リストボタン「神の義の喜び」        那須 佳子

(これは、二〇〇九年十月の東京 青山学院大学で行われた無教会全国集会で話された内容です。)

このみ言葉をテーマに今年の全国集会が開催されました。私自身若いころ、「罪を見逃して義とされる」というこのロマ書3章のみ言葉は信仰の確信を与えてくれたみ言葉でした。今回、教育と神の義という発題をいただき今日まで祈ってきました。ささやかな証としてお話したいと思います。
 最初にこの発題の結論を言いますと、わたしは教育の目的はどのように時代が変わろうとまた子どものありようがいかに変化しようと、すべての子が将来神様に出会うこと、イエス様に出会うこと、そのことがいちばんの喜びでありすべてが解決されていく道であることを信じて、少しなりともそうした道を示していくことだと思っています。また年々その思いが強くなっています。

 さて、わたしにとって教育という仕事は、生活の中で大きな意味をもっています。信仰はもっぱら教育という営みの中で試されてきました。学校という現場はきれいごとばかりではない闘いの場でもあります。重い責任を負い次から次へ課せられる業務と子どもたちとのやりとりの中で心身ともすりへるような毎日です。しかしそこは信仰の行いの場、祈りの場でもありました。十字架のイエス様が日々心の中にありました。   
 朝目覚めた時、まず、「御名があがめられますように、すべてが神様のお考えで進めていけますように、今日一日精一杯やってみますから、どうかあなたのよいように為してください。あなたからの力をください。」と祈って出かけます。いろいろな問題を抱えている時そればかり考えていると苦しくなってしまいます。人の力では限界がある、自分の力で何とかしようという人の義ではなく神の義、神様から力をいただこう、ゆだねようと思った時たとえ問題はそのままでも不思議な平安をいただける実感がいつもあります。
 
 一日のなかのさまざまな出来事の中で、いくどか重要な選択を迫られる、判断を迫られる場面があります。子どもたちを激しく叱らねばならないこともあります。そのつどその判断の道を示してくれ、どんなに心が落ち込むようなことがあっても前へ進むようにと後押ししてくれたのは聖書の御言葉でした。それは炭火のような信仰生活のなかで次第に培われてきました。日曜日の主日の家庭集会の聖書のみ言葉のメッセージや讃美、祈りの中で新しい聖霊の力と慰め平安をいただいて続けて来られたと思っています。今教育という信仰の具体的実践の場はわたしにとって過酷で大変だけれどとてもいとおしいものでもあります。これまで数え切れない子どもたちと出会いました。その中で信仰と教育について考えさせてくれた出会いについて少しお話したいと思います。
 
 まだ若い頃担任を持った子どもたちの中に重度の知的障害をもち、排泄の自立もできていない、言語ももたない、多動でコミュニケーションもままならない女の子がいました。Aちゃんと呼んでおきましょう。1年生を受け持ち、また5,6年生になったとき再び担任をすることになりました。当然のことながらその子を中心に毎日何がおこるかわからないような日々の連続でした。一年生の時は排泄の自立ができなかったので、教室でおしっこやウンチを床にもらしてしまうということもよくありました。言いたいことがうまく伝わらないので給食の時間、おかずのバケツごとひっくり返すこともよくありました。高学年ともなると家庭や勉強のことでストレスをため、その子にいじめをする子もいました。しかしそういう中にあっても遠足、修学旅行、生活発表会などいろいろな行事を迎えるたび、こどもたちはAちゃんをどんなふうに参加させようかと一生懸命考えてくれました。毎日の登下校でもAちゃんは、履いている靴やなが靴をあっという間に田んぼの横にある側溝に投げてしまうので、いっしょに行き来していた友達は溝の中に拾いに入りながら6年間いっしょに田んぼ道を登下校してくれました。てんかん発作を日に何回か起こす子だったので教室にはいつも毛布を用意していました。まだ自分のこともおぼつかない年齢にありながらいっしょうけんめいAちゃんのことを考え行動してくれました。卒業する時にはみんなにこれ以上迷惑はかけられないからと言って養護学校に行かすつもりにしていたAの母親に「おばちゃん、Aちゃんもいっしょに中学校に行こう、おれらがちゃんとみるから。」と家に談判しにいきました。その結果地元の中学校に三年間通うことになりました。今その子達は32歳になっています。現在ほとんど寝たきりで暮らしているAの誕生日には毎年何人か訪ねて行っています。最近のような教育事情の中ではここまでの重度の子どもは養護学校という専門の学校に行くことが多いと思います。またまわりの保護者もそうした手のかかる子どもがクラスにいることを喜びません。
 
 この当時ずっとわたしのなかにあった 御言葉はマタイ福音書12章20節「正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。」でした。また、コリント12章9節「わたしの恵みはあなたがたに十分である。力は弱さの中でこそ発揮されるのだ。」でした。
 Aちゃんとの暮らしの中でいろいろな場面で悩みました。しかし、そんな時こどもたちと話し、取り組んできたことは、Aがいるからこうなるということではなく一人ひとりが自分の中にある弱さをみつめ、みんなのなかでその気持ちを出していこうという作業でした。自分の中にある力の論理に気づき、それを素直に吐露しあった時に生まれるのは不思議なやさしい感情でした。人は道徳的に何べん「やさしくなりましょう。」といわれてもなれるものではなく、自分の中にある弱さ、汚さ、清くなれない心、差別する気持ちそうした気もちに少しでも気づいた時不思議と心がほだされ、低くなり自分にも人にも優しい感情がうまれてくるものだと気づかされました。イエス様が「心の貧しいものは幸いである。」といわれます。自分の罪にすこしなりとも気づき、謙虚になれた時、イエス様は招いてくださり弱さから思いもしなかった新しい力や元気をいただけることをこうしたことを通じて思いました。子どもたちもそんな時、自分たちがAちゃんに一方的にしてあげているという関係ではなく、実は大きな宝をAちゃんからもらっているということを理屈ではなく感じていました。イエス様が最も低いもの、この世から排除されているような人こそ大切にされた、そのことはまわりの者たちに実は弱いものというのは自分たちのことであり、この世的には学力も低く弱い立場に置かれている人から大きな力や励ましをいただいている、すべての存在が意味を持ってあるのだということを示してくれていることを子供心に気づかされていたのです。
 
 それからはできるだけ障がいをもつ子や課題の多い子をもとうと思って今日までやってきました。勉強ができることがよいこと、スポーツができることがよいこと、そうした価値観でうずまいているなかで取り残されてしまっていく子どもたちが多い、しっかりした基礎学力、生きて働く学力も身につけさせたい、でもそれと同時に「力は弱さの中でこそ発揮されるのだ」というパウロのことばのように、自分の弱さや罪に気づける子であってほしい、自分の弱さをすなおに受け止め、前を向いて生きていける子であってほしい。いつもそんなことを話していたようにおもいます。今もさまざまな授業のなかで、苦難の中にあっても信仰をもって果敢に生きていった人たち、マザーテレサであるとか、水野源三さん、星野富弘さんであるとか いろいろなひとのことを紹介します。歴史のこと、社会的なこと、身近な遊びや友だちのこと、どんなことでもどういう視点でみていかないといけないかをできるだけ具体的に話すようにしています。
 
 世界にはまだ紛争が絶え間なく、難民として逃れている人たちも多い。家や家族、ふるさとをうばわれ学校にさえ行けず労働を余儀なくされている子もたくさんいるということなどそうしたニュースもできるだけ紹介したり教材化したりしています。こうした見方はすべて聖書の学びやみ言葉から示されてきたのです。人の義からは得るものは少なく、どんな立派な講演会から話を聴いても一時的な感動はもらえますが、長く心には残らないのです。聖書というのは本当に不思議だなあとおもいます。すべての難問の答えが隠されています。その時答えが示されなくても日々新しいきもちで「出よ!」と押し出してくれる原動力はイエス様でした。
 
 今、教育現場では団塊の世代が若い人たちとの交代の時期を迎えており、それにともなって文科省からおろされる教育内容についても大きく様変わりしようとしています。法制化され導入されていった「日の丸、君が代」君が代を歌唱指導するようにとのチェックもきびしくなりました。今年の大阪府の新任教師の辞令式では君が代の歌唱指導もあったと聞いています。初任者に向けた研究会もたくさん実施されています。しかしその多くの内容は教師としてのスキルを学ぶ場であり限界があります。国家の思うままにあやつられるそうした若い教員が増えていくことが懸念されます。
 
 また最近は道徳教育の重要性もさけばれています。犯罪の低年齢化、家庭教育力の低下、生活のことでいっぱいの家庭。青少年の自殺も多い。依然として弱いものに対してのいじめも減らない、自尊感情も低下し、ストレスを学校や家庭、友だちに暴力という形で表現する、そうした子どもたちに道徳教育を強化していかねばならないという発想。一方では英語の授業も小学校で導入され、2012年度の指導要領の改正にあたって道徳も英語も成績をつけて評価するという案さえ出ている始末です。世界のトップクラスにいた日本の子どもの学力が学力調査の結果から下がったということで、文科省は学力を上げる取組みに奔走しています。ゆとりが必要といって教科内容をみなおしてきたのにその舌の根も乾かぬうちに内容は改正されようとしています。いったい人が考えるものごとの基準はどこにあるのでしょうか。それはあくまでも今日のテーマに深くかかわっている神の義ではなく人の義です。人の義はその時々の時勢によっていくらでもころころと変わりうる、陽炎のごとく実体のないものだと痛感します。若い先生たちはこれから先、何を自分自身の確固たる指針として教育の業に取り組んでいくのかが深く問われています。
 
 これまで私たちの信仰の先達がたたかってきた歴史があります。戦時中、憲兵の取り囲む中で、戦争にひた走る日本の現状を憂いて訴え、国家の罪に苦しみ泣き、訴えていかれた方がいた。多くのひとを敵にまわしても本当の愛国心を訴えていった方もいた。戦争に反対し、国家のすすめる神にも屈せず、牢獄に死んでいった人々がいた。そういう人たちはみなキリストの霊に燃えて闘ってこられた。わたしたちがこれからの日本の教育を考えていく時、何ものにも動かされず、誰に何を言われても一人であっても自分の意見を持つ子ども、流されない子どもに育ってほしいと願っています。
 
 現場にいて思うことは、実は健康な子も病んでいる子もみな等しく真実なもの確固たるものを求めている気もちは同じだということです。少しでもまわりに流されない「個」をつくること、家庭環境や性格や貧しさや人のせいにして悲観的なことばかり考える子ではなく、どんな自分でも平等に愛し大切にしてくださる方がおられるのだということを知っていける、これから先自分の罪に苦しんだ時、人の力ではどうしようもできない罪の解決の道があることを知り、希望をもって生きることができますように願っています。神の義、これは人間の努力ではなく一方的にいただいた義であります。叱る時もほめるときも自分の思いではなくイエス様に聴いていきたいと思います。教育の世界には人間的な思いで満足してしまう、ヒューマニズムの世界に酔いしれてしまう怖さがあります。うまくいった時の充実感が人間的な名誉心をあふれさせます。何を第一にするかがぼやけ、神様のことを思う気持ちがおろそかになってしまいます。いつしか自分で為したような傲慢に陥ることもあります。人の義を誇ってしまいます。そんな時立ち戻らせてくれるのは礼拝であり聖書のまなびと祈りです。繰り返し言いますが、今、主日の礼拝のなかに聖霊の力をしみじみと感じています。
 
 罪を見逃して義としてくださったということは私の罪との闘いともいえます。罪の自覚がなければそれを見逃しゆるしてくださった恵みが感じられないからです。自分の中にある罪を日々悔いた時イエス様がそうした罪を背負い、代わって死んでくださった、神様の罰を執り成し信じるだけで無償で義としてくださった、そして復活され聖霊となって慰めと平安、新しく生きる力をあたえてくれることを心から感謝しています。そしてこのような弱く小さな者にパンを投げ続ける営みを御心ならばもう少しの間やらせてください、一人でも多く将来イエス様というぶどうの木の一粒に連なりますように、御手の中にとらえられるこどもたちが生まれますようにと祈っています。


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