山は揺れ動き、大いなる賛美生じる
ダンテの神曲 煉獄篇 第二十一歌

ここでは、その前の二十歌の終わりのところで、まるで崩れ落ちるほどに、山が揺れ動くのを感じた。あまりのすごさに死にゆく人が感じる寒けのようなものをダンテは感じたほどであった。その後、四方八方から耳が聞こえなくなるかと思われるほどの大声がわき起こった。
しかも、その煉獄の山全体から、賛美が聞こえてきた。
「高きところに、栄光神にあれ!」
であった。この賛美は、イエスが誕生したときに、たくさんの天使たちが神を賛美した言葉と同じである。
イエスの誕生は地上での最も大いなる出来事として、霊的な天使たちの大軍が賛美をもって羊飼いたちに知らせたのであった。
この煉獄篇の箇所においても、特別に重要なことが起こったゆえに、イエスの誕生のときと同じような賛美がわき起こったのであった。しかも、山全体を揺れ動かせるほどの振動も伴っていた。
ダンテは、いったいどうしてこのように山全体が揺れ動いたのか、それに賛美が伴ったのか、について強い疑問を持ち、非常な苦しみを覚えるほどであった。煉獄篇の二十一歌では、冒頭からこのことが記されている。

サマリアの女が乞い求めた水を飲むまでは、永久にいやされることのない渇きによって、私は苦しめられた。(煉獄篇第二十一歌一~四行)(*

*)ここで、ダンテが「自然の渇きが私を苦しめた」と訳されたところは、原文では、La set natural mi travagliava である。英語訳では、The natural thirst was tormenting me となる。(J.D.Sinclair訳)イタリア語の travagliare は、責めさいなむ、責め苦に合わせる といった強いニュアンスをもった言葉で、ここではこの動詞の半過去形が使われ、責め苦しめ続けた という意味になるので、英訳でも過去進行形で訳している。この語と同語源の travail は、英語では、産みの苦しみ といった意味に用いられる。 この箇所の英訳のtorment も普通の苦しみでなく、激しい苦痛を与える意味を持っている。

サマリアの女と水、これは新約聖書に現れるよく知られた内容で、イエスが旅に疲れて井戸のそばにいたとき、その井戸の水を汲みに来たサマリアの女に話しかけられたときのことである。イエスが、「この井戸の水を飲んでもまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は渇くことがない。」と話された。(ヨハネ福音書四の七~四二節)
この煉獄篇の二十一歌で記された出来事とその意味については、ただキリストからの命の水を飲まないかぎり分からないと、言おうとしている。ダンテがこの出来事の意味を知りたいと強い願いを持ったことは、その願いによって非常な苦しみを味わったということでもうかがえる。
それは、煉獄の山の出来事というだけでなく、現代の私たちの世界においてもきわめて重要なことである。
そしてそのような重要なことであったゆえに、ダンテはそのままにしておけず、強い願いと求めを持って苦しむほどであった。
この箇所では、普通の苦しみを表す言葉でなく、とくに責めさいなむ、といった強い意味を持つ言葉が使われているのも、この問題の重要性を示している。この煉獄の山全体が揺れ動き、しかも清めを受けている人たちがみな大声で賛美したということ、その理由を知らないままではとてもいられない、何か特別に重要なことがここにあるのだ、と言おうとしているのである。
真理を求めるときには、このように、苦しむまでに真剣に求め続けることが必要だということなのである。
主イエスが「求めよ、さらば与えられる」と言われたのもこうした真剣な求めには必ず答えられるという約束なのである。

山が動く、という言葉がある。今から二〇年ほど前の参議院の選挙において社会党が大勝したとき、当時の土井委員長が言った言葉であり、この言葉が広く用いられた。これは土井が同志社大学で憲法を学んだので、聖書にも触れていたからであっただろう。
しかし、山が動いたと見えたのは束の間であり、数年後の地方選挙で惨敗して社会党委員長を辞めることになった。この世の山は動いたと見えてもまたもとに戻ってしまう。
この世の状況というのはそういうものである。前回の総選挙で小泉旋風が吹いて自民党が大勝したのも、また、それと打って変わって今回の民主党の大勝も一種の山が動いたということがいえよう。これらの現象でも分るが、この世の変化などというものはいかに大きく動いたと思ってもまたじきに逆戻りしていくのである。
憲法九条に関しても、戦争直後はこの憲法の精神に国民は圧倒的多数が賛成した。軍備を一切持たない、
戦争はいっさい放棄するなどということはまさに山が動いた、ということである。
国家が自衛のために軍事力を持つというのは当然と考えられているから、それを否定するような精神を憲法に記すというのは、世界のほとんどどこにあっても動かせなかった山が動いたということである。
しかし、それもまもなく、一九五〇年の朝鮮戦争の勃発によって、はやくもその精神は崩れる傾向を示した。自衛隊という名の軍隊が生まれたからである。
このように、この世において、山が動いた!と一時的には思われても、それは結局動かなかったのだ、という苦い思いに変ることがよくある。

それに対して、この煉獄篇においてダンテが描いたような意味で、山が動くということは、煉獄というほとんどの人にとって現実的なものとは思われないような場所での出来事ではなく、本来だれにでも生じうること、経験できることなのである。
ダンテは、煉獄の山が大きく揺れ動いたこと、そして煉獄のふもとのほうから上の方に至るまで、皆が声を合わせて賛美をした、ということは、特別に重要なこと、大いなる出来事であるということを示そうとしている。
政治的、社会的な変革とか革命などでは、目に見える制度が大きく変わったとき、だれもが山が動いたという印象を受けるであろう。
地上で、大風が吹き荒れて、洪水があっても、地下には何の関わりもないように、人間の魂の深いところは、そのような外側の変化によっても変ることがない。
それは、そのような社会的な変動によっても、人間は別の方向に自分の欲望や願いをかなえようとするようになるだけであって、人間の本質は自分中心であるというのは変ることがない。それは、日本の歴史での大きな変革であった明治維新や戦後の改革の後を考えてもわかる。
それらの変革は社会的には大きな変動であったのは誰にでもすぐ分る。生活そのものが大きく変化したのである。しかし、個々の人間の心、その意志の方向は、自分中心であり、変ることがない。
これはいくら科学技術が発達し、民主主義の世の中になり、政治や社会の制度が変革されても、まただれかにノーベル賞が受賞されても、それらはみな、人間の魂の表面の出来事である。
いわば、地上の田畑が作られたり、洪水が生じたり、あるいは台風や竜巻などがいくら起こっても地下の少し深いところでは何の影響もないようなものである。
人間という存在が根本的に変革することこそ、そしてその変革とは、積み重なる罪がようやく清められ、神の国に向かってはっきりとした方向転換をすること、それが最大の出来事だ、そしてそれこそが真の意味で山が揺れ動く大きな出来事なのだ。
それゆえに、煉獄にいて苦しみつつ清めを受けているさなかの魂たちも一斉にそのことへの喜びを表し、賛美を発するのである。
ここには、大地を揺るがすような大いなること、ということへの見方が、普通の考え方とは全くことなっているのが分る。
たった一つの魂が、長かった苦しみと清めの日々を終えて、意志も自由にされ神のもとへと上っていく時が来た、それがこれほどまでに重要なこととされている。
山全体にわき起こった賛美とは、イエスの誕生のときの賛美と同じである。闇のなかの光として誕生され、永遠に人々を照らし、救うお方が生まれたこと、それは宇宙的に大いなる出来事であったから、「天使に天の大軍が加わり、神を賛美した。」(ルカ二の十四)のであった。
この煉獄の山でそのイエスの誕生のときと同じ賛美がわき起こったということ、それは、そのような大きな出来事に比べられるような出来事が、一つの魂が赦しと清めを受けて神への方向転換をはっきりと確定したときに起きるというのである。
さらに、煉獄の山が揺れ動いたこと、すなわち大いなる地震が生じたことは、もう一つの新約聖書で特別に重要なことを思い起こさせる。
それは、イエスの誕生とともに世界歴史の上で極めて重要な出来事となった、十字架の死である。その死は善の力の敗北でなく、勝利であった。こんなことは、普通の常識的考え方では到底分からないことである。それは哲学的な考えとか科学的に考えたとしても全くそのような考え方は出てこない。
イエスが十字架で死なれたことは、私たちの罪を身代わりに負って死んでくださったのであり、それを感謝して信じるだけで魂は新しく生まれ変わる、ということ、それは福音の中心である。
しかし、それは理性的な思索の結論ではなく、まったく啓示の結果である。啓示を受けたならこのことの真実性がはっきりとわかり、長年の魂の最も深い問題が解決されたと実感する。
人間の魂のうちに宿る闇の力に勝利して、壊れることのない希望を与えられたということなのである。
イエスは、十字架上で激しい苦しみのなか、叫びをあげつつ死んでいったが、このとき、ローマの兵隊の隊長が、イエスが神の子だったとの確信が与えられた。
このことによって、十字架の死において、イエスが勝利された、ということが象徴的に示されている。これは後にキリストの真理が、ローマ帝国の権力に勝利していくという歴史的な大事件を表しているのであった。
このような重要性を秘めていたのが、イエスの十字架上での死であった。それゆえに、このときも、次ぎのようなことが起きた。
そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いた(マタイ二七の五一~五二)

ここで言われていることは、およそ常識的には不可解で、起こりそうもないと思われる。
これは、私が小学校低学年のときに、家にあった、文語訳の小さな新約聖書(キリスト教のラジオ番組で贈呈されたもの)を、たまたま見付けて開いた箇所であった。
私にとって初めての聖書の箇所なのである。
しかし、あまりに子供向きの本などとは根本的に違った特異なことが書いてあるので、ここだけ読んでそっとそのまま置いてあるところに返しておいた、という記憶がはっきり残っている。それ以来一度もそのことを考えたり、母に質問したりしたこともなく、母もキリスト教のことなどは一切言わなかったので、ずっと忘れていた。しかし、それから十数年後、大学四年のときに、十字架の意味を書いた一冊の本で私の魂に大いなる変動が生じたのであった。
まさに、魂の地震であり、キリスト教に対しては岩のように固かった心が砕け、さまざまの苦しみのために墓のなかで死んだようになっていた私の魂の扉が開いて解放の光が射してきたのであった。
イエスの十字架の死、それは人間の魂を大きく揺り動かす。私にとってこれは驚くべき背後の御手を感じさせることであった。聖書のなかで最も重要な十字架のイエスの死、ということがたまたま手にとった箇所であり、それから十数年後に再びこれまた思いがけなく手にとって立ち読みした本でこの十字架の死の意味を書いてある箇所によって私はそれまでの長い魂のさすらいから救い出されることになったのである。
ダンテは、なぜ、煉獄の山が揺れ動き、大いなる賛美がそのときに山に響いたのか、その理由をその煉獄にいた一人の魂から説明を受けて深く納得することができた。

渇きがはげしければはげしいほど飲む喜びも大きくなるように、その魂が私に与えた喜びは、本当に言葉に言い尽くせなかった。(七四~七五行)

このように述べて、ダンテがこの理由をいかに激しく求めていたか、そしてそれが分ったことがどんなに喜びであったかを記している。それはそのまま、ここで記されたことの重要性を示すものである。
ダンテがこの煉獄篇二十一歌で、特別な表現と強調をしているのは、この世界には、たしかに魂を揺り動かす大いなる力が存在する。あらゆる悪が取り巻いていて、その力にねじ伏せられているように見えても、そのただなかでそこから、立ち上がり、神に向かって方向転換をさせるような力が存在するということなのである。
また、人間に与えられる本当の喜びとは、自分のひいきにするチームが優勝したとか、出世とか財産といったことでない。
魂が神に向かって方向転換するときこそ、本人にとっても、苦しみつつ清めを受けている人たちすべてにとっても最大の喜びだと言おうとしている。真に神に向かって悔い改めた魂は、きよめの途中の人たちにも、力づけ、賛美を歌わせるような影響を与えるのである。ここには、悔い改めがその人だけでなく、周囲の人たちにもたらす大いなる影響というのが暗示されている。
一般の新聞やテレビなどで言われているこの世の喜びは、どの方面にあっても、願い通りに結婚、就職などができたとき、成績が優秀、立派な業績、健康、病気のいやし、収入の豊かさ、友だちの多いこと等々である。
しかし、神が最も喜ばれることは、それはそのまま人間にとっても最も大いなる喜びとなることである悔い改め、すなわち魂の神への方向転換なのである。
このことを、ルカ福音書はとくに強調している。それは、ルカ福音書の十五章全体がそのことにあてられていることからもうかがえる。

悔い改める一人の罪人に関しては、悔い改める必要がない(と思いこんでいる)九九人の正しい(と思っている)人よりも、大きな喜びが天にある。(ルカ十五の七)

一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。(同右十節)

放蕩息子のたとえでは、次のように記されている。
「お父さん、私は天に対して、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」と祈り、父親のもとに帰って行った。
父親は遠く離れていたのに息子を見付けて、走り寄って抱きしめ、深い愛情を表した。 その上、急いで良い服を着せて、いままで働き者の兄にもしたことのないようなごちそうをふるまった。それは、「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに、見つかったからだ」といって、祝宴を始めた。(同十一節~二四)

これら三つのたとえは、自分中心の考え方、生きていく方向そのものが根本的に間違っていたことをはっきりと悟り、神の方向に心を向け変えるということが、天の国においていかに重要であり、喜ばしいことであるかを表している。
最初のたとえでは、「天に喜びがある」といい、次ぎには「神の天使たちの間に喜びがある」、そして最後の放蕩息子のたとえでは、愛に満ちた父なる神の喜びと祝福というかたちで、この魂の方向転換(日本語訳では「悔い改め」)をいかに神が喜ばれるか、それは天における喜び、宇宙的な喜ばしい出来事なのである。
この煉獄篇二十一歌において、一人の罪人が長い苦しみと清めを終えて、魂の明確な方向転換がなされ、天の国へと上っていくようになったことを、山全体が動き、人々が一斉に喜びの賛美をあげた、ということも、こうした主イエスの言われたことの延長上にある。
この世のさまざまの喜び、勝負に勝ったとか何かの賞をもらった、あるいは事業が成功した、といったみんながほめたたえるような喜びと、いかに質が異なることであろう。
さらに、主イエスが言われたような、天での大いなる喜び、ということは、本質的に誰でもが与えられ得る喜びである。病床にて何も仕事ができない人、勝利とか栄誉とかまるで関係のない孤独な苦しみに置かれている人であっても、この心からの方向転換なら可能である。
そして、このことは一回きりでなく、私たちが罪を犯し、心ならずも道にはずれたときでも、そのたびに主に立ち返るなら、そのたびに神は喜んで受けいれてくださることを信じることができる。
死に瀕した重罪人でも、そのことはできるゆえに、十字架でイエスとともにはりつけにされた罪人の一人は、死の間際で心から悔い改めてイエスが死んでも神のもとに帰るお方であること、神から来たお方であることを知り、イエスへの帰依を表した。ただその魂の方向転換のゆえに、主イエスから、今日あなたはパラダイスに入るという祝福の約束をいただいた。このイエスのお心は、放蕩息子を心から受けいれた父の心に通じるものを感じさせる。
たった一人の魂の神への方向転換がこのように大きな出来事とされるのが煉獄である。煉獄の門を入るとこの世の一切は影響を及ぼさない。海岸からその門に至るまでの地域では、風も吹き、雨や雪や露もある。雲もあり、普通の地震もある。
しかし、煉獄の門を入ったその上部の煉獄山においては、そのようなものは一切ない。
霊的な力(神の力)のみによってその山の状況が支配されているのである。
こうしたことも、また比喩的な内容を持っている。すなわち、ともかくさまざまの罪にもかかわらず、死に至るまでに悔い改めた魂は、煉獄の山にたどりつくことができる。そうした人たちが、煉獄の門を入り、そこで神のご意志による苦しみと清めを受けていく。そのようになった魂にとって、もはやこの世の出来事によっては、本質的なところで動かされることはない。それはなぜか。次のみ言葉によってすべてが善きことにつながるように神の霊がはたらくから、言いかえると神からの風がすべてを神の国へと吹き寄せていくからである。
「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、知っている」(ローマ信徒への手紙八の二八)


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