祝 クリスマス

私は民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
あなた方は布にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見付ける。これがしるしである。


(ルカ二の十、十二)


 リストボタンキリストの降誕と祝福 


 キリストはおよそ二千年前に地上に、聖霊によって生まれたと聖書は記している。驚くべきことに、家畜小屋の餌入れのなかで生まれた。また、生まれるとすぐに、時の支配者から命をねらわれ、遠くエジプトへと逃げていかねばならなかった。

 ここに、すでにキリスト教の重要な内容が現れている。


 まず、聖霊がきわめて重要なことをなす、ということである。通常では決して生じないこと、旧約聖書全体でも記されていないようなことであっても、聖霊はそれをなすことができる。


 人間にはできないが、神にはできないことはない、という主イエスの言葉を言いかえることができるのである。人にはできないが、聖霊にできないことはない。


 キリストが十字架で処刑されたが、神の子であったがゆえに、復活された。他方弟子たちは、イエスが捕らえられるときには皆残らず逃げてしまった。イエスなど知らないと強く否認したのが第一の弟子であったはずのペテロであった。


 そのような弱き者を、まったく異なる勇気ある弟子と変えたのは、彼ら自身の意志でも決断でも、生まれつきの性格でもなかった。


  それは聖霊であった。


  聖霊は、何もないところによきものを生み出すのである。無から有を生じさせる力をもっている。私たちも、聖霊の風が私たちの心の中に、またその集会に吹きわたることによって、それまでどんなにしても生じ得なかったことが生じることが期待できる。私たちができなくとも、聖霊が私たちにかわってよきことをなして下さるということも福音―喜びのおとずれである。


 


 主イエスは暗く汚い家畜小屋で生まれた。ここにも福音がある。私たちがどんなに暗く汚い心であっても、なおそんなところにも主イエスはきてくださるというメッセージなのである。

 誰も訪問してくれない、だれからも見下されている、嫌われている、あるいはみんなから無視され相手にされない…そのような状況であっても、キリストは来てくださると信じることができるのは何と喜ばしいことだろうか。


 私たちがそのうち老齢となり、弱くなり、自分の身の回りのことすらできないで、ただ横たわってばかりいるようになっていくとしても、そのような暗く汚くなった人間のところに愛をもって来てくださるお方がいるのである。


 クリスマスの福音のメッセージは、浮かれて騒ぐところにはくることはない。


 また、生まれたときからその命をねらわれるほどに、悪の力が迫ってくる。しかし、そうしたすべての力に打ち勝つ神の国の力を与えられる。


 現代に生きる私たちにおいても、まさにこの聖霊の力と、取り巻く悪に対する勝利の力、そして弱く汚れた罪深き我々のところにさえ来てくださるという神の愛の力、この三者が私たちの心の願いであり、祈りなのである。


リストボタン魂の錨(いかり) 


  この世には、さまざまの病気、事故、自分の罪ゆえの取返しのつかない事態、あるいは、周囲からの攻撃やねたみ、憎しみ等々、さまざまの荒々しい風が吹き、大波が押し寄せてくる。


 なにかひと言、批判的なことを言われるだけでも、心は波立つ人は多いだろう。それがずっと心に残って動揺が止まらないこともある。


 そうしたことに対して、憎しみや怒りの感情を持つとき、また見下されたとかいう不安などは、いっそう魂を漂流させるものとなる。


 さらに、最後の試練である死が近づくときには、その苦しみと死後の恐れや不安のために多くの人は押し流される。どこへ流されていくのか分からない、ただ一人死の苦しみや不安と戦わねばならない状況になる。


 人間とはこのような荒海に漂っているゆえに、魂には、錨が必ず必要である。船に錨がなくてはならないものであるのと同じである。


 人生の荒海のとき、港に入ること、そこで錨をおろすことによって私たちは大波に呑み込まれたり激しい風に吹き流されずにすむ。港に入れないときであっても、錨を下ろすことで漂流を止めることができる。


 私たちにとっての港とは何か、そして魂の錨とは何であろうか。


 魂の静まる港、それは主イエスである。主イエスご自身が、「疲れている者、重荷を負っている者は私のもとに来れ、そうすれば安らぎが与えられる」といわれたからである。


 また、主は、「わたしの平安をあなた方に与える」と約束してくださった。(ヨハネ十四の二七)


 旧約聖書の詩篇にも多くの箇所で、「主こそわが砦、わが岩」といった表現が見られるのも、神こそは、私たちの留まるべきところ、魂の港であるからである。(詩篇二八の一、六二の三、七一の三など)


  魂にとっての錨、それも主イエスなのである。


 弱い立場の人、苦しむ人々、聖書にも記されている目の見えない人、耳の聞こえない人、手足が動かない人、ハンセン病のような、恐ろしい病状のうえに、汚れたとされて隔離されて生きねばならなかったような人たち等々、その人たちは一般の人々からも多くは見放され、冷遇されてきた。そしてそのような人たちの魂はさまようばかりであった。


 しかし、そのようなこの世の力に魂が漂流していた人たちは、主イエスと出逢って初めて魂の錨を与えられたのである。キリスト教はローマ帝国において、まず奴隷や貧しい人たちから広がって行ったと言われる。


 主イエスの十二弟子もみな社会的地位の低い人や差別を受けていた人であった。


 そのような、権力や武力によって簡単に安住の地を奪われたり、いのちをおびやかされていた人たちがイエスによって、この世のそうした迫害という荒波を受けても動かされないようになった。それは、主イエスが彼らの魂の錨となったからである。


 他方、かれらを迫害していた、ローマ帝国の支配そのものが、漂流をはじめ、キリスト教が広がっていく過程で、いわば難破して滅びていったのであった。


  さらに、信仰と希望と愛こそは、魂の錨である。


 もし私たちが愛の神を信じ、しっかり結びついているなら、それは錨となって、動揺は止まる。しかし、主から目をそらすときにはその動揺は静まることがない。


 神の国が与えられるという確実な希望、それは私たちの魂が漂流しないようにさせるのである。


 また、復活の希望という錨をもっていたら、その漂流から免れることができる。


 使徒パウロは、キリスト教の長い歴史のなかで最も大きい働きをした人であったと言える。そのような彼もその力の秘密は、やはりキリストを魂の錨としてもっていたからであった。 


…兄弟たち、わたしたちがアジアで遭った患難を、知らずにいてもらいたくない。わたしたちは極度に、耐えられないほど圧迫されて、生きる望みをさえ失ってしまい、心のうちで死を覚悟し、自分自身を頼みとしないで、死人をよみがえらせて下さる神を頼みとするに至った。(Uコリント一の八〜九) 


 このように、使徒パウロは死を覚悟するような迫害のなかでも、復活への希望がかれの魂の錨となっていたのがわかる。それによって重大な危機をも乗り越えていくことができたのである。


 現代に生きる私たちも、このような信仰と希望と神の愛を魂の錨とすることによって、さまざまの荒波にさらわれることなく、目的地へと導かれていくことができる。  


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