくださったこと、そして私たちの嘆きや悲しみを掬いあげ、そこに天来の聖霊を注いでくださるということこそ、ヤコブが見た天地をつなぐ階段であり、そこを天使が上り下りしていることの象徴的意味であった。それゆえに、新約聖書のヨハネ福音書において、上より与えられる最大のこととしてこのことが取り上げられているのである。
次に、こうした希望は旧約聖書においてとくに詩編や預言書のような詩的な文章に多く記されている。詩的な内容は、神からの直接的な啓示によって与えられたことをそのまま書き記している。
ヨブ記は人生の最も深刻な苦しみ、それは家族の死であり、財産が失われて貧困に陥ること、さらに耐えがたくするものは絶え間ない痛みのために安眠をも許さないほどの苦しい病気であり、そこから最も身近な存在である妻からも見下されて捨てられるような事態である。そのようなあらゆる希望が失われた状況に置かれ、信仰を持っている者であっても自分が生まれてきたことをも呪うような危機的状況になった一人の人間の姿が記されている。これは単なる文学作品でないゆえに、神の言葉として聖書に収められている。神がこの作者を通していかなる苦しみと暗黒の状況があっても、なおそこに希望があり、救いに通じる道が用意されているということを言おうとしている。
また、旧約聖書の詩編には、このヨブ記のテーマが表現をいろいろと変えて多く含まれている。詩編の最初に置かれた詩は、全体の要約のような位置づけとなっている。
それは、主の教えを愛し、喜ぶときには、その希望は決して消えることがないという神の約束を記したものである。流れのほとりに植えられた木である。時が来れば実を結ぶ、決してしおれることはないというのは、とくに聖書の書かれた地方は雨がごく少なく、実を結び続けることは、絶えることのない希望を象徴しているのである。
詩編の第二編は、この世の権力者、支配者が神などいないとして、力をふるっているが、神はそのような傲慢を時が来れば一撃で打ち倒されることを示し、「鉄の杖」で悪の力や支配を打ち倒すことのできる新たな王を起こすと言われている。ここにも現実の神を否定する力や悪の横暴に直面する我々に対して、そのような悪を支配しておられる神の力を指し示すことによって確かな希望があることを宣言している。
また、二編と対照的に第三篇では、一人の人間の苦しみが記されており、それが極限までひどくなると、耐えがたくなる。しかしそうしたただなかにあって、主に叫ぶときには新たな力を与えられ、答えてくださる。そこに揺るがない希望があるのだという証言がここにある。
また、若い世代の讃美集にもあるのは、詩編四二編をもとにした讃美である。

涸れた谷に鹿が水を求めるように
神よ、わたしの魂はあなたを求める。
神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て
神の御顔を仰ぐことができるのか。
昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う
「お前の神はどこにいる」と。
なぜうなだれるのか、わたしの魂よなぜ呻くのか。
神を待ち望め。

わたしはなお、告白しよう
「御顔こそ、わたしの救い」と昼、主は命じて慈しみをわたしに送り
夜、主の歌がわたしと共にある
わたしの命の神への祈りが。
わたしの岩、わたしの神に言おう。「なぜ、わたしをお忘れになったのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ
嘆きつつ歩くのか。」
わたしを苦しめる者はわたしの骨を砕き
絶え間なく嘲って言う
「お前の神はどこにいる」と。
なぜうなだれるのか、わたしの魂よなぜ呻くのか。
神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう
「御顔こそ、わたしの救い」と。わたしの神よ。(詩編四二編より)

周囲の人々から神を信じても何の役にも立たない、信じることなど止めてしまえ、といったあざけりが浴びせられる。それは自分の心の中からもそんな声が聞こえてくる。神を信じても何も変わらない、信じることを止めようといった動揺も生じてくる。
しかし、そうした中から、神をあくまで信じ、待ち望む姿勢がここにある。このように困難や絶望的な状況にあってもなお神への希望を持ち続けることがこの詩の主題なのである。

預言書としてエレミヤ書やエゼキエル書とならんで、内容的にも豊かで深いものをたたえているイザヤ書ではその最初の章に、人々のまちがった歩みが裁かれるという神の正義がはっきりと記されているが、その後に続く二章では、預言者イザヤが神から啓示された未来の状況が記されている。

終わりの日に

主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち
どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい
多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから
御言葉はエルサレムから出る。
主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし
槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず
もはや戦うことを学ばない。 (イザヤ書二章24

このように、混乱と悪の現状に並べて、こうした未来の確固たる希望が示されている。ここに聖書の基本的な姿が見られる。神はつねにこの世の現実を明確に示し、いかにあるべき姿から離れているかを指し示しそこには必ず裁きがあるとの神からのメッセージが語られている。
他方、そのような裁きや苦しみが生じるにもかかわらず、未来には神中心、神の言葉へと万国が向かう輝かしい状況が待っているというのである。
こうした希望は現実から導き出されるものでは決してない。学問や哲学といった論理的な作業からは決してこのような希望は導き出されない。真の希望は不連続的なのである。
どんなに絶望的であっても、暗くても混乱しても、あらゆる光が失せたと思われるときであっても、なおそこにまったく不連続的に大なる希望の世界が開かれるというのである。

あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。
主は、とこしえにいます神
地の果てに及ぶすべてのものの造り主。
倦むことなく、疲れることなく
その英知は究めがたい。
疲れた者に力を与え
勢いを失っている者に大きな力を与えられる。
若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが
主に望みをおく人は新たな力を得
鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。
(イザヤ書四〇・2831

このよく知られた聖句もまた、聖書において主に希望を置くことがどのようなことにつながるかを、力強く宣言している。神は万物の創造主であるからこそ、私たちの力なく空虚な心にもこのような力ある希望を生み出してくださるのである。
ここで言われていることは、希望とは単に根拠のない心の中だけの願望でなく、じっさいに疲れ果てた魂をも立ち上がらせ、新たな出発をなす力を与えるという実践的なものだということである。

イザヤ書においてその冒頭に人々の罪とそのための裁きを厳しく指摘されていたが、エレミヤ書においても同様な内容となっている。エレミヤ書において、まずエレミヤという預言者がどのようないきさつで神に呼びだされたのか、が記されている。そこですでに神の裁きと希望が併置されている。

主は言われた。
「 見よ、今日、あなたに
諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。
抜き、壊し、滅ぼし、破壊し
あるいは建て、植えるために。」 (エレミヤ書一・10

エレミヤは神がなそうとしていることを告げる使命のゆえに呼びだされた。そこでまず、真実に反して不正なものに執着し悪を行い、弱きものをしいたげ、悔い改めようともしない人々への厳しい警告が発せられる。それが 「抜き、壊し、滅ぼし」ということであった。まずこうした悪にそまったかたくなな本性を砕かねばならないし、そうした人々が作り出したあやまった組織や体制を壊さねばならなかった。神がまさにそのようなことをはじめようとするにあたってまずエレミヤを遣わしその警告を発するように命じた。
しかし、それとともに、「建て、植える」ためにも遣わされたのである。それは言い換えると、崩壊と絶望のなかからの希望を与えるということもまたエレミヤの使命だと言おうとしている。
実際、エレミヤは、イスラエルの人々が真実そのもの、しかも万能のお方である神を捨てて、人間の欲望の変化したものにすぎない偽の神々を一番大切なものとしていく有り様こそが堕落の根源であることを繰り返し指摘した。
偶像崇拝というとユダヤ教やキリスト教など一神教で禁じることであって、日本人には関係ないと思っている人が多数である。しかし、聖書にいう偶像崇拝とは、その本質は真実と正義あるいは愛そのものを捨てて、不正や虚偽を愛することなのである。そのようなことがいかなる宗教の人、民族の人であっても、そこからさまざまの悪しきことが生まれ出てくることは容易に分かるし当然のことである。
そのような偶像崇拝からあらゆる不幸や災難が生じてくる。それはまた裁きでもある。

彼らは真実ではなく偽りをもってこの地にはびこる。
彼らは悪から悪へと進み
わたしを知ろうとしない、と主は言われる。
隣人はことごとく中傷して歩く。
人はその隣人を惑わし、まことを語らない。
舌に偽りを語ることを教え
疲れるまで悪事を働く。
欺きに欺きを重ね
わたしを知ることを拒む、と主は言われる。
それゆえ、万軍の主はこう言われる。
見よ、わたしは娘なるわが民を
火をもって溶かし、試す。
彼らの舌は人を殺す矢
その口は欺いて語る。
隣人に平和を約束していても
その心の中では、陥れようとたくらんでいる。
これらのことをわたしは罰せずにいられようかと主は言われる。
このような民に対して、私は必ずその悪に報いる。
(エレミヤ書九・28より)

これは悪を重ねて人々にその害を与え続けるとき、神の正義は必ず現されると強い調子で述べている。このような神の言葉はエレミヤ書において多く見られる。そしてそれでも彼らは悔い改めて真実の神に立ち返ろうとしなかったがゆえに、紀元前五八六年、北方から攻めてきたバビロンの軍によって攻撃され、町は焼かれ、彼らの生活の中心にあった神殿も焼かれ、多数の人々は殺され、残った人たちの相当部分は遠く現在のイラクのユーフラテス川下流地方のバビロンという都市へと連れて行かれた。
こうした国家、民族が滅びていくという重大なときに預言者エレミヤは神から遣わされて、命がけで神からの言葉を語ったのである。それは厳しい警告と裁きの確実なことを訴える内容であった。
しかし、それだけではなかった。すでに述べたように、そうした暗い預言とともに、つぎのような希望に満ちたメッセージをも述べたのである。
(ここで、ヤコブとかイスラエルと言われているのは、双方ともにユダヤの人々の総称として使われている。もともとヤコブとはアブラハムの孫の名前であり、イスラエルはそのヤコブの別名であったが後にはユダヤ民族やその国家のことをヤコブとかイスラエルとかで表すことがしばしば見られる。)

しかし、ヤコブはここから救い出される。
その日にはこうなる、と万軍の主は言われる。
お前の首から軛を砕き、縄目を解く。再び敵がヤコブを奴隷にすることはない。
彼らは、神である主と、わたしが立てる王ダビデとに仕えるようになる。
わたしの僕ヤコブよ、恐れるなと主は言われる。
イスラエルよ、おののくな。見よ、わたしはお前を遠い地から
お前の子孫を捕囚の地から救い出す。
ヤコブは帰って来て、安らかに住む。彼らを脅かす者はいない。
わたしがお前と共にいて救うと主は言われる。
さあ、わたしがお前の傷を治し、打ち傷をいやそう、と主は言われる。
人々はお前を、「追い出された者」と呼び
「相手にされないシオン」と言っているが。
主はこう言われる。見よ、わたしはヤコブの天幕の繁栄を回復し
その住む所を憐れむ。都は廃虚の丘の上に建てられ
城郭はあるべき姿に再建される。
そこから感謝の歌と楽を奏する者の音が聞こえる。
わたしが彼らを増やす。数が減ることはない。
わたしが彼らに栄光を与え、侮られることはない。
ヤコブの子らは、昔のようになり
その集いは、わたしの前に固く立てられる。
(エレミヤ書三〇・820より)

このように、国は滅び多くの人たちは死に、異国に連行されるたくさんの人たち、という光景にはまったくの絶望的状況しか思い浮かばない。このようにしてどの国も民族も歴史のなかで滅び消えて行ったのである。しかし、ただこのユダヤ民族だけは、このような厳しい裁きと大国の武力や支配にもかかわらず、そこから再び一五〇〇キロもあるようなはるか遠くの祖国にかえって再び国を建てることができると預言されたのである。
このことは、単に古代のユダヤ人の国家だけにあてはまることではない。もしそうならばこの出来事から二五〇〇年以上も経った現代の私たちには何の関係もなく、学ぶ必要もない。
このような私たちとは無関係と思われる出来事が、実は現代のあらゆる人間にもあてはまることなのである。
人間はだれでも、その不真実さ、罪深さのゆえに裁かれ、悪の力にて動揺し混乱してしまっている。そこには裁きもあり、苦しみや悩みに滅びていく。しかしそこで立ち返るときにはそのような闇の力にとらわれたところから、輝かしいところ、愛の神のもとにかえってくることができる、再生して滅びから救い出されるということなのである。
そしてこのことを完全なかたちで実現したのが、エレミヤの時代から五〇〇年以上を経た主イエスなのであった。
エレミヤと同時代に現れて、ユダヤ人たちが捕囚として連行されていったバビロンにおいて、神の言葉を語り続けたのは、エゼキエルという預言者であった。エレミヤが、祖国にあってユダヤ人たちに繰り返し彼らの罪から立ち直ることを命がけで語り続けたのに対して、エゼキエルは祖国からはるかに千五百キロほども遠い異国にあって神の言葉を語った。
エレミヤと同様に、エゼキエルもまた民の精神的な腐敗それは真実と正義の神、永遠の神とはまったく異なる人間が作った像や太陽などを神として拝むということをとくに厳しく指摘した。そこから真実や正義が失われ、国全体の滅びとなっていったのをエゼキエルもはっきりと知らされた。

彼らは東に向かって太陽を拝んでいるではないか。彼らはこの地を不法で満たした。私もそれゆえに怒りをもって行い、慈しみや憐れみをかけることもしない。この地は流血に満ち、この都は不正に満ちている。
彼らは捕囚として、捕囚の地に行く。人の住んでいた町々は荒れ果て、この地は荒廃に帰する。
(エゼキエル書九章、十二章より)
その言葉の通り、彼らの生活と信仰の中心であったエルサレムの町は焼かれ、滅ぼされ、多くのユダヤの人々はバビロンの軍によって殺害され、捕囚とされていった。
そうした状況に置かれた人々の心は、まさに絶望であってあらゆる希望は失せてしまっていた。しかし、そのような光なきところに光として遣わされ、希望のメッセージを与えたのがエゼキエルであった。
人々の当時の気持が聖書に残されている。
「我々の存在は枯れた骨も同然だ。我々の望みは失せ、我々は滅びる!」(エゼキエル書三七・11
こうした絶望のなかにどのようなメッセージがなされたであろうか。それは、枯れた骨がよみがえるという驚くべき記事である。
エゼキエルはあるとき、神の霊によってある谷に連れて行かれた。そこでは、骨で満ちていた。(*)しかもそれらは全く枯れていた。

*)聖書において、骨は人間の最も奥深い部分を象徴的に表すことがある。アダムから、エバが作られたとき、アダムは、これこそ、私の骨の骨といったとあるが、現在の私たちには何か不可解な表現である。これは、私たちのからだの奥深いところに骨があるとされて、そのように互いの心が深く一致するということを、「私の骨の骨」 などという表現で表したのであろう。

この特異な光景を神によって見せられた預言者は、それがそのまま枯れたままではないということを次に示された。「見よ、私はお前たちの中に霊を吹き込む。するとお前たちは生き返る。そしてお前たちは私が主であることを知るようになる。」
このように語れ、とエゼキエルに命じた。エゼキエルはそのことを信じて、「霊よ四方から吹き来れ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」(エゼキエル書三七章)と言った。
霊という原語は、風という意味も持っている。それゆえに、霊よ、吹き来れ!と言ったのである。神からの驚くべき風が吹いてくるときには、死んだものが生き返る。それは、破壊され、多くが殺されて、信仰の中心であった神殿も焼かれてしまった絶望の民、滅びゆく民を再び生き返らせる力ある言葉となった。
このように、エゼキエル書もまた、人々の罪とかたくなな心ゆえにその裁きが必ず生じることを預言し、実際そのようになり、神の言葉の確実性を証しすることになったが、それだけで終わることなく、その裁きのかなたに、輝かしい希望の時代が訪れることをも明白に告げているのである。
遠い外国に奴隷のように連れて行かれ、そこで圧迫された生活を続ける滅びゆく民を再生させたのは、神ご自身であり、そのことをエゼキエルは力強く預言し続けた。わかりにくい啓示や描写もいろいろとあるが、エゼキエル書の基本的なメッセージはこのように明確である。
エゼキエル書の四八章にわたる長い内容の最後の言葉は、「主はそこにおられる」(ヤハウエ シャーマー、あるいは アドーナイ シャーマー)(*)で終わっている。

*)原文では、「主」(ヤハウエ) と、「そこ」(シャーマー)という二語である。神の名を呼ぶのはおそれおおいということで、長くヤハウエの文字は読まれず、その代わり アドーナイと読み替えられてきた。

このように、主(神)はどこにもおられない、主は我らを捨ててしまったのだ、という絶望的な嘆きは、このエゼキエル書において、希望に満ちた、主はそこにおられる、という言葉が最後を飾っている。私たちにとっても、さまざまの罪や混乱にもかかわらず、神に立ち返るときには、この同じ言葉を実感することができる。
主はそこにおられる、と。
ここに決して揺らぐことのない、神による希望がある。


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