イエスのまなざしを受けるとき
三度の裏切りの後で(ルカ福音書二二・5462

イエスが捕らえられたとき、弟子たちはみな逃げ去った。そのうちペテロだけは、イエスが連れて行かれた大祭司の家にはいって行った。イエスにどのようなことが起こるのか、イエスを捨てて逃げ去ったことが心にかかり、一人引き返してイエスの後についていった。
そのときに、女中がペテロを見た、そしてじっと見つめて言った。「この人もイエスと一緒にいた」 ペテロはすぐに否定して「その人を知らない」と言ってしまった。さらに別の女中が「この人はナザレのイエスと一緒にいた」と言ったが、ペテロはやはり「そんな人は知らない」と言って否定してしまった。
女中とは、聖書の原語(ギリシャ語)では、パイディスケー paidiskh と言って、この語は、パイス (pais)「 若者」 という語から派生した語であり、 年若い女中、あるいは女奴隷である。すなわち、最も地位の低い、何の力もないようなものであった。そのような相手によっても、ペテロは簡単に敗北してしまったのである。少し前までは、命を捨ててでもイエスに従っていくという気持があり、また剣を抜いて相手に切りかかったのであり、実際にそうした気持があったことがうかがえる。しかし、その場合も、もしイエスがやめさせなくて、切り合いになっていたら、ヨハネ福音書によれば、兵士たちも加わっていたとあるから、多勢に無勢でありたちまち漁師あがりのペテロは殺されていただろう。
そのような強気は力なき若き女奴隷のような小さな者によって、打ち砕かれてしまった。
いかに人間の意志というのは弱いものであるか、一貫して持続することができないか、そして自分では思いもよらない嘘を言ったり、逃げたりする不真実な存在であることを知らされたのである。
これは、使徒パウロがその手紙で述べていることである。

わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。
なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。
すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。
わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。
(ローマ七・2024より)

ペテロにもイエスに従っていこうという意志はあった。しかし現実にはたくさんの人たちのうち最も地位の低いと思われるような若い女奴隷のような者に対してすら、イエスとの関わりを言うことができず、かえって激しくイエスとの関係を否定するという悪を行ってしまった。
ペテロは、女中が「あなたもイエスと一緒にいた」と言ったとき、少し前には、剣を持って大勢の武装した集団に切りかかったほどであったから、自分はイエスの弟子だ、イエスは罪なきお方だと、反論することができたはずである。しかし、それは心の動揺と混乱のなかでは恐れにのみこまれてしまった。
それはたしかにパウロが述べているように人間の内には善を行わせることを妨げる力、罪の力があることを示している。
そうしたすべてを見抜いていたのがイエスであった。イエスのまなざしは、単に非難する心ではなかった。すべての弱さと罪を見抜きつつ、しかもそこからの悔い改め、魂の方向転換を招くお心があった。
当時、人々から見下され、汚れているとされたザアカイにおいても同様であって、彼のそれまでの不正な生き方、金をたくわえたこと、ユダヤ人としてまちがった生き方であったことなどを非難せず、イエスのもとへと招くまなざしであった。(ルカ福音書19章)
また、放蕩息子においても、自分勝手な生き方をして、家族にも大きな迷惑をかけてきたにもかかわらず、そのことについてはひと言も触れることがなかった。遠くに遊びに出ていった息子をも心において見つめ続け、そして魂の方向を転換したときには全面的に受けいれた。
主イエスのこのまなざしは、神のお心そのものである。
ここには、人間の善き意志、しかし力のないこと、罪深いこと、またそれらすべてを見抜いておられるイエスのまなざし、そこから立ち返って神のもとへと招く愛のまなざしがある。そしてそれに応えるペテロの心がある。
激しく泣いた、それは自分がいかに大きい罪を犯したか、罪深い者であるかを思い知らされたことであった。しかし、この涙は、悔い改めに導く命を与えるものとなった。悲しむ者は幸いだ、という主イエスの言葉の成就となった。
イエスのまなざしには、正義と憐れみが深く同居していた。いかに人間は正しい道からはずれているか、それを明確に知らしめるためのまなざしでもあった。それを私たちが認識してはじめて、主イエスの愛の招きを受けいれることができる。
人間の心には、この二つが同居できず、いずれか一つにかたよってしまう。罪を犯した者を非難し、自分の正義を主張するだけになるか、人間的感情で憐れむだけになったりする。放蕩息子の兄は、非難するだけの眼しか持っていなかったたことが記されている。
イエスなど絶対に知らない、知りたくもない、という強い気持は、イエスの本質である愛や正義、真実に背を向けることであり、それがイエスを捕らえ、殺そうという心になっていく。イエスを十字架につけたのは、私たちの罪であると言われるのはそのような意味においてである。
主は、ある人の悔い改めがどこにその出発点があるかを見極められる。
人間が日々の生活で何を考えてなすべきか、主イエスは、私たちの最も基本的かつ、最終的な目標は「まず、神の国と神の正義を求めよ」であると言われた。この姿勢にすべてが含まれているからである。ほかの箇所で、主イエスは、「『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい」(マタイ 九・13)と言われたように、神の国を求める心は、憐れみを求める心であり、苦しむ者を顧みようとしないのは、正義に反することでもある。
また、ヨハネ福音書四章にあるサマリアの女の記事も、正しい原点に立ち返ることの人生を示している。
当時、ユダヤ人たちは、すぐ北方にあるサマリア地方の人とは交際もしていなかった。偶像崇拝をしている民と混血しているゆえに汚れているとしていたからであった。
主イエスがたまたま出会った一人のサマリア女との井戸端の話しをしていたとき、その女はイエスを特別な人、メシアである可能性が高いと直感した。そしてイエスにいのちの水をいただきたいと願った。
しかし、主イエスは、その女が過去に罪深い生活をしてきたこと、五人も夫を変えてきたことを見抜いておられた。そしてその罪をはっきりと知ってそうした生き方がまちがったものであることを認識してはじめていのちの水は与えられることを示された。
(ヨハネ福音書四章)
自分が正義の原点から離れているということを知らない者、それを認めようとしないで、自分は正しいとあくまで思っているときには、その人は神の憐れみを受けることができないのである。
聖書に二人の金持ちの記事がある。
一人は金持ちであるが、永遠の命を受けたいと主イエスのもとにやってきた。そしてモーセの律法をすべて子どものときから実行してきたといった。その上に何をしたらいいのかと尋ねたのである。自分は正義にかなった道を歩いてきた、と考えていた。しかし、人間はそのようなものでなく、到底正しい道を歩き続けていくことはできないのであり、そのことを知らせるために、「あなたの全財産を貧しい人に与えよ」と実に厳しい言葉を言われた。それはそのような命令によってしかその人は自分の限界に気付かないと見抜いたからである。
しかし、同じ金持ちであっても、徴税人のザアカイには、そのような要求はしなかった。それはイエスをみたい、イエスと出会いたいという真剣な心を持っていたこと、また自分は正しいという意識がなかったからであろう。
このことは、十字架でイエスとともに処刑された一人の罪人も同じである。彼は、「我々は、自分のやったことの報いを受けているのでから、当然だ」とはっきり言っている。そしてその上で、イエスへの全面的な信仰、信頼があった。弟子たちすら、イエスが復活するということ信じられなかったのに、その罪人は、死を目前に控えたその十字架上で、「あなたの御国に行くときには、私を思いだして下さい!」と最期の苦しみのなかで祈り願ったのであった。
イエスのまなざし、それはこうした正義の原点に立ち返っているかどうかを見極め、その上で限りのない憐れみを注いで下さる。それがどんなに重い罪であり、人々が決して赦そうとしない罪であってもイエスだけは神の愛をもって赦される。
イエスのまなざしは、人間を正しい原点へと引き戻し、そこから罪を赦す愛をもって見つめるものである。
主イエスが捕らえられたときには、一睡もしていなかった。その夜は、弟子たちとともに最後の夕食をとり、そのあとゲツセマネの園に行って生涯のうちで最も真剣な苦しい祈りを長時間にわたって眠ることもせずにされた。弟子たちはみんな眠ってしまっていた。
そしてそのあとにイエスは逮捕され、連行されたのである。心身ともにすべてを注ぎだしての一夜であったために、疲れ果てていたであろう。それにもかかわらず、イエスは迷える羊への深い愛を注ぎ続けた。三度もイエスの弟子であることを否認するという背信行為をしてしまったペテロの魂の奥深くをも見つめ、その転落から引き上げようとされたのである。
十字架で処刑されたもう一人の罪人や祭司長、律法学者、長老たちは最後までイエスを罵り続け、「お前は他人を救った。自分を救えない」とあざけった。 確かに主イエスは、みずからを苦しみから解放しようとはあえてされなかった。かえってその苦しみを甘んじて受けられた。そして最後の最後まで他人の救いに心を注ぎだされた。もう十字架で激しい苦しみのあまり息絶え絶えになるようなときにあっても、なお、すぐ横で釘付けられている罪人を救いに入れられたのであった。
三年間、ペテロはイエスと共にいた。そして多くの教えを毎日受けてきた。また数々の奇跡を目の当たりにし、さらにイエスの祈りや生活がいかに通常の人間と異なるかをも深く知らされてきた。
しかし、それでもなお、ペテロの自我は打ち砕かれることがなかった。それは弟子たちの霊の目が眠っていたからである。イエスが捕らわれる少し前に、ゲツセマネの園においてイエスが真剣に祈るようにと命じておいたが、弟子たちはみんな眠り込んでしまっていた。イエスが直面する危機にあるにもかかわらず、すべての弟子たちが眠ってしまったのである。途中でイエスが起こしにきてともに祈れと、言われたがそれでもまた眠ってしまった。
このことは、彼らの魂の状況が深い眠りにあったことを暗示している。自分の罪もイエスの深い赦しの愛も、またイエスの苦しみを通して神の御計画がなされていくということも、そうした深い真理はすべて見えなかった。眠り込んでいたのである。
その眠りを根底から揺り動かし、彼らの固い自我を砕くことになったのが、イエスの逮捕と自分たちの裏切り、そしてイエスの予言通りに三度も裏切ったときにニワトリが鳴いたこと、そのようなペテロにイエスのまなざしが注がれたことによってである。
幾年にわたる修業も学びも、また不思議なわざを見ることも、イエスの深淵なまなざしを受けることには及ばないのである。しかも、そのまなざしはこの場合のように、わずか一瞬ともいうべき短い時間であった。
使徒パウロがキリスト教を邪教だとして迫害を続けていたがそのときにいろいろなキリスト教徒たちの主張や証し、あるいはステファノの殉教などを目の当たりにしてもなお、転換はなされなかった。しかし、ただ天よりの光と主イエスの直接の語りかけによってたちまちそれまでの誤りは砕かれ、イエスへと方向転換をした。
ペテロの回心、それは主イエスとペテロの二人だけの間で生じた。本当の転換はつねにこうした主イエスと私という一対一の関係のなかで生じていく。
そして、この転換は自分の弱さと正義に反する罪深い本性を思い知らされることによってなされる。
ペテロにおいては、このときの経験は、転落というより、再生であったということができる。この苦しい経験によって初めて自分の本性を知り、主イエスによる救いがなければ何一つできないということを思い知らされ、後に聖霊を受けて力強く福音宣教のために立ち上がることへとつながっていくのである。
ペテロはイエスのまなざしを受けて、外に出て激しく泣いた。自分の犯した重い罪に対する悲しみとまた主のはかりしれない愛に触れて深く魂が揺り動かされたゆえの涙であっただろう。涙を流すことができない、ということは心が堅くなってしまったこと、人間らしい心を失ったことでもある。
私たちは深い悲しみや感動によって涙を流すことによって心は清められることがある。悲しむものは幸いだ、神によって慰められるからであると、主イエスは言われた。ふつうの悲しみや涙もその魂に働いてなんからの清めをする。それゆえ、さらにその涙が主によりて動かされた涙であるときには、清めとともにその悲しみから主にいっそう近づけられるという安堵の念を生じる。
み心に沿った悲しみは命に至らせるが、人間的悲しみは死に至ると言われている通りである。
この世の娯楽などに夢中になっているときの喜びより、涙の中から与えられる罪の赦し、悔い改めや慰めがはるかに深い。
「神を信じているなら、いかなる境遇にあっても私たちには喜びや慰めは与えられる。それが悲痛のときに与えられるときには、この世の楽しさが与える満足に勝ること数層倍である。」と内村鑑三も述べている。
「鶏が鳴く前に三度私を知らないと言う」と主イエスは言われた。ペテロが実際に三度イエスとの関わりを否定したとき、鶏が鳴いた。そのときペテロはイエスのまなざしを受け、その言葉を思いだした。もしペテロがイエスの方を向いていなかったらイエスのまなざしを受け取ることはできなかった。イエスのあとを遠くからであってもついて来ずに、遠くへと逃げてしまっていたら、鶏の声もきこえなかっただろう。はなはだしい過ちを犯してもなお、イエスの方向へと歩み、見つめようとしていたペテロにこそ、主のまなざしは注がれ、イエスの言葉に立ち返ることができたのであった。
私たちも鶏の声に相当することが確かに与えられているのであろう。それは何らかの書物や、人との出会いであったり、自分の事故や病気、なるいは周囲の人たちのうちでおきる出来事であったりする。またあるときは周囲の自然がそのようなものとして用いられることがある。
そのとき、常に主イエスの言葉、聖書の言葉に立ち返り、私たちを見つめる主のまなざしを受けようとすることが求められている。
現代の私たちにおいても、そこからすべてが始まっていくからである。


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