リストボタン明けの明星としてのキリスト  2009/1

去年の十月下旬ころから、夕方の西空に輝き始めていた金星は、五月中旬になれば、午前四時過ぎには明けの明星としてその強い輝きが見えるようになる。宵の明星を初めて見た人が、涙が出るほど心を動かされたと言われたほどである。
何十年も生きてきても、夕方の夜空に輝く金星の光を見たことがなかった人は非常に多い。
すでに古代からこの金星の輝きは他の夜空の星とは断然異なる輝きであるから、とくに注目されてきた。聖書においても、その最後の書である黙示録の終わりの部分で次のように記されている。

わたし(イエス)は、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。(黙示録二二・16

ひこばえとは、木を切ったあとで幹から出てくる芽のことである。要するにイエスは、ダビデの子孫として現れるということを意味している。そしてイエスは、輝く明けの明星だという。
それは夜明けを告げる星である。闇がもう終わり、新しい朝が来る、というメッセージをたたえている。闇がいつまで続くのか、それは多くの人にとって深刻な問題となる。病気の場合、苦しみが続くときその苦しみは誰にもわかってはもらえない。手術してもまた薬や放射線などで治療してもどうしてもよくならないとき、そしてますます苦しみがつのるときには、その闇はずっと続くのではないか、と思えてくるだろう。それは主イエスですら、肉体に釘付けという余りにも過酷な攻撃が加えられたとき、その苦しみには終りがないと思えたからこそ、「主よ、主よ、どうして私を捨てたのか!」と叫ばずにはいられなかった。それは夜明けがないという実感なのである。
イエスですらそのような状態となったのであるから、私たちもそのようになることは十分に有りうる。
神を信じていてもなお、この世では耐えがたいと思われるほどの苦しみに会うのであれば、神などない、真実な助けを与えるものなどない、結局は自分だ、と思っている人にとっては訴える相手を持つことができない。
この世では闇がずっと続くという事態に直面することはたいていの人が経験していくと思われる。明けの明星とは、そうした夜明けがないという重い気持を根本的に変えるものなのである。
聖書は旧約聖書からずっとこのいかなる長い夜も必ず夜明けがあるということを一貫して言ってきた。それは、旧約聖書では、「主の日」あるいは、「その日」という表現である。

その日には、人間の高ぶる目は低くされ
傲慢な者は卑しめられ
主はただひとり、高く上げられる。(イザヤ書二・11

どのような人間の高ぶる力も必ず滅びる、武力や権力、あるいは金の力をもって支配されるような世界は闇である。そのようなものを第一とする(神とする)精神は打ち倒される。
「イエスが明けの明星である」、と聖書で書かれているのはどのような意味であるか。それは、夜明けがあるという知らせなのである。この世は闇である。どんな人でも、闇を持っている。その人の心の中に、病気としてからだの中に、また家庭や親族、あるいは会社や人間関係など、どこかにあるいはそのどこにおいても闇のようなものを持っている。その暗い部分が晴れたらどんなにいいだろうという思いがある。からだの場合、それは病気とくに重い病気の場合である。そのようなとき、心も暗く重くなる。また、心に深い悩みや悲しみがあるときにはからだも元気が出なくなるし、病気になっていくこともある。
現在大きな問題となっているような仕事がなくなっているひとたちが増えていること、そして帰るところがないからテントで生活するといった人たちも増えている。そうした人たちはなぜ帰るところさえないのか。それは自分の家の家族と折り合いが悪くてそこに帰れないという場合もあるだろう。それは自分の心の闇や生活、そして人間関係の中に闇があり、それがすべて重なって、家があるのに、帰れないということもある。
一寸先は闇、といった言葉もある。さまざまの問題がいつ生じるか分からない。今明るいと思っている人でも、いつどんな事故や病気で闇が襲ってくるか分からない。現在の経済状況も、アメリカのサブプライムローン問題に端を発している。数年前まで、このような世界的な経済、金融問題が深刻になっていくとはだれも想像もしていなかっただろう。そのようにだれも予測できない闇が生じてくる。
しかし、他方では、現在のような雇用不安や経済問題が深刻でなかったときには闇がなかったかというと決してそうではない。
心の闇はどんな経済問題とも関わりなく存在しているからである。 現在の一般的な生活は昔よりはるかにすすんでいる。家はきれいになり、車ははんらんし、電気製品はたくさんある。テレビも一家に何台もある。しかし、だからといって心の闇がなくなってより明るくなったとは言えない。
また、昔には貧困、差別や飢饉、病気、そして戦争等々、現代とは異なる闇が至る所でみられた。
このように考えると、明るく見えるこの世界の奥深いところには闇がずっと横たわっているのである。そのような闇の根源は一人一人の人間の心の中に闇があるからである。その闇のことを罪といっている。それは教育や科学技術、医学、福祉がどのように発達しても消すことができなかった。江戸時代と現代と比べたらそれらは比較にならないほど大いなる進歩を遂げている。しかし、心の深い闇を消すことはできなかった。キリストはこの人間に宿る深い闇に光をもたらすために来られた。
どんなに闇が過去現在、将来にあっても、必ず夜明けがあるというメッセージを携えてこの世に来られた。
明けの明星とはまだ、暗いのにその闇に光を投じるものである。それとともに夜明けが来るという知らせをあらわすものである。
キリストは、現在の私たちの心の深い闇である罪をぬぐい去るという光となって下さった。
ある経営者が、最近は経営にとって難しい状況があってトンネルを通っているという感じであった。トンネルを通ってそのうち明るいところに出られると思っていたら、トンネルを出た先は闇だった、と言っていた。これは予想をはるかに越える最近の経済金融不況のことを指している。
このように、この世は、トンネルを通って必ず明るいところへ出て行くとは言えない状況がある。この世で生きること自体が暗いトンネルだと思うようなこともたくさんある。
しかし、もし私たちが神とキリストを信じるときには、そのトンネルの先には必ず明るい神の国、天の国がある。どんなに苦しいことがあっても、主イエスもなぜ私を捨てたのか、とまで叫ぶほどの苦しみがあっても、そのトンネルを通って天の国に帰られた。ヨブという人も長い耐えがたいトンネルを通って、神からの言葉があり、そこから抜けることができた。
私は道であり、真理であり、命である、そのように確言できるお方がいる。
私たちの心もトンネルのなかを通っていくようなものである。しかし、そのトンネルをさっと通り抜けさせて下さるのが、十字架のあがないの信仰であり、復活の信仰である。死んだもの、闇のただなかにあるものを復活させてくださるというのである。そしてこの世も最終的には新しい天と地になるという約束がある。
「わたしは、ダビデの若枝また子孫であり、輝く明けの明星である」(黙示録二二・16
という箇所がある。今から三千年ほども昔のイスラエルの王ダビデの子孫として生まれる救い主イエスは、輝く明けの明星であるというのである。明けの明星とは、金星であって現在(十二月下旬)は宵の明星として毎日夕方に特別に明るく輝いて見える。
この短い聖書の言葉のなかには、イエスがどのようなお方であるかが示されている。
ダビデの若枝、ひこばえ、あるいは子孫と言われているのは、イエスは実際に歴史のなかで大きな働きをしたイスラエルのダビデ王の子孫として、また、本質的に新しい枝として生まれるということである。 イエスが生まれる七百年ほども前から、すでに救い主が現れることが預言されていた。それはイエスが現れるというのは、人間の計画とか、人間の意志、努力、あるいは組織や経済力などとは全く関係なく、神の御計画によってこの世に現れるのだということである。
この世界は単に偶然で動いているのでなく、さまざまの偶然に見える出来事の背後に大いなる愛の神がおられ、その神が支配され、導いておられるということなのである。
キリストが明けの明星である、といわれ、また次のように言われている。

同じように、わたしも父からその権威を受けたのである。勝利を得る者に、わたしも明けの明星を与える。(黙示録二・28

さまざまの厳しい迫害を受けつつ、それに信仰によって耐え抜いた者には、キリストご自身とも後にたとえられている「明けの明星」を与えるという約束である。なぜ、このような特別な表現で約束されているのだろうか。
この少し手前の箇所から、勝利を得る者に与えられるものがいくつか記されている。

「勝利を得る者は、神の楽園にある命の木の実を食べさせよう。」(黙示録二・7)とある。また、隠されていたマンナを与えようとも言われている。さらに、諸国の民の上に立つ権威も与えられ、白い衣を着せてもらえるという。
このように悪の力の攻撃に対して神にすがって勝利を得る者に与えられるのは、命であり、力であり、また清めであることがわかる。
そうした中に、この明けの明星を与えるということが記されている。勝利を得る者の特質は、いかに闇が深く私たちを覆うようであっても、つねに夜明けがあるということを内に実感するという約束である。そしてそれはどんなに闇が永く続いても必ず夜明けがあるという強固な希望である。そのようなものが与えられるということである。また、キリストそのものが与えられるということも含まれているであろう。
闇の中、まったき暗黒の中で待ち望むその光、それは明けの明星を見たとき、まさにあの星の輝きこそ、その闇を打ち壊し新たな夜明けをもたらすお方を指し示しているとの深い霊的直感があったと考えられる。
ハンセン病と光
人間の経験したあらゆる病気のなかでも、取りわけ恐ろしい運命となったのが、ハンセン病であっただろう。
ハンセン病療養所の牧師として、何十年という歳月をハンセン病の方々を霊的に導いてこられた播磨 醇(じゅん)氏は、次のように書いている。

一九五五年の夏、関西学院大学神学部大学院生であった私は、国立ハンセン病療養所内の、光明園家族協会で五〇日間、神学生として夏期伝道実習にあたっていた。毎日ハンセン病の教会員と接しながら、みんなに喜ばれる教会奉仕に励んでいたが、その最後の夜、重病棟のひとりの女性患者から「キリスト様のお話しを」と求められた。 初めて、重病棟に治療着に着替えて入り、ベッドに座っていた後ろ姿の婦人に声をかけた時に、振り向いたその患者の顔を見て、うち震え、私はそのまま意識を失っていた。
気がついてみると、私はその患者のベッドの側にうずくまったままであったが、顔も口もこわばってしまって声もでなかった。
そしてそのまま逃げるようにして、その場を去ったのである。必死になって救いを求めていたその婦人の前で。
現在、このような重症者を日本の療養所で見ることはない。
しかし、いま振り返ってみて、このことが 「らいと私」との出会いの原点であったのだと思う。
(「極限で見たキリスト聖書の《らい》をめぐって20頁 播磨 醇著 キリスト教図書出版社 )

ハンセン病の療養所内で、毎日患者の人たちと接していたにもかかわらず、最重症患者の顔があまりにも異様な恐ろしい状態であったために、気を失ったという。
私が小さい頃、ときどき母から、最も悲惨な人たちとして、らい病の人のことを聞いた覚えがある。それは、顔を包帯で巻いて神社などで乞食をし、寺社の屋根の下や大きい橋の下などですごしていたということであった。 イギリスのハンセン病の専門家、ブラウンの書いた書にも、「実際に、らいの犠牲者たちが放置されて重症になった場合、ぞっとするような、吐き気を催すような外観を呈したことが多かったことは事実である。その姿は人間とは思えないことがあった。」という。(同書19頁)
以前は、治療薬もなく、放置され捨てられ、家を追放されるか自分で出ていったのであり、だんだんと病気が進むとこのように見た者に恐ろしい外観を呈するようになったのが想像できる。
そのような状況に至るまでに、家族から引き離され、悲嘆と絶望、差別のどん底に突き落とされ、病気の苦しみだけでなく、家族、親族や周囲の人たちとの完全な隔離をされて、生きなければならない状況にあった。さらに家族もまたらい病者の家族として、周囲の冷たい待遇と、肉親をも放置してしまわざるをえない苦しみを耐えていかねばならなかった。
そして普通の病気ならば、治療の状況、治るのにいつまでかかるか、治らないのかある程度の見通しがつく。しかし、ハンセン病においてはそのような見通しもつかず、しかも徐々に体はむしばまれ、さらに悪化すると顔面はひどい状態となり、目も病気におかされ失明し、さらに取り出さねばならないことすらあり、手足もなえてしまったり、さらには切断せねばならない人も生じてくる。
これほど精神的にも肉体的にも、また社会的にも絶望的な病はなかったと思われる。
そこは全くの暗夜であり、どこまでも続く深い深いトンネルであった。
しかし、このような恐るべき道にも、キリストは希望を与えることができてきた。ハンセン病の深い闇の世界に置かれた人たちにとって、その闇にさえも必ず夜明けがあると確信できるならそれは何よりも幸いなこととなる。
ハンセン病療養所の長島愛生園につくられた教会の名前は、一九三一年に創立されたとき、曙教会と名付けられた。それは、文語訳の新約聖書にある次の聖句からであった。
「我はダビデのひこばえ またその裔なり、輝ける曙の明星なり」(黙示録二二・16
明けの明星のように、キリストによる明るい希望を指し示す教会を目指して名付けられた。(「全国ハンセン病療養所内・キリスト教会沿革史」二一六頁)

ハンセン病の人たちにとって、キリストは夜明けを指し示す、強い光を輝かせる明けの明星のごとき存在であったであろうから、この名称は多くの人たちの共感を得たと思われる。
また、現在の日本では最大のハンセン病療養所である、熊本県の菊池恵楓園には、菊池黎明教会がある。この黎明というのも、夜明けということであり、ハンセン病の長い暗夜にも必ず夜明けがある、その夜明けはキリストがもたらすという信仰が背後に感じられる。
恵楓園にはカトリックの「暁星会」という教会もある。この暁星という言葉も、夜明け前の星を言う言葉で、明けの明星である金星を指している。
さらに、鹿児島県の星塚敬愛園にも、「暁(あけ)の星会」という教会があり、これも「暁の明星が、信者と信仰を求める人々の道しるべとなる恵みを願って」名付けたという。
これらに共通しているのは、闇の扉を開く明けの明星たるキリストを待ち望む心であり、信仰である。
魂の夜明け、病のために体は朽ち果てて目も見えなくなり、足も切断し、全身の感覚も失ってしまったような状態になった一人のハンセン病の女性患者(玉木愛子)が次のようにその心境をつづった。

毛虫匍(は)えり 蝶となる日を夢見つつ

玉木はある日不思議な夢を見た。それは、目の前に醜い毛虫が匍っており、美しい蝶がとんでいた。彼女は毛虫は大嫌いであった。その毛虫が、玉木に語りかけた。

「お前は、目の見えるころ、私を非常に嫌った。その嫌う姿がお前なのだ。
今しばらく嫌われているうちに、まゆができ、中でさなぎに変ると、次には人も喜び、自分も甘い花の蜜を吸い、香りの高い花から花へと移って行けて楽しい美しい蝶となる日が巡ってくるのだ。
嬉しいではないか、今しばらくの辛抱だ」

そのように、玉木は夢のなかで、毛虫を見て、それがこのように自分に語りかけたと書いている。
この言葉は、そのまま彼女の気持をあらわすものであっただろう。自分は、毛虫が歩くように歩くこともままならないほどに病状は悪化し、しかも一般の人々からは忌み嫌われる。しかし、必ずその夜明けが来る。その光をすでに玉木は失明した暗黒の中において、はっきりと見ていたのであった。明けの明星たるキリストを見ていたのである。
どんなにみすぼらしい姿となり、見るも無惨な外見となろうとも、輝かしいキリストの栄光のような姿に変えられるという聖書の約束は、まさにこの毛虫が蝶となるということに他ならない。どんな人でも、ただ主を仰ぐ心を持ち続けるだけで、すべてが清められた存在に復活するのだという約束はとても喜ばしいことである。

彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さる。(ピリピ 三・21

玉木愛子と同様に、ハンセン病の重い症状のために失明し、手も足も皮膚も病魔にむしばまれて三十二歳で召されて行った青森県の療養所(松丘保養園)の沢田徳一は次のように星の世界で象徴される永遠の神の国への思いを書いている。

永遠につきることなき憧憬は
大いなる神の星空を見出す
創造者は探求者に
別の世界を与えたのだ
見よ、生命と現在は
あの星の世界に通じている。

暗黒に星を求めるわが兄弟よ
永遠に滅びない国を讃えよ
永遠に輝く星の光には
地上の境遇の厳しい差別はない

同じ星の下にある兄弟よ
永遠の星の世界に帰れ
(「星と詩人」沢田徳一著 聖燈社14頁)

目も見えなくなり、全身が病気に冒され近いうちに死を迎えると自覚していた沢田は、その暗黒の中から暗夜に輝く星に強い憧れをもつようになっていったのがうかがえる。あの星のかがやきこそは、闇のなかでも光そのものであるキリストを示すものであり、しかもその希望の星たるキリストは永遠に消えることがない。
ハンセン病の絶望的な闇にある人たちも必ずその光を受けることができるし、地上の命が終わったときにはあの星のような輝かしい永遠の存在と変えていただけるのだという強い希望を与えられていたのが、この詩から感じられる。
沢田は、とくに次の聖歌を好んで歌ったという。

「わが罪のために」
1わが罪のために 見失せ給いし
主を拝しまつる 日ぞなつかしき

(折り返し)
麗しき星の かなたに行きて
目の当たり君を拝しまつらなん

2 見るところ今は 微かなれども
その日には顔を 合わせて相見ん

3 輝くみ顔を 拝しまつらば
憂いと悩みの 雲は消え失せん

4 げにわれの望み われの喜び
主を拝しまつる 日はいや近し(新聖歌 五一五番)

この聖歌の内容は、沢田が心から憧れ、肉体の目は見えないが、魂の目で見つめ、思い続けていたその世界と深い共通点を持っている。
復活という真理はいかなる状況のもとにあっても、明けの明星のように夜明けを告げるメッセージとなる。突然の事故、災害などによって肉体の命を失うことがあろうとも、その人は単に不幸で終わったのでない。そのような悲劇的な死であればいっそうあの食物もなく金持ちの食卓からの残り物を拾って生きようとしていたラザロが死後アブラハムのもとに連れていってもらえたように、主がその魂を引き上げられるであろう。貧困のゆえに、また戦争や災害のゆえに苦しみつつ死んでいかねばならなかったたくさんの人たちにおいても、このことを期待できる。
また、さらにこの世界全体においても、至るところで貧困、飢餓、また内戦や闘争が行われている。人間の歴史とは長い闇の連続、終わることのないトンネルのようなものである。しかし、そこにも必ず夜明けがある。それが、再臨の約束である。
万能の神、そしてこの天地宇宙の創造者である神ゆえに、私たちの小さな汚れた人間をキリストのような輝かしい存在に造り変えるのと同様、この天地をも新しい天と地に造り変えるという真理である。それがどのようなことなのか、私たちは自分の復活の姿を具体的には言葉で説明できないように、新しい天と地も言葉を超えた霊的なものであるであろう。
私たちは、そのような言葉を超えたことを詮索することでなく、その確固たる約束を信じることを求められている。そしてそのことはまさに幼な子のような心で受け取り、信じるものには祝福が注がれる。主イエスが言われた通りである。
私たちの折々の苦しみや闇、そして社会的な混乱や災害、あらゆる問題について必ずそうした夜が明けるときがある。その夜明けを告げるためにキリストは来られたのである。


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