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     リルケ(*

木の葉が落ちる
落ちる 遠くからのように。
まるで 天で
 遠い庭が 枯れたかのように。
木の葉が落ちる
 否むみぶりをしながら。

そして夜ごとに 落ちる
 重い地球が
すべての星から 孤独の中へと。

わたしたちはみんな落ちる
 この手も落ちる。
そして よくごらん
 ほかの人たちを。
それ(落下)はすべての人の中にある。

しかしひとりの方があって
 この落下を
かぎりなく優しく
 その両手で 支えてくださる。

Herbst
Die Blatter fallen, fallen wie von weit,
als welkten in den Himmeln ferne Garten2009-11-8;
sie fallen mit verneinender Gebarde.

Und in den Nachten fallt die schwere Erde
aus allen Sternen in die Einsamkeit.
Wir alle fallen. Diese Hand da fallt.
Und sieh dir andre an: es ist in allen.

Und doch ist Einer, welcher dieses Fallen
unendlich sanft in seinen Handen halt.

*)リルケ(一八七五年~一九二六年)オーストリアの詩人、作家、評論家。「神さまの話」(Geschichten vom lieben Gott 原題は「愛すべき神の物語」)、「マルテの手記」などがよく知られている。

時は秋、すべてが落ちていく。葉は、落ちたくはない、というような素振りを見せながら落ちていく。あれほど元気よく緑の葉を広げ、新しい芽を延ばし、花を咲かせていた木々、野草たち、それらすべてはその葉を落としていく。地上のすべては落ちていくということを象徴的に示そうとしているかのように。 しかし、そのような孤独で謎のような闇のなかに落ちていくと見えるただなかに、それらを支える御手がある。
これは、単なる詩的空想ではない。人間にとって最も切実な、そして真実な体験を表すものなのである。
自分がどこまでも落ちていきつつあった、という恐ろしい実感を持ったことのあるものは、その支え、引き上げてくださった驚くべき御手を、生涯で最も忘れがたい体験として魂に刻むであろう。
そのような御手があるということ、それは、この世界の大いなる希望であり、闇に沈みゆくものを上がる太陽へと転換させるものなのである。

「主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださる。」(コリントの信徒への手紙一の八)
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心なき身にも あはれは知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ 西行法師
(「新古今和歌集 秋歌上三六二」)
(ものの味わいを感じる心のないこの身であっても、しみじみとした情趣を感じて深く心動かされた。 シギの飛び立つ秋の夕暮れのこの時。)
シギがどんな鳥かも分からない現代の多くの人にとってこのような歌は感じることは少ないかもしれない。シギとは川岸、湖や池、水のあるところにいる三〇種類ほどもある鳥の総称。長さは二〇センチ~五〇センチほどでくちばしと足が長いのが多い。
沢とは、さらさらと音をたてて流れる山間の小さな谷、あるいは水辺。そこからシギが夕暮れに飛び立っていく。安らぎの場へと飛び立つ鳥たち、水、そして秋の夕暮れ。
飛び立つことができず、混乱と汚れのなかにとどまり続ける人間。それゆえにこそ、ねぐらに向かって飛び立つ鳥たちに心動かされるのである。
ここに人間世界の混乱から人を引き寄せる自然の力、神の招きがある。
私はしばしばかなり大きい河辺を夕方や夜に歩くことがある。そこでよく小鳥の鳴き声を聞き、水辺で泳ぎあるいは、飛び立つ鳥もいる。
水の流れや飛び立つ鳥たちは、私たち人間にないうるおいや翼のゆえに、私たちを日常の狭くよどんだ生活から引き上げてくれるのである。
秋の夕暮れはことに西の空が美しく染まる。そのようななかで、さわやかな秋の風を心いっぱいに受けると、心のなかの汚れも洗い清められていく感じがする。
原典の重要性と聖霊

十月に、東京の青山学院大学で、前回紹介した、北田 康広さんのピアノ演奏、歌(伴奏は陽子さん)の演奏会があった。やはり、CDで聞くのとは大きな違いで、ピアノの音、歌声というのが、力といのちをもって迫ってくる。
会場が古く、音響的には望ましいとは言えないところであったが、それでもその演奏のよさが伝わってきた。会場全体に響きわたるその迫力あるピアノと歌、それは、CDとかテープに録音したものでは到底再現できないことである。
しかし、なまの演奏が持っている大きな限界というのがある。それは入院中の病人や自宅で痛みや苦しみと戦っている重い病気の人、また施設にいる人などは、そのような演奏会に出向くことができない。
その点では、CDやテープの録音というのは、入院して苦しみのさなかにある人でも、枕元にプレーヤをおいて聞くことができる。実に単調で重い気持ちになりがちな病院のベッドの上で、音楽をCDによって聞くことができて、深いやすらぎを得ることもある。
また、通勤の雑踏のただなかで、列車のなかや待っている間に、そのような音楽を聞いて、雑踏のただなかにあって、御国からの風を感じる人もいる。
なまのまま、それは絵画についても言える。もとの原画が持っている力は、複製では大きく薄められる。
これは、聖書や文学の翻訳についても言える。聖書の原典であるヘブル語やギリシャ語を少しでも学んで、原文の表現や原語の意味に触れることで、なんの注意もひかなかったような箇所が、まったくちがった光をもって、また力をもってくるということは実に多い。
私は、主日礼拝やそれ以外の各地の集会においても、み言葉を語るときには、時間が乏しい時でも、原語と原文のニュアンスをくみ取るという作業を欠かさないようにしている。
例えば、最も知られている旧約聖書の詩は、詩篇二十三篇であるが、その冒頭の日本語訳、「主はわたしの牧者であって、私には乏しいことがない」という原文は、わずか四語のヘブル語である。
このことを、三十数年ほど前に初めてヘブル語を学び始めたときに知ってとても驚いたことであった。英語訳でも、The LORD is my shepherd, I shall not want.
のように、九語で表現されるから、いかにヘブル語が簡潔な力強い表現であるかがわかる。
とくに聖書の場合は、一語一句が決定的な重要性をもってくる場合があるから、とくに私も原文の重要性に深く引きつけられた。
しかし、このことは、文学作品でもいえることで、ヨーロッパの韻をふんだ詩を日本語に訳すると、まったくそのような韻はなくなってしまうし、リズムも失われる。俳句や短歌、和歌なども、五七七の日本独特の調子は外国語には訳することができないから、本来の俳句や和歌をそのままでは伝えることができない。
次に有名な和歌とその英訳をあげる。
憶良らは 今はまからむ 子泣くらむ それその母も 我を待つらむぞ(山上憶良 万葉集巻第三三三七)

(私ども憶良のような者はもうこれで帰ろう。家では、子供が泣いているだろうし、その子の母も私を待っているだろう。)

Okura,will leave now;
My children may be crying,
And that mother of theirs,too,
May be waiting for me !
(「THE MANYOUSHU」岩波書店 一九八頁)

英語に翻訳された和歌は、原文の和歌とは異なる新たな創作といったものになるのがこうした英訳でうかがえる。
原語、原文の重要性は、とくに聖書について語ったり、書いたりする場合には不可欠なものとなる。何種類もの日本語訳のそれぞれがニュアンスが異なっていたりする場合、どれを本来のものとして受け止めるのか、を判断せねばならないからである。
それにもかかわらず、聖書においては、日本語のままで読んでもそのエッセンスはわかる。私自身、日本語訳の聖書のそのまた説明の言葉をわずか読んだだけで聖書の本質が示されたのであったからである。救いそのものを得るためには、ギリシャ語やヘブル語は何の関係もない。
そして、原文がよく分かっているはずの当時の聖書学者(律法の学者)であったのに、かえって聖書の中心であるイエスの本質がわからず、イエスを迫害して殺そうとするまでに至ったことは、いかに本当の救いと原文がわかるということと距離があるかを示すものである。
パウロもこの点について、「文字は殺すが、霊は生かす」(コリント三の六)とまで言っている。文字とは当時の旧約聖書のことを指している。聖なる霊の助けを受けなければ、かえって人を殺すという強い表現をしているのに驚かされる。
はじめに述べた音楽に関しても、いくらなまの音楽を聞いても、感動したといっても、だからといってその人に、病気などのため、CDでしか聞けない人以上に真実さや愛が増えるとは言えないであろう。
CDというなまの音楽の一部でしかないものであっても、そこに聖なる霊の助けを受けるときには、その人の心を動かし、変えるものとなる。
ちょうど、聖書のイエスの言葉、使徒の言葉を読んで、それがありありと自分に語りかけられていると実感するなら、ヘブル語やギリシャ語などに詳しいがそのような実感がまったくない人よりずっと力を得るであろう。
最初のキリスト者の時代には、今日の新約聖書すらなかった。旧約聖書もほとんどが持っていなかったであろう。文字が読める人はごく一部であり、聖書も、熟練した専門家たちの手で貴重なパピルスや羊皮紙に書き写すので、一般の人には手に入らないものであった。
それでも、彼らの信仰は現代の私たちより、はるかに真実で強力なものであった。だからこそ、イエスのあと、わずか数十年で、ローマ帝国の広大な地域に広がり、もはや国家権力で弾圧するしかないという状況に立ち至ったのである。
かれらは、主イエスの言葉を使徒たち、宣教する人たちから聞いた。それが命を捨てるほどの信仰にまで成長していったのは何がそのようにさせたのだろうか。
それが聖なる霊である。聖霊こそは、わずかの言葉、少しの文章であっても、そこに肉付けをしその全体像を形作り、ふくらませていくのである。
わずかの細胞から、必要な処置をすればつぎつぎと細胞が増殖し、りっぱな成体が形作られていったようなものである。
聖書の言葉の最も深い意味における原語、それはヘブル語でもギリシャ語でもなく、生きて働くキリストである。そのキリストが私たちの魂に語りかけて下さるとき、私たちは罪の赦しの実感を深く受けることができるし、不安のただなかにあっても、ある種の平安を持ち続けることができる。
そしてこれは、聖霊のはたらきである。新約聖書がまだまったく存在しなかったとき、十二弟子たちは、何によって絶望から立ち上がることができただろうか。それは書かれたものを読むことでなく、聖霊を受けることによってであった。(使徒言行録二章)
聖なる霊を受けることによって、わずかのみ言葉も、小さな出会いや集会においても、また、木々の枝を揺らせる風や野草の小さな花も、単調極まりないはずの星の光にも、そしてCDの音楽のような簡易なかたちの音楽にも、ゆたかに肉付けがされていく。
主イエスのパン種のたとえは、そのような聖霊の力を暗示するものである。

「天の国(神の王としての御支配)は、パン種のようなものである。女がそれを取って粉の中に混ぜると、全体がふくらんでくる。」(マタイ福音書十三の三三)


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