社会問題と信仰の問題

社会問題とキリストの福音や信仰とは、どのような関係があるだろうか。
そもそも社会の問題とは何か。人間が二人、三人集まったらすでに一種の社会である。社会とは、「共同生活を営む集団」をいうからである。 最小の社会とは家族社会である。数人の小規模の会社であってもそれもまた、一種の社会である。
互いに愛し合え、という最も重要な戒めは、人間の集まり、すなわち社会への対応の仕方についてであるということになる。
この互いに愛し合うということに最も対立するのは、憎み合うことであり、その行き着くところは互いに殺し合うような事態である。それは戦争や内乱ということである。
それゆえ、互いに愛し合えとの主イエスの言葉に従うとき、社会的には戦争のようなことが起こらないように、と願うことは、ごく自然なことになる。
戦争ということになると、とくに病人、障害者、老人、女性、子供といった何らかの点で弱者にその圧迫や重荷がかかってくる。
さらに、主イエスは、「剣をとる者は剣によって滅ぶ」と言われたがそのことは人間の集団(社会)のかかわる問題の処理に武力を使ってはならないということを意味している。それゆえ、そうした主イエスの精神を受けるならば、戦争ということは、互いに愛し合うことにも真っ向から反するうえに、弱者を踏みつけることにつながるから、そのようなことには当然反対すべきだということになる。
また、主イエスは、当時の社会的な重要な役割を果たしていた神殿について、両替することなどを「強盗の巣」にしているという厳しい言葉で非難し、そうした神殿で商売をしている人たちの机をひっくり返し、追いだしたというほどに強い姿勢を示された。
それだけでなく、当時の社会的指導者であった律法学者、祭司、長老といった人たちの偽善性にも「真っ白に塗られた墓であり、表面はきれいにしているが、内側は汚れで満ちている」と驚くほどの強い表現でその間違った態度を指摘された。これはまさに当時の社会問題を真正面から見つめてその間違いを指摘したことである。
そしてまた、エルサレムの都に近づいたとき、「ああ、エルサレム、エルサレム、お前は見捨てられてしまう。」と涙を流して悲しみ、それは神の時を受けいれようとしなかったからだと言われた。
このことも、エルサレムという言葉で、ユダヤ人全体の社会を指して言われたのである。ユダヤ人全体の精神的状態が、唯一の神への信仰を希薄なものとし、あるいは全く失い、神が特別に遣わされた救い主をも受けいれず、かえって殺してしまうほどにかたくなな心になっていることを悲しまれた。これは、ユダヤ人の宗教的な状況全体を指して言っていることである。
個人の魂のあり方の問題と、そうした一人一人が集まった社会や国家といった問題の根本は同じであるということ、これは、預言書には一貫して記されている。
旧約聖書の代表的預言書の一つであるイザヤ書はつぎのような言葉から始まっている。

天よ聞け、地よ耳を傾けよ、主が語られる。
わたしは子らを育てて大きくした。
しかし、彼らはわたしに背いた。
悪い行いをわたしの目の前から取り除け。
悪を行うことをやめ、善を行うことを学び、
裁きをどこまでも実行して、
搾取する者を懲らし、
孤児の権利を守り、
やもめの訴えを弁護せよ。
(イザヤ書一章より)

このように、イザヤ書は、「天よ、地よ、聞け」という壮大な呼びかけから始まっている。これから記すことは、一人の人間とか一民族や特定の国の問題でなく、世界全体が耳を傾けるべき普遍的な真理だというのである。確かにイスラエル民族についてその腐敗と罪を指摘しつつ、そこからの解放、救いの道をも同時に明確にさし示しているのであるが、それは真理そのものであり、時間と場所を越えてあてはまる真理であると言おうとしている。
その後に書かれていることは、一人一人の魂のあり方であると同時に、それは社会全体のあり方、国家の指導者や民のあり方を示している。個人の歩むべき道は、そのまま国家民族の歩むべき道であることを示しているのである。
マザー・テレサが、神からのうながしを聞き、聖マリア学院の校長の地位を捨てて、周囲にたくさんいた最も貧しい人たちのために働くということをはじめた。それは神の声であり、組織も何もないところからたった一人に示された神の言葉に忠実に従っていくところから出発した。すると、彼女の教え子が自発的に次々と加わり、一つの修道会が造られるに至った。そして世界の各地へと広がっていった。
このようなマザー・テレサの働きをみても、個人的に、「隣人を愛せよ、弱い人貧しい人を愛せよ」との聖書のメッセージを深く受け取ったところから始まったが、次第に周囲の社会に働きかけることになっていった。個人的な救いと救われた者の歩みということと、社会問題ということとは切り離すことができないことなのであった。彼女は、インドの政治や世界の政治のあり方を批判したりはしなかった。しかし、社会にキリストの愛を告げ知らせるという大きな社会的働きをするに至った。
マザー・テレサが受けた救いの福音は、数十年を経て周囲の貧しい社会に大きな働きかけをすることへと通じていった。
また、日本において、盲人たちに点字の聖書を作り出し、だれもが聖書を読めるようにするにあたって最も大きな働きをしたのは、内村鑑三の信仰の弟子でもあった好本 督(ただす)であった。彼の働きによって盲人にも神の言葉が読めるようになり、現在もなお続いている点字毎日は、やはり好本 督の尽力によってその刊行が開始されたのであった。それは、一九二二年に発行されて現在も続いている。彼の働きは、非常に大きく盲人を神の言葉の世界に開き、またその他の社会的な活動へと道を開くものとなった。
これらはほんの一例にすぎない。キリストの福音と社会的問題ということは、道が続いていることが実に多いのである。どこからがキリストの福音で、どこからが社会的問題であるという明確な線を引くことはできないのである。
はるか古代においても、キリストの福音をしっかりとその魂に受け取ったキリスト者たちは、あの迫害の激しかったローマ帝国においても、どのような苦しみが続いても根絶されることなく、かえって広がり続けていった。そしてついに社会的、政治的な状況そのものまで変えるに至ったのである。
このように、一人のキリスト者からいろいろな社会的方面へとその働きが広がっていくこともあり、国家のあり方まで変革されていくことも生じていった。
主イエスが言われたように、最も重要なことは、「神を愛すること」であり、その神の愛を受けて「人を愛すること」である。そしてこの愛は必然的に社会的なものとなる。愛とは、他者にかかわることであるからだ。
しかし、このようにキリストの福音と社会的な問題がつながっているという事実があるとはいえ、つぎの事実も重要である。
すなわち、社会的にどのように変化しても、そこから個々の人たちの魂の救いが生じるということはないということである。江戸時代はいちじるしい差別的な社会であったし、政治の仕組みもその差別構造の上に成り立っていた。職業や結婚、居住移転の自由、信教の自由といった基本的人権や、福祉といった考えなどはなく、弱者はそのまま捨てられることが当たり前のような時代であった。
現在はそれに比べると比較にならない大きな変化した社会となった。
しかし、だからといって個々の人たちの魂の救いは容易になったであろうか。現在の豊かな社会、便利な社会になっても、魂の救いは江戸時代の暗黒の時代と同様に、自分の罪を認め、キリストに罪をあがなっていただくこと以外には与えられない。
社会が豊かになったり信教の自由が得られたからといって、救いはひとりでにやってくるのでは全くない。
しかし、それでもやはり、キリスト者が社会に関わり、少しでも良くしよう願うのは、キリスト者であれば、キリストが行ったように行おうとすること、キリストが思ったように私たちも思うということからである。
キリストは決して武力をもって悪と戦えと言われなかったゆえに、私たちもキリストにつこうとするなら、そのような考えになる。そこから現在の日本の憲法の平和主義をも守ろうとする考えへと至る。人を殺すこと、憎むこと、破壊したり盗むことは、聖書全体が禁じることであり、戦争はそのようなことが次々と生じることであるゆえに、キリストに従う者はそのようなことはなすべきことでないと考えるはずである。まず愛と真実の神を信じるならば、そのような考えは自然に導かれる。
しかし、まず平和主義を主張したからといって救われるのではない。社会的、あるいは政治的な問題をいかに議論して制度を変えてもなお、個々の魂の救いはそうしたこととは別のところから与えられる。実際、現在は江戸時代などと比べて制度としては、政治や教育、福祉などどの方面をとっても、はるかに向上したと言える。しかし、救いはだからといって近づいたとは言えないのである。かえって、子どものときから性的な誘惑に入り込み、生まれ出る命を堕胎し、また自分中心で学科の勉強ばかりに精を出すために、心の素朴さや純真さをますます失いつつあるのが現状である。
言い換えると、魂の救いは、差別の時代であれ、貧しい時代であれ、また戦争になってしまったような暗黒の状態であれ、どのような事態であってもやはり変ることはない。神を信じ、キリストを信じるということにあるからである。
救われた者は、聖書に記されているように、自分の考えとかでなく、自分を超えた神からの霊によって導かれ、人によってさまざまの方向にその歩みを進めるというのがあるべき姿といえる。ある人は最も小さな社会といえる家族に仕え、家族にみ言葉を伝えることに、またある人は社会的な活動のなかで福音を証しして生きる方向へ、またある人は直接的に福音伝道にと導かれる。それは社会的、あるいは政治的な領域へと導かれる場合もあるし、小さな家族のなかで福音を生き、それによってそこで支えられた家族が社会でまた生き生きと働き、福音を証ししていく、というようなこともある。
救いは、いかなる状況においても、神の一方的な恵みであり、私たちはその恵みを信じて受けるだけで救われる。そして一度救われた者は、様々な方面で聖霊に導かれて生きるのである。


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