リストボタン悪との戦いのただ中からの救い―詩篇 第七篇 

 

私の神、主よ、あなたを避けどころとします。

 

私を助け、追い迫る者から救ってください。

 

ライオンのように私の魂を餌食とする者から

 

だれも奪い返し、助けてくれない。(二~三節)

 

 

私の神、主よ…

 

私の手に不正があり

 

仲間に災いをこうむらせていたなら…

 

敵が私の魂に追い迫り、

 

追いつき私の命を地に踏みにじり

 

私の誉れを塵に伏せさせても当然です。(四~六)

 

 

主よ、敵に対して怒りをもって立ち上がり

 

憤りをもって身を起こし

 

私に味方して奮い立ち

 

裁きを命じてください。

 

諸国をあなたの周りに集わせ

 

彼らを超えて高い御座に再び就いてください。(七~八)

 

 

主よ、諸国の民を裁いてください。…

 

あなたに従う者を固く立たせてください。

 

心とはらわたを調べる方

 

神は正しくいます。

 

心のまっすぐな人を救う方

 

神は私の盾。(九~十一)

 

 

正しく裁く神

日ごとに憤りをあらわす神…

 

立ち返らない者に向かっては、剣を鋭くされる…

 

御覧ください、彼らは悪をみごもり

 

災いをはらみ、偽りを生む者です。…

 

 

正しくいます主に私は感謝をささげ

 

いと高き神、主の御名をほめ歌います。(十二~十八)

 

 

 まず作者がどのような状況にあるかが2、3、6節を見たら分かる。敵が魂に追い迫り、追いつき、命を地に踏みにじろうという苦しい状況にあって、私を助け、追い迫るものから救ってくださいと叫ぶように祈りを捧げている。

 

 もし私が不正をしたのであれば、このような目に遭うのは当然のことだが、そのようなことは全く思い当たらない。ライオンは一番堂々とした動物であったから、詩篇では一番力強いもののシンボルとしてこのように時々出てくる。

 

 そのライオンのように非常に強いものが魂に襲いかかってくる状況にあっても、作者には避けどころがあった。もし避けどころがなければ、悪の強い力に食い尽くされてしまう。

 

 作者はこのような状況の中で、悪をたくらむものに対して怒りとか憤りとか、感情的な言葉で書いている。

 

 このような表現は現代の私たちには非常に違和感があるために、詩篇が私たちにはなじみにくいという一つの理由になっている。

 

 「主よ、敵に対して怒りをもって立ち上がり…」このような、神の怒りや憤りという表現は、、現代の私たちには心に共感をもって入ってこない場合が多いであろう。

 

 このような表面の訳語にとらわれて、悪に対する正義の裁きということの表現であるとは思い浮かべない。単なる感情的なことだと思い込むことになる。このように旧約聖書の一部の表現は、現代の私たちには、感情的に見えるから、これらを私たちが使う表現に置き換えないと本来の意味がまるで分からなくなってくる。

 

 このような言葉は、新約聖書の時代では、次のような祈りになる。

 

「神様、どうかあなたの正義の力をもって、悪の力を滅ぼして下さい!」

 

 このような詩篇にある表現に出逢うときには、このように新約聖書の時代ではどうかと考えて言葉を一部置き換えて読むことが必要になってくる。新約聖書では、悪人の滅びを願うのでなく、悪を行う人間の心深くに巣くっている悪そのもの、悪の霊、悪の力といったものが滅びるようにと願うのである。

 

 悪人からその魂にある悪が除かれるなら、十字架でイエスとともに処刑された重い犯罪人のように、救われイエスとともにパラダイスに居ると約束されるであろう。

 

 

 七節以降、一貫して悪に対して正義の力を奮ってくださいという切実な願いが続いている。このような切実な願いは現代の私たちでも、持つべきことである。

 

 世界や日本や、あるいは身近なところでも至るところで、悪の力が良きもの、真実のものをライオンが獲物に襲いかかるように襲いかかろうとしている。

 

 そのような事実は多く見られる。そんな世の中をもう仕方ないとあきらめるか、それとも悪に見方するか、あるいは無関心であるか、またこの箇所のようにどんなに悪の力が周囲を取り巻いたり、襲いかかってくる差し迫った状況であっても、神を避けどころとし、神の正しい裁きの力を待ち望むかということである。

 

 

 そして単に、私を助けてくださいという個人の救いだけでなく、この詩の作者の願いは、広く周囲の国々もその対象としてふくまれる。

 

 8節以降で言われているように、「諸国の支配者や人々や権力者や王を超えて、高い御座に就いてください」というのは、世界の国々のまちがった権力や支配者の上にあって、そのような悪の力に染まった人々を裁いてくださいという意味である。

 神の御性質をこの作者は、心の隅々まで見る方だと言っている。

 

10節にある「はらわた」という表現も、現代の私たちにとっては受けいれにくい表現で、詩篇が親しみをもって読まれにくいのはこうした特異な表現によることもあるだろう。

 

 神は、はらわたを調べるお方だ、という表現からは、初めて読む場合なら、違和感を持つであろう。この原語の意味は本来、「腎臓や内臓」を表す言葉である。

 

 しかし、この箇所では、内臓という言葉を使うことによって、「心の奥底」という意味を表す。英語でも heart と言えば、心臓を表す。そして心臓が心という意味にもなっている。それと同じようにここでは、内臓が心となっている。

 

 新約聖書でも、イエスが、民衆を飼うもののいない羊の群れだと見抜いて、深く憐れんだことが記されているが、その「憐れむ」というギリシャ語は、スプランクニゾマイという語であるが、これは内臓をあらわす語が動詞となって用いられている。この語のもとになった、 「スプランクノン」は一般的に「内臓」を表す。

 

 それを動詞化したのが、スプランクニゾマイなのである。それは、「体全体で憐れむ、深く憐れむ」という意味をもつ。

 

 このように、内臓と心はしばしば同じ言葉で表現される。だからここで書かれている「心とはらわた」というのは、実際のはらわたではなくて、心の奥底、神はそこまで見抜くお方だと言おうとしているのである。

 

 この箇所は、他の口語訳を見ても、「人の心と思い」と訳しているものもあり、英語訳(*)には、日本語訳の「こころとはらわた」という箇所を、「精神と心」という意味を持つように訳してある。こうした英訳などが、日本語訳の「はらわた」などよりずっとわかりやすい訳語である。

 

 

*)アメリカを代表する英訳聖書の一つである、 New Revised Standard Version New Living Translationなどでも minds and hearts もしくは hearts and minds と訳されている。

 mindは理性的なことを指し、heartは感情的なことを指している。

 

 

 人間がどれだけ隠そうとしても心の奥深いところまで見抜くお方というのが、この詩人の神に対する実感で、まっすぐ神を見ようとする者を救って下さるという十一節につながる。

 

 これは非常に単純な心の姿勢である。主イエスが言われた幼な子のような心で主を仰ぐことである。 人にこう思われたいとか、人をこういう風にやっつけたいとか、こういう風に自分が上に立って裁いてやろうとか、そういうことでなく、まっすぐ神様の方を見ておると、神の偉大さが分かる。

 

 この作者はまっすぐに神を見るということが、神と関わる上で大事なことだと言っている。作者はそのように神様の方をまっすぐ向いているから「お前は正しい、咎めるところはないと言ってください。そして逆らうもの、悪の力を滅ぼしてください。また自分だけでなく、他の国々、社会的にも及ぼしてください。」と言っている。

 

 ここで言えることは、個人に襲いかかる悪は、様々な国にある悪と同じものであることが分かる。悪は自分にだけでなく、同様に国々にもある。

 

 十二節からも同じ事を表現を変えて言っている。日ごとに憤りを表す神、という文を表面的に受け取ると、よほど怒りっぽい神様なんだと間違って思ってしまう。だからここでも現代の表現に直す必要がある。

 

 どうして「日ごとに」と書いているかと言うと、神様は何もしていないではないか、悪がこれだけはびこって至る所にあるので、どこに神様の正義なんてあるのかという事に対して、この作者が啓示を受けたのは、毎日毎日、実は神は裁きを行っておられるんだという思いからである。

 

 キリストを受け入れないことがすでに裁きである。真実と愛そのものである存在を受け入れなければ、本当の平安も喜びも力もない。このことから日ごとに裁きをなす神だと言っている。

 

 私たちもこの詩から、日ごとに神の裁きは行われているんだと感じ取らなければならないことが分かってくる。

 

 日ごとの神の裁きを、13節からは具体的に視覚的な表現で書かれている。さまざまの表現によって、神は悪に対して何もしないでいるのでは全くなく、燃えるような力を持って、悪の力に対して絶えず裁く備えをし、そして現に裁いておられる。日々悪の力に対して裁いているということを現代の私たちにも語りかけているのである。

 

 3節にあったように、まだ助けられていない状況の中から必死に叫び、7節にあったようにどうか立ち上がってくださいと真剣に祈っていたら、神は本当に悪の力に対して正しい裁きをなされていたのだということが、ありありと啓示されてきたのが、この詩の後半にみられる。

 

 16、17節は「仕掛けたその穴に自分が落ちますように。」「不法な業が自分の頭にふりかかりますように。」と訳されている。ここは、原文ではヘブル語の未完了形が使われている。 未完了ということは完了していないことで、繰り返し起こる動作や、まだ起こっていないことに対する願いのような意味に使われたりする。

 

 しかしこの箇所の他の多くの訳では「仕掛けたその穴に自分が落ちるのだ。」

 

「不法な業が自分の頭にふりかかるのだ。」と、霊的、精神の世界において繰り返し起こる確実な事実(法則)を表した訳となっている。

 

 日本語では落ちますようにと、落ちるのだという訳とでは全く意味が違うが、原文ではどちらも未完了形で表される。

 

 また英語訳、他の外国語訳でもほとんどが事実を表す訳になっている。新共同訳では、こうした確実な事実を表す文を祈願文で訳してあることがしばしばある。

 

 第七篇では、最初は非常に追い詰められた状態で、ライオンとも言うべきような悪の力に飲み込まれようとしていた。しかし自分を振り返ったら、そのような目に遭う理由が全く思い当たらなく、一方的に悪が襲いかかろうとしていた。そこから神様、裁いてくださいと必死に祈って、その過程で同時に諸国のことにも祈りを強くして、神の性質もだんだんはっきりと表されて、まっすぐに神様の方を向いていれば、必ず救ってくださると実感した。

 

 そして最後に、悪意を持って他人に害を及ぼそうとする者は、自分が自ら落ち込むこと、悪の滅びに関する一種の法則性をはっきり知るまでに至り、そういう確信の上に立って感謝と讃美が生まれてきたのである。

 

 人間の悪に取り囲まれたときの、私たちの魂、精神の歩むべき道が七篇には書かれているのである。神の御心に沿った道は、このようになり、人間的な怒りや憎しみといった感情に頼る場合には、絶望してしまうか、力で攻撃するか、相手を憎むか、あるいは無気力になるかである。

 

 私たちもこの作者のように自分自身を振り返って、多くの場合は罪というものを見出すわけだが、まっすぐ神の方に向ける、立ち返る、方向転換する必要がある。主イエスが言われた言葉、「悔い改めよ。」というのは、神の方へ方向転換せよということであった。

 

 さらに新約聖書では、悪に対する裁きはたしかになされることが主イエスによっても確言されているが、悪の支配に落ち込んでいる人間に対しても、そこに神の良きものが注がれるように祈り願うことが示された。

 

 このことは非常に重要なことであり、悪人の滅びを願う旧約聖書の詩篇の世界とは大きく転換して、悪人でなく、悪そのもの、悪霊の滅びを願うというようにと祈り願うのが正しい心のあり方であると、主イエスは示された。

 

 私たちも祈りによって、神の力によって悪の力に対して勝利していく時には、最後にはこのように感謝と讃美でもって、高いところへ導かれる。これが本当の歩みだということである。

 


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