リストボタン祝福された人詩編 第一篇

古代の文学作品として、さまざまの国々で詩集が残されてきたが(*)、聖書においても詩集があり、それが中国語に訳されたとき、詩編(**)という訳語が作られ、それをそのまま日本語聖書にも取り入れたものである。そのため、一般的にはなじみのない詩集名となっている。
この詩集(詩編)こそは、数千年前の神を信じる人たちの心のそのままが、一種の化石のように、変ることなく今日まで脈々として伝えられてきたものである。信仰とは何か、ということを最もリアルに、その心の世界の扉を開くようにして見ることができるのが詩編なのである。

*)例えばギリシャでは、ホメロスの「イリアス」、「オデュッセイア」などの長編の詩、ローマではウェルギリウスのやはり長編の詩「アエネイス」、中国語では三千年ほども昔の「詩経」、日本では時代はずっと下るが、「万葉集」など。人間の心の世界は、詩という形で、美しい言葉と響きを兼ね備えたものとして人々の心に流れ続けてきた。
**)英語では、詩編のことを、サームズ(Psalms) という。これは、ギリシャ語の プサルモス Psalmos に由来する。この語は竪琴のような弦楽器を演奏するという、プサロー psallo の名詞形であり、「賛美、賛歌、詩」などの意味に使われている。


聖書の詩集と他の国々や民族の詩集とは決定的な違いがある。それは、聖書の場合は、唯一の神を中心とした心の交流であり、信仰と愛が表現されており、また個人の悩みや苦しみを歌いつつ、それが数千年にわたって永遠に用いられるほどに普遍性と永遠性を持っているということである。
また、それと関係するが、単に個人の心の問題にとどまらず、はるか数百年~千年ほども後に生じることの預言ともなったような深い内容をたたえているものもある。
それゆえに、ほかの国々の詩が、個人的なもの、せいぜい民族の共通した心を表現しているものであるが、聖書の詩編は神の言葉となったほどに、永遠性と普遍性がたたえられており、一見個人的な内容と見える詩の背後に神の愛や正義、真実、さらには神のお心が実感されてくるというものなのである。
その詩編の最初に収められたものは、個人の悩みや喜びなどの感情を歌ったものでなく、真理そのものへの感動を歌ったといえる内容となっている。この世には、一見なんの善き法則もないように見えるが、神からの啓示を受けた者にとっては、そこに時代を越えて変ることのない霊的な法則がある。そのことをはっきりと知らされた者にとっては、そうした真理そのものが深い感動の源となって言葉に表さずにはいられなくなる。
詩編第一編は、そうした真理への感動というべきものであり、それが全体の詩編のタイトルという形にもなっている。

いかに幸いなことか
神に逆らう者の計らいに従って歩まず
罪ある者の道にとどまらず
傲慢な者と共に座らず
主の教えを愛し
その教えを昼も夜も口ずさむ人。
その人は流れのほとりに植えられた木。
ときが巡り来れば実を結び
葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
神に逆らう者は裁きに堪えず
罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。(詩編第一篇)

 一節目の最初の言葉は原文では「アシュレー」の一言である。この語は、ヘブル語で「まっすぐに行く」という意味のアーシャールという言葉がもとになっている。つまずいたり、転落したりしないで、まっすぐに神の道を進み行く、ということから、幸い、祝福された、といった意味になったと考えられる。
そして「ああ、幸いだ!」という意味をもった感嘆をあらわす言葉、間投詞のように使われている。最近の代表的な英語訳の一つでは
How blessed !
と訳しているものもあり、日本語訳では「いかに幸いなことか」とも訳されている。
以前の口語訳では、
「悪しき者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者のすそに座らぬものは幸いである。」と、幸いという言葉が最後になっていた。原文では最初に書かれているにもかかわらず、日本語訳では最後に書かれているので、新共同訳の訳文のほうがより生き生きと原文に近い表現となっている。
 人間にはあらゆる道、生き方がある。職業を例にとっても最も基本的な農業、漁業といったものから、商業、公務員、プロのスポーツ等々じつに多様なものがある。
このように働く場所や職種はたくさんある。しかし詩篇で言おうとしていることは、いかなる職業につこうとも、その人の魂において歩む道は二つしかないと宣言しているのである。
それは神に逆らう者の道、滅びに至る道なのか、それとも生き生きとした命に至る道のどちらかということである。だから職種は数え切れないくらいほどあり、さまざまな道があるけれども、その職業の奥にある心の構え方、持ち方、精神の方向は二つしかない。
このように聖書は、人間の魂の方向性を鋭く見つめるゆえに、とても単純化して表現することが可能となっている。職業はある意味では表面に出たところだけで、表面の奥にある人間の心、根ざしているものは二つしかないのである。
この詩編第一編は、詩篇全体にわたる「門」のような形となっている。
 まちがった道、罪深い道、滅びに至る道はこの世には至る所にあるものだから、まずそれを書いている。
神に逆らう者の考え方に従って歩む道、罪ある者の道、傲慢な者と共にある道、こういうものは最終的には滅びに至る。私たちは初めは神を知らなかったので、もしそのまま知らないままだったら誰でも元は神に逆らう道を行っていた。
神に逆らうものの計らいごとに従ったり、また自分も神に逆らうことを考える、いわゆる自分中心で自分の地位や利益を追い、神とは反対のこの世の道を行っていたのだ。
「歩む」とは生活していく、生きていくということで、「罪ある道にとどまる」とは悪いと思っていてもそこから出て行こうとしない、出る気がない、出ることが出来ない、また出ようにもどこに出るべきかが分からないので、出ることができない、とどまらずにおれないということを意味している。
また「傲慢なものと共に座らない」とは、傲慢な者と共に神に逆らうことを考えたり、計ったりしないということである。私たちは神を知らなかったら積極的に悪いことをしなくても、悪しき者と共にとどまり続けることもある。

神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
神に逆らう者は裁きに堪えず
罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。(4、5節)

神に結びついていなければ人間の存在そのものが、非常に軽いものとなってしまう。
 私たちはしばしばぐらぐらして動揺する。例えば他人の一言によっても心が吹き飛ばされるぐらい、腹を立てたり、ねたんだり、憎んだり動揺したりすることが起こる。
この世の道は最終的に滅びに至るわけだが、そのことを4~5節にあるように風に吹き飛ばされるもみ殻という表現で表している。それは、悪しき者(神に逆らう者)の本質というのは風に吹かれて飛び去るように、とても軽いからである。
例えば盗みをして見つかると、捕えられ、刑務所に入れられて、それまでの職業生活や家庭は崩壊してしまう危機に直面する。それは風に吹き飛ばされるようなものである。
しかし、神は永遠の真理であるから、岩であり、大木であり、また不動の山に例えられる。それゆえに神と結びついていれば、私たちもまた、動かされない重みが与えられることになる。
神の道は、神と結びついているゆえに、この世では人から良く言われようとも、また悪く言われようとも、あるいは病気であろうが健康であろうが、どんなときでも一貫して同じ歩み方を続けることができる。

映画『Passion』の中であったように、主イエスは、散々鞭打たれ、悪口を言われ、ひどい目に遭わされるなど普通の人間には到底耐えることの出来ない猛烈な風が吹いても、主は神に結びついていて、その結びつきは不動なものであったから、吹き飛ばされなかった。そして命まで奪われたのにもかかわらず、かえってキリストと神とにかかわる真理が成就していった。
このことから見ても真理に結びついている者ほど、嵐が来ても飛ばされない。また人間の基盤がどれほど強固であるかは、突然の事故や、他人からの中傷や、非難や悪口に対してどれほど動揺するかしないかで分る。また動揺したとしてもどれほど早く元の平静な状態に戻ってこられるかということによっても分る。
 昔の農業は脱穀をする時は風に吹き飛ばして、籾殻をより分ける作業をしていた。農業をしているたくさんの人にとっては、ごく当たり前で日常的な光景であった。
深くものを見る人は、このようなどこにでもある光景から人間の精神的な運命に関する霊的な真理を読み取ることができるのである。
神に逆らう悪しき者は、神の裁きにはたちまち裁かれて立つことができない。神に従うものの集いには耐えられない。神に従う方向へは行けない。と表現している。このように真実で無限の力を持った神に逆らうとどういうことになるのかが、様々な表現で言われている。それは最終的には全ては崩れて消えていく道なのである。
 対照的なのが神の教え、すなわち真理を愛している状態、言い換えると神の言葉がいつも心にあるということである。いつも神の方に心を向けていると、神の方からも絶えず良きものが流れ込んでくる。人間も誰かを愛しているということは、その人に心を向けているということであるが、神の教えを愛するということはいつも心を神に向けているということになる。
人間同士の愛でも、その愛が強いほど、昼も夜もいつも相手を思い出すのと同様である。
神から与えられるものが良いことであれば感謝するし、悪いことであっても神が背後でよくしてくださると思う。美しい自然を見ても神の御手を絶えず思う。教えの背後には神のご意志、御心がある。
そういう意味で日毎にみられる青空や白い雲、美しい星空、山や川、自然の草花などを愛するということは、それらを創られた神の御意志を愛するということになる。したがっていつもそれらを見て神のことを思えば神の教えを愛すること、ご意志を愛することにもつながっていく。
そうすると神のもとから、永遠のいのちが伝わってくるから絶えず新たな命が与えられ、実を結ぶことになる。身近な自然を愛するということからも、このように、神のことをいつも思い起こすことに結びついていく。
この世の仕事にはたくさんの条件がある。まず健康でなければいけないし、ある程度学力もいる。最近ではパソコンが使えなければいけない、免許がなければいけないなど至るところで条件がある。
しかし、聖書の世界の比類のないよき点は神の教えを心にいつも持ち、それを愛することだけで、誰でも流れのほとりに植えられた木のようになると約束されていることである。そして神の言葉を愛し続けていくときには、ヨハネの福音書の最後の結論としても記されているように、永遠の命が与えられると約束されている。

主の教えを愛し
その教えを昼も夜も口ずさむ人。
(二節)
 昼も夜も口ずさむとあるが、文字通りいつも神のことを口に出して言うというのではなく、瞑想するという意味の meditate が英語訳として多く使われていることからも類推できるが、それはいつも心に神があるという状態を指しているのである。そういう道こそは神がいつも知っていてくださり、その道を守り導き、そして祝福してくださる。
この世界には、実に多様な人間がいるし、さまざまの民族や国家がある。また無数の職業もある。しかし、どんな状況にある人であっても、自分の地位のためや安定のためにではなく、神のために、神の栄光を表すために、神の教えを少しでも伝えるためにするという人がごく少数だけれどいる。たとえ同じ職業に就いている人同士であっても心の方向ははっきり二つに分かれるのである。
詩篇全体が第一編で言われている二つの道を書いており、冒頭に全体のタイトルのように置かれている。神の教えを愛し、口ずさみ、絶えず神の御言葉、真理を思う人は、いかに神に叫び、讃美し、また苦難のなかから救い出され、神の大いなる賜物を受けて、いかに神を讃美するようになっていくか。また敵対するものがいかに滅びていくのか、流れのほとりに植えられた木なのか、あるいは風に吹き飛ばされるもみ殻となっていくのか、といったことをここで対照的に提示しているのである。
それはこの世界全体を過去、現在、そして未来を見つめ、全世界を展望している者のまなざしがここにある。 
 神の教えというものを単に「知ってる」だけでなく、それを昼も夜も愛する、喜ぶ、それが私たちの道なのである。
しかし主の道を愛していたのに、途中でこの世の道に引っ張り込まれる人もいる。そしてせっかく実を結びかけていたのに、枯れてしまうことも実際にある。
だからあの人は逆らう者の道に行ったが、私は神の道に行っているなどと他人のことを簡単に裁くべきではないということになる。大事なのは自分は神の道を愛しているのか、喜んでいるのかと問い続けることなのである。
新約聖書において、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」 (テサロニケ五・16
ここには、この詩編第一編の、「昼も夜も絶えず神の事を思う」という精神と同じ流れがある。いいことがあっても悪いことがあっても、何か意味があり、苦しいことが生じても、この苦しみがなければ自分は強められないから与えられたのだと信じてそのことを感謝する。
この詩編の冒頭の詩の心の源流は、神の御手によってその真理が私たちの胸に刻まれるということであり、そこからこの流れが新約聖書の時代になっても、ずっと流れ続け、そして現在の私たちの世界にも流れは止むことはないのである。


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