リストボタン神がみわざを始めるとき

 


 私たちが何か重要なことを始めるとき、入念な計画をたてる。そのための場所、費用のことを考え、どのような組織、役割を造り、準備のための日程はどれほどいるのか、そのことにかかわる人材はどうするか等々。


 しかし、神が何か重要なことをなされようとするときには、人間のそうした小さな頭脳で考えて準備するのとは全くことなる始め方をされる。


 それは、苦しみや悲しみであり、そこからなされる祈りを用いられる。


 人間は、苦しいことから始めるようなことは避けようとする。例えば、重い病気、まわりの人々から見下されるような状態、あるいは憎しみや攻撃のなされるような耐えがたい人間関係、貧しさ等々は何よりも避けたいと思う。


 人間は実にさまざまであり、危険きわまりないような岸壁登りや一瞬にして大事故を起こして生涯が破滅となるような暴走をしたり、厳しい断食修業をする人たちなどもいる。そして考えられないような危害を他人に加える人たちもいる。


 しかし、みずから好んでガンや心臓の痛む病気や糖尿病になろうとするとか、目が見えなくなったり、歩けなくなったりすることを望む人は誰もいない。


 人間は、まず健康、平和な家庭、安定した収入といったことを求めるが、神が何かを始められるときには、しばしば人間が最も避けたいと思うことに直面させる。それは病気であったり、家庭の不和、悲しみであったり、貧しさであったり、突然の事故などで思いがけない苦難が降りかかってくることなどである。


 現在、キリスト信仰を与えられている多くの人たちは、たいていこうしたことがあったのを思いだすことであろう。


 自然のままの人間は、すべてを支配する愛と正義の唯一の神とか十字架にかけられた人間が私たちの究極的な心の問題を解決するとか、復活など、到底信じることもできない。


 だから、人が、そのような神の存在を深く知って、新しい人間となるためには、人間の親が決して与えようとせず、また本人も求めることをしないような何らかの、苦しみや悲しみが与えられることが多い。


 イスラエルの長い歴史において王が現れるということは後の時代にも絶大な影響を与えることになった。その王がさまざまの罪を犯し、混乱し、国は分裂して滅び、捕囚となった。


 しかし、そうした歴史の延長上に、真の王であるイエスが現れることになり、そのイエスが復活して霊的な王となり、以後世界を今も御支配されているからである。


  この重要な歴史的な転機にあって、神は一人の何の力もない女性の悲しみ、心の痛みから始められた。(旧約聖書・サムエル記上一章)


 今から三千年以上も昔の出来事であるが、その長い時間を感じさせないような内容である。真理にかかわること、真実な心の動きというのは、長い時間の流れや時代の変遷にもかかわらず伝えられていく。


 この女性、ハンナは夫のもう一人の妻ペニンナから見下され、苦しめられていた。しかし、ハンナはそのことを夫に愚痴をいったり、ペニンナに対して憎しみや怒りをぶつけることなく、すべての苦しみと悲しみを神に注ぎだした。それはほかのことを忘れてしまうほどに真剣な祈りであった。


 もし神を知らないならば、人間から受ける不当ないじめや攻撃、中傷に対して深く傷ついて立ち上がれなくなるか、もしくは、相手に対して憎しみや攻撃したり、陰で悪く言いふらすといった報復行動に出ることになるだろう。


 そのようなことをしても何の解決にもならないばかりか、かえって自分がさらなる害悪を受け、相手の攻撃も強くなりかねない。憎しみやそこから生まれる報復行動は、魂の毒であり、動揺や不安となり、心の汚れとなって自分にはねかえってくるからである。


 しかし、深く神を知っている人間ほど、このハンナのように、そうした苦しみのすべてをそのまま神に注ぎだす。


 ハンナより千年以上も後に現れたキリストは、「疲れた者、重荷を背負っている者は私のもとに来なさい、そうすれば 休ませてあげよう。」(マタイ十一の二八)と呼びかけられた。その呼びかけは、旧約聖書の時代からなされていたのであり、ハンナはそのゆえに、重荷や心の傷、疲れを他人に持っていかず、神にゆだねたのであった。


 このような心の姿勢は、旧約聖書の詩篇には数多く見られる。ハンナの心の世界はそのまま詩篇にある多くの心の世界と重なって見えてくる。


 祈りのひと、それがハンナの特質である。


 次に、このハンナは子供が与えられることを切に望んだが、その子供を自分の持ち物としようとは考えなかった。


 彼女は、みんなが食事をしているにもかかわらず、なにも食べようとせず、ただひたすら次のように祈り続けていた。


「主よ、私の苦しみを見て下さい。私に御心を留めて、男の子を授けて下さるなら、その子の一生を主に捧げます。」


    (サムエル記上一の十一より)


 ハンナがあまりにも長く、口だけ動かして声も出さずに祈っていたから、近くにいた祭司が不審に思い、酔っているのか、と問いかけたほどであった。


  このように、子供が与えられたとしても、今まで自分を子供が生めない女としてさげすんでいた人たちを見返すとかでなく、神に捧げたいというひたすらな願いがあった。


 サムエル記上の最初の記事は、このように、三つの事柄が中心に置かれている。まず、第一に一人の何の力もない女が受けているひどい苦しみと悲しみ、第二には、そこからなされる女の深く真剣な祈り、第三には、その祈りが聞かれたときに、与えられたものを神に捧げるという心である。


  この三つの事柄は、現在の私たちにも当然成り立つことである。聖書という書物は、単に過去のことを記すだけのために書かれてはいない。それはいかに一見現代の私たちとは無関係のように見えても、少し深く考えるとき、それが私たちと深く関わりを持っているのに気付くのである。 



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