枯れた者の復活

復活とは、今の状態からだんだんよくなる、ということでない。今の状態はよくならない、だんだん悪くなっていく、衰えていく。
だが、そのような死んだようなものが命に満ちた存在へと変えられる、ということである。
一度葉も落として実もなくなり、枯木のようになっていた樹木が春になって、新たな命によって芽が出てくる。そして花を咲かせて実をみのらせる。冬の間、働きを止めていた命の力が春になって新たに吹き出したのを豊かに感じさせる。
同様に、肉体の力も弱り、よき実もない者、枯れたようになっていた者たちが、新たな命を与えられること、それが復活である。このことは、すでに旧約聖書の預言書(エゼキエル書)に示されている。
預言者エゼキエルは、あるとき神から見せられた光景の意味について啓示を受けた。そこでは枯れた骨、徹底的に枯れてしまった骨が大量にあった。
「我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる」と彼らは言っていた。
しかし、そのような絶望的状態のなかで神は言われた。

主はわたしに言われた。「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」
わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった。
(エゼキエル書三七章910

このエゼキエル書にある啓示は、ユダヤ民族全体が大国、新バビロニアに滅ぼされ、多くの人々が千数百㎞もの距離があるはるかに遠い現在のイラクのチグリス、ユーフラテス川河口近くまで捕虜として連れて来られたのであって、そのままであれば、当然その民族は滅びて消え去っていた。しかし、そこに大いなる奇跡が生じてユダヤ民族は生き残り、それから六百年近くも経って、キリストがそのユダヤ民族から出ることになった。
それは神からの大いなる風、神の霊がその枯れはてた骨に吹きつけたからである。神の霊が吹きつけるとき、どのように枯れた者であっても、新たな命が与えられる。
また、そうした枯れたものを生かす力、それはそれよりもっと古いモーセの時代にも記されている。

モーセは、それらのつえを、あかしの幕屋の中の、主の前に置いた。
その翌日、モーセが、あかしの幕屋にはいって見ると、レビの家のために出したアロンのつえは芽をふき、つぼみを出し、花が咲いて、あめんどうの実を結んでいた。
( 民数記十七・78
私たちも、主イエスにつながっていなければ、必ず枯れていく。人間のことばかりを思っていたら枯れていく。人間は新たな命を与えることは決してできないからである。
主イエスも、次のように言われた。
わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。 (ヨハネ福音書十五・6
大多数の人々にとって、死んだら終わり、という実感であり、常識であろう。
しかし、その常識を根底から打ち破るのが「復活」という真理である。死んだものがよみがえるなど、そんなばかなことはないと思う人が大多数であるが、他方では、そのような考えられないことを実際に体験し、自分はまさに死んだものであったのに、全く新たな命を頂いた、と実感する人たちはこの二〇〇〇年の間で無数に全世界において生じてきた。私もその一人であって、そのことがあったからこそ、過去四〇年という長い年月をも人間からは与えられない力を与えられて歩んでくることができた。
復活ということが分るためにはどうしたらいいのか、死人がよみがえるなど信じられない、そのような気持を大多数の人は抱いている。そしてキリストは、そのような人間の通常の感覚に対して今も言われている。

わたしは復活であり、命である。(ヨハネ十一・25

キリストが分ると復活はおのずから分る。キリストご自身が復活そのものであるから。 キリストが分るためには、キリストの霊、あるいは生きてはたらくキリストが私たちの魂に宿ることによって最もはっきりと分らせていただける。
キリストの十二人の弟子たちも、すべてを捨てて主イエスに従い、三年間も主イエスの教えを直接に聞いたし、さらに病人をいやし、盲人の目を見えるようにし、悪の霊によって異常な状態になっていた者からその悪の力を追いだして救い出す、等々その驚くべき神のわざをもつぶさに見ることができた。
それにもかかわらず、弟子たちも復活を信じることはできなかった。イエスがわずか三年で捕らえられ十字架につけられて罪人として処刑される、ということも全く信じられなかったから、その後にあるはずの復活を信じるなど到底できなかったのである。
それほど復活ということは信じがたいことであった。
しかし、のちに弟子たちは信じるようになった。復活に対する確信こそは、キリスト教が告げ知らされていく出発点となったのである。
なぜだろうか。それは聖なる風(霊)が彼らの魂に吹きつけたからである。聖霊はそのように、教えを聞くよりも、また奇跡的な出来事を見るよりもはるかに力強く人間を変える。
聖霊とは復活のキリストご自身であるからだ。目には見えないが、かつて経験したことのない聖なる力を与えられるゆえに、「私は復活であり、命である」という主イエスの言葉が魂の深いところでの実感として与えられるのであった。
それならば、その聖なる霊はいかにして与えられるのであろうか。聖なる霊が与えられるためには、何も差別はない。健康な人も、病人も、若者、老人、男女の別、あるいは学歴や特技、職業や年齢などこの世では大きな条件となるようなことが、いっさい聖なる霊を与えられるための条件とされない。
必要なのは、その聖なる霊を何よりも大切なものとみなす心、それゆえにほかの何ものよりも真実な姿勢をもって求めること、ただそれだけである。
弟子たちはイエスが殺される直前まで、自分たちのうちでだれが一番大きい働きをしているのか、などといった議論をしていたから、彼らが願うことはそのような聖なる霊を求める気持もなかったと言えよう。自分の地位、力を増し、周囲から偉いと思ってもらうことを願っていたのである。
しかし、最後の夕食のあと、ゲツセマネという園でイエスが心血を注いで祈ったが、弟子たちはすべて眠り込んでしまった。それは、弟子たちの魂の目が眠り込んでいたというしるしであった。主イエスが言われたように、「あなた方は何をのぞんでいるのか分かっていない」状態だった。
イエスが捕らえられていって、その現実にうろたえ、みんな逃げてしまい、ペテロなどは三度もイエスなど知らないと嘘をつき、主に対する真実を全面的に失った。そのことを経験してはじめて、自分たちが求めるべきは地位とか周囲のひとたちからの評価ではないことを思い知らされた。そして本当に求めるべきは、そうした弱さの中に注がれる神の力であるということに目が開かれていった。
それでもなお、弟子たちはイエスが殺されてしまった衝撃から新たに立ち上がる力は出てこなかった。それは「弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」(ヨハネ二十・19
という状態がそれを表している。
そのように、弱さを如実に思い知らされることが続いていた。その弱さのただなかに、主イエスが来てくださった。そして力の根源である聖なる風を注いだのであった。

父が私をつかわされたように、私もあなた方をつかわす。そう言ってから、彼らに息を吹きかけた。
「聖霊を受けよ。だれの罪でもあなた方が赦せば、その罪は赦される。」
(ヨハネ二十・2123より)
息を吹きかける、これも一種の風である。実際、ヘブル語、ギリシャ語、ラテン語など、いずれも、霊という言葉は、風という意味のほかに、息をする、という意味も持っている。
聖なる霊を受けるときには、大いなる力が与えられ、それは恐れおびえていた弟子たちを全く別人として立ち上がらせ、命がけで福音を伝えていく力を与えたのである。それからキリストの復活を信じ、十字架のキリストこそ人間の罪を赦し、きよめたしるしなのだという信仰が世界へと広がっていくことになった。
そして、そうした行動的な方面だけでなく、最も人間の深い問題、心の中の罪をすら赦す力が与えられるという約束がなされた。これは、本来神とキリストだけが持っている大なる力であったが、それすらも聖なる霊が豊かに与えられたときには可能になるという約束である。
枯れていた者であるのに、神の霊が与えられることによってそれほどまでに大きく変えられるということ、現実には小さな生活の中でもいろいろの問題が生じて、そのたびに心を曇らせることもある。そのような偉大な神の霊が与えられるという約束を受けた弟子たちも、罪深い人間であったが、それでもこの約束が与えられている。
復活の約束、それは不可能を可能とする約束である。死んだもの、枯れてしまったものが新たな命を与えられるのであるなら、現状がどのように小さくとも罪深くとも、なお私たちは確かな希望を持つことができる。その死んだような存在に、命を与えてくださる神がおられるのであるから。

立ちて待つ

イギリスの詩人ミルトン(*)が、失明が確定的となったときに作られたと言われる詩がある。 その詩の内容は概略は次のようなものである。
*)ミルトン John Milton 160874 その豊かな詩は、後世のイギリスの詩人たちに多大な影響をあたえた。また、ピューリタン革命による共和政府のために書いた論文は、市民と宗教の自由をまもることを主題とした。ミルトンはしばしば、シェークスピア以降のもっとも偉大なイギリスの詩人とみなされる。(エンカルタ総合大百科より)

私は、自分が、人生の半ばに達する前に失明して
自分に与えられた才能をそのまま内に持ったまま過ごすことは、
大きな罪となるのではないか、と思った。
だが、見えているときにはそれを精一杯使ってきた。
主が再び来られるときには責められることのないようにとの思いがあった。
しかし、光を奪われてしまった者からも、
なお主は、厳しい働きを求められるのだろうか
そのような心の中の疑問を持っているとき、
次のような答えが与えられた。

神は、人の働きや、ご自身が与えた賜物をも必要としない。
主に最もよく仕えるのは、
やさしい主の軛(くびき)をよく負っていく者こそ、
主に最善に仕える者なのだ。
主の御国は、堂々たるものだ。
主がひとたび命じるなら、
幾千もの御使いたちが、
広大な陸と大海を越えて休みなく駆けていく。
立ちて待つだけの(ように見える)人々、彼らもまた神に仕えているのだ。

(以下は後半の原文)
…God doth not need
Either man's work or his own gifts, who best
Bear his milde yoak, they serve him best, his State
Is Kingly. Thousands at his bidding speed
And post
* o're Land and Ocean without rest:
They also serve who only stand and waite.
EVERYMAN'S LIBRARY:MILTON POEMS 1962 83P
*post 急行する

最後の行にミルトンの信仰的確信が感じられる。私たちは、自分が何かできなかったり、人からの評価や認められないことに落胆したり自信を失ったりすることが多い。目立った働きをする人と比較してしまうのである。
しかし、主を信じ、主の御前に罪赦されて、立ちなさいという語りかけを聞く。そしてただ主の力がこの世に働くことを祈り願っているだけで主は働いて下さる。
かつてモーセは、敵とのたたかいのとき、モーセが手をあげている間は、イスラエルは優勢になり、手を下ろすと劣勢になったという記事がある。(出エジプト記十七・11
主の前に立って、真剣な祈りを捧げているときには、神の力がはたらき、神が戦われる。しかし、祈りを止めると神の力が働かないという象徴的な出来事であった。
立ちて待つ、とは、主を見つめて、主の再び来られること、聖なる霊がのぞみ、神の力がすべてをよきにされることを待つということであり、これは、未来のことを待つとともに、日々の生活のなかでこの姿勢を持ち続けるということである。
この立つということは、罪あれば御前に立つことができない。「立ちて待つ」(stand and wait)、そのひと言に罪の赦しと聖なる霊と再臨を待ち望み、神の力あれば万事がよきになされるという確信が込められている。
ある注解者は、このひと言に込められたミルトンの生き方は、「消極的なものでなく、烈々たる気概を示している。」と記している。
偉大なるはたらきをした人たちも、このような気概を持っていた。罪赦され、一人神の前に立つ志が与えられるとき、天よりの風が吹きつけ、上よりの力が与えられて物事に向かっていったのがうかがえる。
聖書に現れるモーセ、ヨシュア、ダビデ、それから、エリヤ、エレミヤさまざまの預言者たちもまた同様であった。
内村鑑三がしばしば独立の重要性を語ったのも、この神を見つめて一人立ち、神の力が働くのを待つという精神にほかならなかった。

キリスト教は真個の独立を奨励する。すなわちひとり神とともに全世界を相手として立つような人物を造る。(「聖書之研究」一九〇五年四月)

説教集と宗教書の類だけを読むのはいけない。ときに大詩人の詩集を播いて大いに自由と独立の精神を養うべきである。宗教は人を古い習慣にとじこもらせ、それらにこだわってそれに無批判に従っていかせることになりやすい。
神が時どき大詩人を世に送りだされるのは、古き宗教的な束縛を慕って奴隷のような心になった人々を目覚めさせるためなのである。(「聖書之研究」一九〇六年十一月、原文は文語)

ダンテの神曲のような大詩人の著作に触れると、この世のはんらんする文学とは全く異なる風が吹いているのを感じる。確かにそれは、神の前に一人立って、主の力を待ちのぞみ、そこから書かれたのだということを感じさせる。
人間の一時的な弱々しい感情あるいは、表面的には燃えるようであっても簡単に変質し、消えていく人間的な愛、あるいは憂鬱や不安などをうたった詩とは異なり、いわば上空を常に吹いている偏西風のように、神の国から吹き続けている霊的な風を受けて書かれたものである。
イザヤやエレミヤといった預言者はまた、詩人でもあった。こうした神の国からの霊を豊かに受けて、神の言葉をそのままに、当時の固まった習慣や考え方から、独立して自由に語った。まさに内村が言うように、奴隷的な心情になった人たちを覚醒させるために神がつかわしたのであった。
とくにエレミヤは、祖国が外国の強力な軍によって攻撃され、滅ぼされようとするとき、人々や指導者たちは真理に立ち返ることをしようとせず、単なる安全を望む人間的な考えが横行していた。そのような中で、ただ一人神の前に立って、神の言葉を待ち望み、与えられた真理の言葉を大胆に王や指導的な立場にいる人たちの前で語ったのであった。
この「立ちて待つ」という基本的な姿勢は、このような特別な預言者や詩人だけでなく、本来だれでもがなしうることである。それらの預言者や詩人は一般の人々をそうしたことが可能だと実例をもって示す存在なのである。
私たちは弱く、罪を犯しやすい。そしてからだも心も実にもろい。そのような者だからこそ、私たちは立ち返って一人神の御前に立ち、待つことができる。だれにもわかってもらえない悲しみがあり、苦しみがある、それゆえに一人立って待ち続ける。
大預言者とか偉人といわれるような人だからでなく、弱きもの、悲しむ者、苦しむ者心貧しい者であるからこそ、そのような状況にと導かれていくのである。
心の貧しい者は幸いだ、と言われている。心貧しいとは、自分の力で立とうという自負心などが全く崩れてしまった人の心である。胸をたたいて、罪人の私を赦してください!と祈る人、ここにも一人立って赦しを待つ姿がある。こうした姿勢を主イエスは深く見つめられ、彼こそが正しいとして救われる(義とされる)と言われた。自分は正しい人間だとしてまわりの人を見下すような者こそ、さばきを受けるとされた。
この世の風が吹き荒れるなか、霊的に静まり、立ちて待ち続け、神からの風をゆたかに受け続けたいと願う。


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