リストボタンマグダラのマリア

イエスが十字架で処刑されるとき、最後まで従い、さらに墓に行き、安息日が終わった翌日の朝早く香料をもって墓にまで行く、そのように忠実にった人たちとは十二弟子たちではなかった。
十二弟子たちが、家庭も職業も捨ててイエスに従ったのは、特別に彼らの魂に働きかけたものがあったからだといえる。無数にいる人間のなかから、とくにわずか十二人だけ選ばれたという特別な招きがあった。
それにもかかわらず、彼らはイエスが捕らえられたときには、主を裏切って一人の例外もなく逃げてしまった。その直前のイエスの必死の祈りにおいても、弟子たちは、みんな眠ってしまい、イエスが途中で起こしにきたが、それでもなお、再び眠ってしまったほどであった。
それゆえに、イエスが前夜は一睡もしないうえに、さらに兵士たちによって鞭打たれ、そのあげくに重い十字架を負わされてたくさんの人々のいる通りを選んでわざわざ長い距離を歩かされた。 刑場に着いて生身の両手、両足を、大きな釘でもって木に打ち込まれるという想像を絶する苦しみのとき、そばにいて祈りをもって見つめるべきであった弟子たちはそこにもいなかった。
(ただしヨハネ福音書には、名前が記されていない「愛する弟子」が一人いたことが記されている)
そこにいたのは、婦人たちであった。とくに、四つの福音書のすべてに書かれてあるのが、マグダラのマリアである。
このマグダラのマリアについては、聖書においては、イエスの三年間の伝道の間、最も重要であった十字架で死ぬこと、復活のときにとくに記されている。十字架の死とそれに続く復活こそは、キリスト教の中心であり、その二つの中心は、また世界史の長い流れのなかでも、最も大きな出来事であったといえる。
そのような特別な出来事にマグダラのマリアが深く結びつけられて、記されていることに、そうした記事を書いたキリストの弟子たちが受けた啓示を知ることができる。
書き方やその内容が、ほかの三つの福音書(共観福音書)と異なるヨハネ福音書においてもやはりマグダラのマリアのことは記されている。 しかも、共観福音書よりも詳しく記されている。
ほかの三つの福音書は、マグダラのマリアがイエスの葬られた墓にいったのは、明け方(早く)という表現であるが、ヨハネ福音書は、さらに、まだ暗いうちに、という語があり、「週のはじめの日、朝はやく、まだ暗いうちに、」と、より詳しくなっている。
そして、共観福音書ではマグダラのマリアはほかの一、二の婦人たちとともに、イエスのおさめられた墓まで来たところ、墓の入口に大きな石でふたをされていたが、その石が転がされてあり、そこに天使が現れてイエスが復活したことを、マグダラのマリアたちに告げたと記されている。
しかし、ヨハネ福音書では、とくにマグダラのマリア一人に焦点が当てられ、まだ暗いうちに墓に出向いたという。女性が、遺体をおさめた墓に暗いうちから出かけていくということは、よほどの思いがなければそのようなことはしないであろう
新約聖書において、マグダラのマリアについては、 なぜこのような特別に記されているのであろうか。
マグダラのマリアについて聖書が記すことは、イエスが十字架で処刑されるときと、復活のときに最も深い関わりがある女性として現れる。その他では、一度だけ聖書に現れる。それが次の箇所である。

イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。
悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。(ルカ八・1~3)

これが、イエスの十字架の処刑のときと復活にかかわる以外のマグダラのマリアに関する唯一の記述である。これは、彼女は何ものであったかをひと言で表している。七つの悪霊とは何か。それは七という数字は一種の象徴的な数であり、本来霊は風のようなものであり、数えられないものであるから、この表現はこの女性が徹底的に悪の霊のはたらきによって支配されていたということを暗示している。
聖書には、ほかに悪の霊に支配されていた人の状況が書かれてある箇所がある。

イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。
この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。
彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。(マルコ五・2~5より)

このようなひどい状況であったが、主イエスはこの人から悪の目に見えない力を追いだして、その闇の支配から救い出されたのである。
マグダラのマリアもおそらくはこのような恐ろしい闇の力に支配され、絶望的な状態であったと考えられる。彼女はどうにも救いようのない精神の重い病気とみなされてしまっていただろう。しかし、主イエスはそのような闇のただなかに置かれて苦しめられている人をも救い出すことができた。この女性はこのような七つの悪の霊に支配されるまでに、どのようないきさつがあったのかしるされていない。何か特別に苦しいこと、悲しみに打ち倒されることがあったかも知れないし、また大きな誘惑に負けて悪の力に支配されるようになったのかも知れない。いずれにしても、そうした絶望的状態になるまで、家族や周囲の人たちは何とかしてその泥沼のような状態から抜け出ることができるようにと祈り願ってきただろうし、可能な方法をいろいろと試しただろう。
しかし、家族も医者も人格のすぐれた人も指導者もすべてどうすることもできなかった。
そのようなとき、マグダラのマリアは主イエスと出会ったのである。そして長い地獄の苦しみから解放されたのであった。
人はだれでも罪深いものであるが、このマリアもまた過去の罪を赦していただいたことが推察される。
主イエスが言われたように、多く愛するのは、多く赦されたからである。

だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」(ルカ七・47

マリアがほかの弟子たちすら恐れて逃げてしまっていたなかで、恐ろしい苦しみから死を迎えようとしていたイエスを最後までその苦しみをともに担うべく、処刑されている十字架の近くまできて、最後まで見つめていたのであった。
このように、自分を絶望の淵から救い出してくれた主イエスへの感謝と真実な心、そして愛によって行動したのがマグダラのマリアであった。
主イエスへの愛、それは神への愛と同じものであって、イエスがまず神を愛せよ、といわれたことを思いださせる。このように真実にイエスを愛するものには、求めよ、さらば与えられる、という約束の言葉の通り、復活のイエスからの直接の語りかけを受けて、顔と顔を合わせて見るという大きな幸いを与えられたのであった。
彼女は復活したキリストがすぐそばに立っているのを見てもなお、それがイエスだとは分からなかった。ヨハネ福音書では、マグダラのマリアが復活のイエスに直接語りかけられたときの状況が次のように記されている。

マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、白い衣を着た二人の天使が見えた。
天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」
こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。
イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」
イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。(ヨハネ福音書二〇・1116

復活したイエスと出会ってもなおそれがイエスであるとは分からなかったが、イエスの「マリア!」という呼びかけのひと言で彼女の目は開かれて、復活のイエスと知ったのである。そしてこれが、歴史上の最大の出来事ともいえるキリストの復活を初めて知らされた瞬間であった。
マリアはイエスが復活するなど、全く信じたことはなかったのがこの聖書の記述でうかがえる。そのようなマリアはしおれることのない、イエスへの、またイエスの背後におられる神への真実な愛をもっていた。そのような愛こそは、最も復活のイエスに近づくことを与えられるのである。
知識や学問でもなければ、血筋や生まれつきの能力でもない。また長い人生経験でもない。それらが全くなくとも、ただ主イエスを愛し、神を愛するという真実な心があるときには、神は近づいて下さるということをマグダラのマリアの記事は示している。
そして、悪の霊にまったく支配されていた状況は、周囲の人たちからも嫌われ、見下され、差別を受けて、だれからも相手にしてもらえなかったであろう。今日でも、心の病の人たちは、ほかの病気の人と違って見舞いに行く人たちも少なく、病院の中で閉鎖された生活を送っていることが多い。
孤独と苦しみ、淋しさ、そして悲しみ等々、言うに言えない闇のなかにあって呻いていた魂がそこから救い出された、ということ、それは天で大きな喜びがあったと考えられる。そうした苦しみの根源に赦されない罪があったであろう。
中風で寝たきりの人を友人たちが運んできて、どうしてもたくさんの人々がいてイエスの前に行けないために、その家の屋根をもはいで病人をつり下ろすという非常手段を用いて、イエスのまえに出ていったとき、イエスは友人たちの信仰を見て、病人に「あなたの罪は赦された」と言われたことがあった。
病気の重い苦しみも罪の赦しが与えらることが、根本的に重要なこととされている。

悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」(ルカ福音書十五章7~10より)

悪霊の力から解放される、というようなことは現代の私たちとは関係のないようなこととして受け取られることが多い。しかし、それは私たちを取り巻く闇の力から解放されること、言い換えれば罪を赦されるということと本質的には同じなのである。そしてそれこそ、あらゆる問題の出発点となるのだということがマグダラのマリアについて新約聖書で、特別に重要なこととして記されている理由なのである。
最悪の状態にあって、あらゆる人から見捨てられていたであろう状態から救われ、十字架の悲劇の最後までつき従い、死してもなお主に対する愛を失わず、そこから復活という最大のことを誰よりもさきに知らされて、復活の主と出会うという恵みが与えられたこと、それは「弱きところに神の力が現れる」という使徒パウロの有名な言葉を思い起こさせるものである。
聖書は、そしてその背後にある神は、そのような暗い世界を見つめて下さっているのであり、主の愛のまなざしはどんな闇をも見通して下さっていると信じることができる。


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