極度の忍苦、艱難にも、行き詰まりにも
聖霊と愛と真理のことばと神の力により、
神の僕として自分を表している。

コリント六より)


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 心とからだは、不思議な結びつきをしているということは、誰もが身近な体験として感じていることである。深い悲しみ、あるいは怒りや信頼した人から裏切られた苦しみなどのとき、食事をする気持ちにもならないとか、そうした精神的なショックを受けると体を動かしてもいないのに、ぐったり疲れてしまうなど多くの人が感じてきたことであろう。
 最も直接的にわかるのは、初めての大勢の人たちの前で話しをするときなど、心臓の鼓動が早くなりドキドキするということである。みんながみている、うまく言えるだろうか、これを言ったら、どんな目で見られるだろうか、等々を心に思うだけで、心臓の筋肉が強く運動し始めるというのである。
目には見えない心の動きが、心臓の筋肉を強く動かすことにつながっているのである。 その途中で神経が情報を伝達するときに、神経細胞の中をナトリウムやカリウムなどのイオンが出入りし、それによって伝達していく。途中の神経細胞から、となりの神経細胞に伝達するときには、そのわずかのすきまにアセチルコリンなどの化学物質が放出され、役を果たすと別の化学物質(酵素)によって分解される等々の化学反応が生じていく。
強い光を受けると目を反射的に閉じるとか、熱い湯がかかるとただちに手を引っ込めるとか、声を出すとか目の前の物を取るといった日常の行動から、激しい体の変化を伴うスポーツにおけるさまざまの刺激、それが神経を伝わっていく速さは、秒速数メートルに満たない速さから、秒速百メートルを越えるような驚くべき速さである。
何かをしようと思ったらたちまちこのようなさまざまの化学物質の移動や生成、分解などが生じていく。目に見えない心、頭の考えや感じたことが、目に見える物質を生成し、動かしているのである。
ほとんどの人は、心の動きが、化学物質を動かすなどということは日頃は考えたことがないのではないだろうか。しかし、私たちのたえざる心の動きと何らかの動作、行動はみな、実は目には見えない心や頭で考えたはたらきが体内の化学物質を動かしている結果なのである。
このように、私たちの内部では、感情や考えたことが物質を動かすのであるから、時と場合によっては、それがある人の外部にまで驚くべきはたらきをすることがある。
聖書に現れる病気のいやしの奇跡も、キリストの心(霊的な力)が、キリストの外部の周囲の人たちのからだにも働いて目に見える変化を生じさせるということでもある。
 そしてこのようなことは、キリストだけに生じるのでなく、キリストの心、あるいはキリストの霊(聖霊)を受けたものは、その程度は少なくともこうした何らかの力を受けることが約束されている。
 これは私自身、キリストのことを知らされてから、それまでいかなる人や書物や学業によっても与えられなかった、不思議なある力が与えられたのを実感している。
このことに関して、思いだす書物の記事を次に引用する。

心と身体の結びつきの神秘を教えられた、強烈な思い出があります。
ある患者さんが外科で手術を受けたが、どうしても傷口がふさがらない。外科で困って、内科的原因かもしれない、と内科へ廻した。
内科でも原因がつかめず、心療内科へ廻した。心療内科でも困って、精神神経科へ相談。精神神経科へ廻された患者さんの傷口は、一晩でふさがったそうです。
これは、父が医学部の精神神経科の教授をしていた国立名古屋大学の附属病院での話です。
 父のお弟子さんの、若い女医さんが、当時まだ高校生だった私に教えてくれました。
「その患者さんの、心の不安が、傷口がふさがらない原因だったのね。何日間もお気の毒な思いをした患者さん、M先生の心の治療で一晩でふさがったのよ」と嬉しそうに言った女医さんの話が、私には忘れられないほど強い印象を残しました。

これは、精神科医を父としてもつある女優の文章にあった言葉である。これは特別な例であったと思われるが、たしかにときにこのような驚くべき心とからだの深い関係を知らされることがあり、この著者も高校時代にこのことを聞かされ、何十年たっても忘れられない経験となった。
 私自身も、イエスの愛を知らされて、初めてそれまで心の傷口がどうしてもふさがらなかったのに、そこではじめてふさいでもらったという実感を与えられた。
 聖書はまさに心と体の深い関係を、ほかのいかなる書物よりも徹底的に記していると言える。
 長い間、中風で苦しんでいた人がいた。その人の親しい友人たちが、イエスのもとに運んできた。しかし人がいっぱいで入ることもできないし、入れてももらえない。身動きできない人を起伏の多い、しかも渇ききった土地、太陽も照りつける道であったろうが、はるばる運んできた友人たちはなんとしてもイエスのもとにもっていきたかった。そのまま帰るわけにはいかなかった。
 そのイエスの力への徹底した信頼と病気の人への深い愛から、屋根の一部をはがしてまでしてその病人をイエスの前につり降ろした。そのとき、イエスは、彼らの信仰を見て、あなたの罪は赦された、といわれ、さらに起き上がることさえできる力を与えた。
 これは、心のなかの問題(罪)が赦されるということがどんなに体にも大きな影響を与えるか、ということを示すものである。
 多くの人は、どんなにしてもふさがれなかった心の傷をもっているだろう。心の不安、怒り、恐れ、憎しみといったものがあるかぎり、私たちの心の傷口はふさがることがない。それはただ、イエスのお心に触れてその愛を受けるときはじめてそうした人間的な暗い感情が溶け去り、その心の傷はふさがるのである。
 罪深い私たちは、繰り返し罪をおかし、まただれかによって苦しめられ、それによって自分で心の傷を開いてしまうことがよくある。しかしそのようなとき、そのような苦しみを与えた相手を非難したり、自分の至らなさを振り返っていてもますます傷口は広がっていく。
 私たちは、繰り返し心の医者たる主イエスに帰って、イエスを魂の目で仰ぐとき、血を流している傷口がいつしか、ふさがっているのに気付くのである。


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