蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、
卑しいものでも、輝かしいものに復活し、
弱いものでも力強いものに復活する。

(コリント前15より)


リストボタン新入の季節

三月の卒業や退職など、別れの季節とは対照的に、四月は、新芽が次々にふくらみ、若葉も出始め、桜の花が一面に咲いているときに、新入社員や入学者の姿に接して、周囲の自然ともあいまって若々しく新鮮な気持になる人が多い。
しかし、それも短い期間であって、一か月もすればそうした新鮮さ、生き生きとした気持はなくなっていく。
この人生そのものも似たところがある。若いときには一般的にいえば、次々と新しいことを学び、学校も変わり、新たな経験をしていく。夢も希望もある。
しかし、だんだん年をとると、次第に新たな行動はできず、体力や知力もすべて衰えていくし、かつての仲間もいなくなる。
こうした古びていく感情をどうすることもできない。病院や施設などに入院して長くいることになるとそうした傾向はいっそうひどくなるであろう。
そのような私たちに対して、つねに新しい気持で、新しい力を与えられ、新しい経験をしていく道を聖書は指し示している。

だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。(Uコリント四・16
私たちは、日々、目には見えない神の国へと新たな入国を許されている。そこでは絶えず私たちの霊的な本質が新たにされていくゆえに、周囲も新しいものと感じられる。私たちが内的に一新されるほど、外の世界はそのままのようであっても、新たなものを感じ取っていく。
聖書の言葉も何度繰り返して読んだところであっても、あらたな霊的なものを感じ取ることができるだろう。
例えば、「神は愛である」このひと言にはどれほどの深く広い意味があることだろう。このひと言すら私たちは卒業してしまうことは有り得ないのである。
神は愛ならば、どんな苦しみにある人にも必ず時至れば救いの手は伸べられるであろう。何の助けもなく死んでいったように見えても必ずその魂は最善のところへと導かれていくであろう。
あの、金持ちの家の前で食物の残り物でも食べられたらと願っていた乞食のラザロ、犬にまでなめられていた人であったが、死後アブラハムのもとに導かれたという主イエスの話を思い起こす。(ルカ福音書十六・20
私たちがどんなにみじめな状況に陥って周囲の人たちから見下されることがあっても、なお私たちは絶望することはない。それはそのような落ちこぼれた者をとくに見つめて下さるかたこそ、愛なる神だからである。
神が愛であるならば、その愛によって創造された周囲の身近な草木、青い空や雲などもまた、その愛が込められていることになる。それゆえにそうしたものからも、神の愛を感じ、くみ取ることができる。
日々、聖なる霊が注がれるならば、私たちはこうした受け止め方を絶えず新たに教えていただくことになるであろう。 毎日毎日が、私たちにとって、御国への入国の日々でありたいと思う。


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