リストボタン編集だより

今月号に掲載した、「主の平和」は、去る五月十六日(土)~十七日(日)に、松山市で行われた第三十六回キリスト教徒無教会・四国集会で話した内容をより詳しく書いたものです。
主の平和は、議論したり、人間の努力や思索によっても与えられず、ただ私たちは主イエスが言われたような幼な子のような心で、静まって主を仰ぐときに与えられるので、 そういう意味では、どんな人にも与えられるものという感じがします。

「いのちの水」誌四月号の19頁に「老いの坂道」というタイトルの小文を掲載してありました。それを読んで、あの内容は私(吉村)自身のことだと思って、私の健康のことを案じて下さって、はがきや手紙、あるいは電話を下さった方々がいます。 しかし、あの文章は、その前の頁の「ロバの子と落穂」などとともに、17頁に書いた広島の谷口 与世夫さんの「落穂」という文章からの引用であり、谷口さんが、79歳のときの文章なのです。引用したほかの小文のタイトルをゴシック体にしてあったのですが、この「老いの坂道」という文のタイトルは、レイアウトの校正ができてなくて、ゴシック体でなく、明朝体のままになっていたために、私の文章だとまちがわれたのだと分かりました。ちょっとした校正ミスでまちがって受け取られることがあるのをあらためて知らされたことでした。

「いのちの水」誌には、今月号の、ベートーベンに関する記述のように、引用した本をなるべく、出版社名や著者、頁も書いています。それは、最近のようにインターネットで洋書も含め、簡単に、さまざまの本が入手できる状況にあるので、余裕のある読者の人には、実際に私が引用した書物を購入してもらって確認し、読んでもらいたいと願うからです。以前のインターネットなどがないときには、外国の本の場合、丸善などの洋書店に電話し、目録を送ってもらったり調べてもらって在庫を確認し、ない場合が多くそのときには海外注文ですが、何カ月もときには一年近くも要していたし、価格も高価であったときと比べると比較にならないくらい便利になっています。
原文のちょっとしたひと言がとても強く心に残ることがあるために、短くとも原文を掲載することがあるのは、そのためです。


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