リストボタン橋渡し    2008/12

この世にはさまざまの人間がいるし、その集まりも実にさまざまである。ある人たちは他国の重要な建物とそこにいる何の関係もない人々を、自らも命がけで爆発物を抱えてそこに行き、破壊して目的を達成しようとする。また、マザー・テレサのように、神の愛をもってもうじき死ぬという人たちに神の国の愛を注ぎだす人たちもいる。また、生まれつき重度の病気や手足、あるいは目、耳などにハンディを持っていて、仕事にもつけないという人たちもいる。またすでに子供のときから、弱いものいじめをして喜ぶような子供もいれば、老人の介護や障害者の手助けをすることを好む子供もいる。
この世は常にこうした極端な違いをもった人間、集団がある。
そうした違いはまた激しい対立を生み出す。それがいじめ、暴力、差別、絶望、傲慢、また大きくなると戦争といったことにつながっていく。
私たちの世界は常にこうした分裂に悩んでいる。
その対立した人間や集団を橋渡しするものを誰もがある人は精一杯の努力や、行動によって、ある人は、無意識的に求めている。この世の自然を見ても分かるように、一つ一つの葉、樹木、野草それ自体が千差万別である。植物など自然のものはそれでいて全体として一つの自然の調和がある。
しかし、人間の世界では、なにかが橋渡しするのでなければ、分裂、あるいは対立したままである。
私自身、大学一、二年の頃ではその橋渡しするものの存在を知らず、孤立、孤独といった感情に悩まされていた。人間の世界は本質的に一人一人が孤島のように孤立しているように見えた。ときはちょうど学生運動が激しい時代で、日夜デモや抗議ビラ、学生たちの演説であふれていた。それらの人たちと政治にまったく関心を持とうとしない学生たちもまた対立して、橋渡しするものはないように思えた。たいていの大学の教官たちもまた学生との橋渡しを真剣にしようとするのでなく、なすすべなく見守っているかあきらめているかのようだった。
そのような状況において、私はある日突然にして、そのような分裂して対立、無関心であるすべてに橋渡しするものがあると知らされた。ことごとくが孤島のようであったのに、それらのすべてに橋がかかっているということに目が開かれたのである。
敵対するもの同士にも橋をかけ、無関心な心にも生き生きした世界に橋をわたし、滅びゆくものに永遠の世界に橋が架けられているのが分かってきた。
人間が一つになることのために、キリストは地上に来られたという。それはすべてのものに橋渡しがなされることであった。たしかにキリストの心、その聖なる霊を少しでも与えられたときには、少しずつ離れ小島のようであったものが橋でつながっているのに気付かされていく。
祭司という言葉は一般の人にはなじみにくい。ふるい世界の遺物のようなものと感じる人が多いのではないか。しかし、その祭司というラテン語はまさに橋渡しという意味を持っているのである。祭司という言葉は、ラテン語では、 ponti-fex (ポンティ フェクス)という。ponti とは、ラテン語の「橋」pons(ポーンス)という言葉に由来し、fex とは、facio (ファキオー・作る)という語に由来する。すなわち、祭司というラテン語は、「橋を造る」という意味なのである。
橋渡しをするということにおいて、最も大いなる働きをして下さったのは、主イエスであった。それゆえに、新約聖書でのヘブル書ではイエスのことを、繰り返し大祭司(ラテン語で ponti-fex)とあらわしている。

キリストは、恵みの大祭司として来られ、雄山羊や雄牛の血によらないで、ご自身の血によってただ一度聖所に入って永遠のあがないを成し遂げられた。(ヘブル九・1112より)

分裂や対立が繰り返し生じている私たちのこの世界において、その現状につねに橋を渡す存在がおられると知ることは大いなる希望を与えてくれる。敵対するものはその憎しみがひどいほどどうすることもできない。しかし、その憎しみや敵意にすら橋を渡すことができる。キリストが私たちの内に来ていただくことによってである。 主が一人一人の魂に住んで下さるとき、良きものにも悪しきものにも心の橋、祈りの橋がそこにあるのに気付かされる。
キリストは道である。そして道の通っていない深い谷や危険な崖であってもそこにあらたな道、橋を架けて下さるのである。
キリストがこの世に誕生したのは、暗く汚れた家畜小屋であった。それはまさに暗い心をもつ人々や無視された人々、人間扱いされないような人々を見つめ、闇から光の世界へと橋を渡す存在であることを示す出来事なのであった。
創世記に、ヤコブが一人遠いところに旅立っていく記事がある。両親がいたところからは、直線距離でも六百キロほどもある遠いところに向かったのであるが、その途中で、一人荒れ野で眠ったとき、驚くべき夢を見た。それは、先端が天にまで達する階段が地上に向かって伸びており、しかも神の御使いがそれを上り下りしていた、というのである。(創世記二八・12
この天と地を結ぶ階段とその天使たちもまた、常識的にはまったく接点のない天と地を橋渡しするものが存在するという啓示をヤコブに与えたのであった。
人間は自然のままでは実に地上的な存在であって、目に見えるもの物質的なものに堅く縛られている。それはまた罪に縛られているといってもよい。そのような人間には天の世界はまったく見えないし、断絶している。無限に深い谷があってそこから彼方へはわたっていくことは不可能なのと同じである。
それゆえにしばしば私たちは人生の歩みのなかで大変な苦痛や恥、あるいは悲しみによってまず私たちの堅い心が砕かれていく。そして私たちのさまざまの自分中心のよくない心のただなかに、主がきて下さり清い世界へと橋となって下さり、私たちを神の国へと導き出して下さるようになる。
大空の澄んだ青い色、そして山々、遠い星の輝き、地上の草木、渓谷の水の流れ等々、自然の清いさまざまのものもまさに私たちにとっての天への階段であり、私たちの心の霊的な感度が敏感になるほどに、そこに御使いが上り下りしているのを実感することができる。
そしてそのような恵みを与えられたとき、私たちそれぞれは実に小さな存在であり、なおつまずきばかりしているようなものであっても、私たちもひとつの小さな橋として闇にある人たちを主にある平和へと橋を架けるものとして下さるのである。


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