リストボタンわが愛に居れ

「私はぶどうの木、あなた方はその枝である。私につながっていなさい。そうすれば豊かに実を結ぶようになる。」
と主イエスは言われた。イエスというぶどうの木につながっているということ、それは主イエス(神)の愛のうちにとどまるということである。(ヨハネ九・59
さまざまの難しい問題はこのことを知らないか、あるいは意図的に無視することから生じる。アダムとエバも、蛇の誘惑に負けた。それは、食べてよく、見てもよいあらゆるよきもの、水をも与えられている豊かさを与えてくださった神の愛に留まらなかったゆえである。
アダムの最初の子供であったカインは、弟のアベルの供え物が神に受けいれられるのに自分のものは受けいれられないと、弟を憎んだあげく殺すという大罪を犯してしまった。それも、自分を見守ってくれている神の愛のうちに留まろうとせず、人間的感情に駆られてしまったためであった。
イエスの愛の内に留まっている、それはイエスの愛に自分の魂を結びつけることであり、また、あらゆることが、主イエスの愛ゆえになされていると信じることである。
この世には、かずかずの不幸や悲しみ、苦しみがある。それらはひどくなると、神が自分を見捨てたのではないかと思われるほどである。しかし、それでもなお、神は見捨てていない、その苦しみの背後には愛があるのだと信じること、その愛にあくまで留まることこそ、イエスが私たちに求めておられることだ。
十字架でイエスとともに処刑された重い罪人の一人は、主イエスの愛に留まり続けた。釘で手足を打ちつけられるという激しい痛みのなかでも、主イエスがきっと自分のことを思いだして下さる、その愛のお心は自分のような最も悪い人生を歩いてきたものにも、注がれると信じていた。 それはまさに主イエスの愛にとどまる、ということであった。
また、旧約聖書に現れるダビデ王も、息子が離反して父親である自分の命をねらうようになり、王宮を出て涙ながらに逃れていくという事態になった。
しかし、その悲しみと苦しみに打ち倒されそうになる状況にあっても、神の愛にとどまろうとする必死の歩みが詩篇に記されている。
私たちが主の愛にとどまるとき、主イエスもまた私たちにとどまってくださると約束されている。
悔い改めをする、神への方向転換をするということは、わが愛に居れ、というみ言葉に従って神の愛に留まろうとすることである。放蕩息子は、父親のもとからわざわざ離れ、目に見える財産をもって出ていった。その父親がいかに愛の深い者であったかはあとから知らされるのであるが、そのことはまったく分からなかった。わが愛に居れ、ということとは逆に、父の愛に背き、離れていった。そして遊び暮らしてもうだれからも相手にされず、死んでしまうというほどの状況になってようやく父のもとに帰ろう、どんな目にあってもよい、今までの自分が間違っていたと分った。そして父のもとへと帰って行った。人生が終わってしまうというときになってようやく父なる神の愛に留まろうという心が生じたのであった。

愛のうちにとどまること、病気のとき、苦難のとき、老齢のさまざまの問題が生じるとき、そして誤解、中傷、差別や侮蔑の言葉をうけるとき、そこにおいても主の愛のうちにとどまろうとすることはできる。
主の愛に留まらず、人間的考えや、人間の愛のうちにとどまるとき、一時的には燃やされるように感じることがあっても、最終的には、主イエスが言われたように私たちは、枯れていく。(ヨハネ十五・6
このようなことは、旧約聖書にも多くみられる。詩篇のなかには、わが愛に居れ、という神からの呼びかけに全身全霊をあげて応えようとする心が満ちている。苦しみのとき、必死で叫ぶこと、それは神の愛のうちに留まろうとすることである。
使徒パウロが、古い自分は死んだ。キリストが私のうちに生きておられる、と言ったのは、主イエスのわが愛に居れ、という言葉に忠実に従おうとしたゆえに、そうした大いなる恵みが与えられたのであった。
預言者のはたらきも、要するに神の愛にとどまれ、ということを命がけで宣べ伝えるはたらきであった。
私を仰ぎ望め、そうすれば救われる、ということ、それは、神がわが愛に居れ、ということの別の表現なのである。
神がその愛のうちにとどまらせようとするために、私たちのためにイエスを送られ、イエスが十字架に付けられ、そして私たちがたくさんの律法の行いをせずとも、ただ信じるだけで主の愛のうちにとどまることができるようにして下さった。
祈り、集会、賛美、行い、すべては、主の愛にとどまるためのものである。本を読むことも、自然の美しさや厳しさを味わうこと、渓谷や山岳の力強さに触れること、それらも同様である。
それだけでなく、苦しみや悲しみであっても、それもまた神から送られることであり、主の愛にとどまるためにそのような苦難をも味わうようにと導かれる。
適切な導きをも、私たちが主のうちにとどまるために必要である。ダンテのような力ある人間であっても、そのような導き手を必要とした。よき書物、優れた指導者、よき集まりこれらもまた主イエスの愛に留まるための大きな助けとなる。
また、み言葉を伝えるために最も必要なことは、主イエスの愛にとどまり続けることである。それなくしてはキリストの福音を伝えることはできない。人間的なものにとどまるほど、主イエスは伝わらない。
このように、私たちの生活のさまざまの部分において、つねに主イエスの内に留まり、その愛が神に由来することを固く信じ、そのうちに留まっていようとすることこそ、主から与えられた恵みの道なのである。


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