詩篇 第三編
聖なる山から答えて下さる神


(賛歌。ダビデの詩。ダビデがその子アブサロムを逃れたとき)

主よ、わたしを苦しめる者は
どこまで増えるのでしょうか。多くの者がわたしに立ち向かい
多くの者がわたしに言います
「彼に神の救いなどあるものか」と。

主よ、それでも
あなたはわたしの盾、わたしの栄え
わたしの頭を高くあげてくださる方。
主に向かって声をあげれば
聖なる山から答えてくださいます。
身を横たえて眠り
わたしはまた、目覚めます。主が支えていてくださいます。
いかに多くの民に包囲されても
決して恐れません。

主よ、立ち上がってください。わたしの神よ、お救いください。すべての敵の顎を打ち
神に逆らう者の歯を砕いてください。

救いは主のもとにあります。あなたの祝福が
あなたの民の上にありますように。(詩篇第三篇)

 一般的には、詩とはまず個人的な喜びや苦しみ、悲しみといった感情を表すものというイメージがある。
しかし、聖書のなかの詩集である詩篇では、最初に置かれた第一篇はそのような内容でなく、人間のあり方全体についての真理であり、全体の総論的なものであった。
神の言に従うことの祝福と、真理に背を向けて生きることは必ず裁きをうけるというこの世の基本的な法則が述べられていた。それが詩という形で書かれているのは、こうした目に見えない世界に厳然たる法則が存在するということに対する驚嘆があったからである。何らかの驚き、あるいは心を揺さぶるものがないところには、詩というものは生まれない。
また第二編も、ふつうの詩とは大きく異なっている。
この世界にあふれている神に敵対する力は神の正義と万能の力の前には、時が来れば滅び去るのだという悪の力そのものへの洞察が置かれている。全世界は様々なものが支配しており、正義の神の支配など有り得ないとする人たちが圧倒的に多い中にあって、神が一切を支配されていると詩篇の作者がはっきりと啓示を受けた内容であった。
この世は一体何が支配しているのか。いつの時代でも神の真理に反するようなことを、国々の指導者たちも絶えず行ってきた。そういうことばかりを見ていると、どこに神の支配があるのかというように思われるが、このような詩篇などに立ち返ることによって、そういう中にも神の支配を見る目があらためて与えられる。
時が来て、神の全能の御手が働くなら、そういう真理に反し、真実に敵対しようとする力は打ち倒される。しかもそのために神の子を遣わすのだという新約聖書の世界に直接に結びつくようなことが言われている。このように政治・社会的なことを含んだ世界の動き全体に関しての、神のご支配について書かれていたのである。
第二篇は、旧約聖書の詩篇全体が、こうした真理の洞察と確信の上に立って、書かれていることを示し、そのような確信へと読者を導く内容を持っている。 詩篇のこうした配列も深い啓示によってなされているのである。

第三篇では、このような第一、二篇とは対照的に一人称「わたし」という言葉が使われている。私たちが絶えず直面する個人的な苦しみの問題が書かれている。
また、まえがきには、「ダビデの詩」とある。ダビデは、自身の子アブサロムが父親である自分の命をねらおうとした時にさまざまの困難、危険な状況に遭遇した。こうした体験のなかから作られた詩だとされている。
ダビデの詩という前書きは、ダビデのものでなくとも、彼が卓越した詩人であり、音楽家であり、かつ王でもあったがゆえに、ダビデの作として伝えられたのも多かったと思われる。いずれにしてもこの詩は、極めて苦しい状態に置かれたときに生み出されたのがうかがえる。

悪の力を滅ぼして下さい
多くの人たちがこの詩の作者に敵対するだけでなく、作者が抱いている信仰そのものを覆そうとした。
たとえ私たちが神の前に正しいことをした時であっても、なおかつさまざまな批判や中傷を受けることがある。
ここでは具体的に苦しめるものがどういう類のものであったかは書いていないが、「すべての敵の顎を打ち 神に逆らう者の歯を砕いてください。」(詩篇三・8)と強い言葉で祈っているのを見ても、作者の存在そのものを打ち倒そうとするような者たちが迫ってきて、作者を危機に陥れようという状況にあることが分かる。
旧約聖書には、このように具体的な敵対する者が、滅ぼされることを願う祈りというのが時々出てくる。このような表現のゆえに旧約聖書に親しめないとか、武力を用いての戦いを認めているとか考える人がいる。
しかし、これは、主イエスよりもはるかに昔のことであって、そうした時代の状況を考える必要がある。現代の私たちは、キリストという最高の模範があること、その生きて働くキリストが特別な人たちに語りかけて教えた真理がある。それが新約聖書である。
それゆえ、詩篇にあるこのような表現においてとまどうことなく、現代の私たちにとっては、悪の力そのもの、というように読み替えて受け取ることが必要である。
主イエスも、サタンが電光のように、天から落ちるのを見たと記されているし、使徒書簡にも、私たちの戦いは目に見える軍隊や騎兵、武器弾薬といった目に見えるものに対する戦いでなく、目には見えない悪の霊との戦いであると記されている。(エペソ書六章)
詩篇の、敵対する者たちへの裁きを願う「すべての敵の顎を打ち、歯を砕いて下さい!」といった祈りは、キリスト者にとっては、「悪そのものの力を砕いて下さい!」という祈りとなる。
自分の最も大切にしているものが侮辱され、あざけられるということ、イエスご自身も「お前が神の子であるのなら、自分を救ってみろ。どこに救いがあるのか」と嘲られた。当然私たちにもイエス様の道を歩んで行くときには、周囲のものから嘲られることがありうるということを覚えておかなければならない。
「神の救いなど存在しない」という声は、追い詰められ苦しいことが重なっていくと、周囲の人間からだけでなく自分の内からも、神様は私を助けてくれないんだとそんな声がしてくる。それに負けて本当に信仰から離れていく人もいる。

主よ、それでもあなたは我が盾
3節と4節の間が一行あけられているが、苦しみが続くとき、だれにも起きる分かれ道がここにある。神の助けがいくら祈りねがっても与えられないとき、神などいないと思って、神への信頼、信仰を失っていくのか、それとも、それでもなお、神の助けを祈り願うか、という分かれ道である。
この詩の作者は、助けがなかなか与えられなくても「主よ、それでもあなたはわたしの盾、私の栄え」であると言っている。
神はわが盾、という表現は、現代ではあまり使われないだろう。盾などというものを全く見ることがないし、使わないからである。しかし古代において、敵からの攻撃を守るものとして盾はとくに重要なものであった。盾がなかったらたちまち敵の剣や矢の攻撃によって打ち倒されるからである。
それゆえに、神こそは、敵のあらゆる攻撃をも防いでくれる存在なので、神はわが盾という表現に詩を作った人の神への信仰、神の力に対する信頼、そして自分を守って下さる神の愛をはっきりと感じたのがうかがえる。
詩篇では、「神はわが盾」と同様な表現は二〇回ちかく現れる。そのいくつかをあげて当時の人たちの神に対する心を感じ取りたいと思う。

神は羽をもってあなたを覆い、翼の下にかばってくださる。
神の真実は大盾、小盾。(詩篇九一・4

神は私たちを雛鳥を守るように、その翼の下にかばうという。これは神の愛を深く実感した人の気持である。それと並べて神は大きい武器からも守り、またこまやかな守りをしてくださるという意味で、小さな盾となって小回りのきく助けになって下さる経験を表している。
とくにこの箇所では、神の真実こそ、その大いなる盾でもあり、小さな部分をも守る小盾でもあるといわれている。 私たちを危機に陥れるのは、人間の不真実である。そして人間にはどうしても罪ゆえの不真実がつきまとう。
それゆえにこの世界は混乱し、闇が常に取り巻いている。ただ神だけはあらゆる不正や濁りのないお方である。その神の絶対の真実にこそ私たちは頼ることができる。その真実が私たちを守ってくださる。

我らの魂は主を待つ。主は我らの助け、我らの盾。(詩篇三三・20

現実のさまざまの困難に直面して私たちのできることは、神を信じて待ち続けることであるが、その神とは、私たちの確実な助けであり、悪の攻撃から守って下さる盾そのものであるという確信がこの三三篇では最後の部分に締めくくりのように置かれている。

以上のように、神こそわが盾、というこの詩の作者の実感はずっと詩篇を流れているのであり、それが表現は異なってくるが、現在の私たちにも伝わってくる。ちょっとした周囲の人のひと言で動揺したり、感情的に怒ったり落胆したりするのが私たちの実体である。それは私たちがそうした悪意や攻撃に対する盾を持っていないから、そのような毒を含んだ言葉の剣ですぐに心が傷を負ってしまうのである。神を私たちの魂の盾としてしっかり持っているときには、そうした悪の攻撃にも守られる。

「神はわが栄光」
この詩の作者は、神のことをさらに「神はわが栄光」と言っている。
しかし、「神はわが栄え」とか「わが栄光」といっても、何のことを言おうとしているのか、分かりにくい。
栄光と訳される原語(ヘブル語)は、カーボードという。この語は、動詞形のカーベードやその関連語を合わせると、聖書では三七六回ほど使われている。元の意味は、「重い」というもので、実際その意味では次のような箇所で使われている。

祭司エリは、倒れた老いて身体が重かったからである。(サムエル記上四・18
アブサロムがその頭を刈る時、その髪の毛をはかった(髪が)重くなると、彼はそれを刈った。(サムエル記下十四・26

このような重い、重さがある、といった原意から、人間に用いられると、威厳のある、簡単なことでは動かされない重厚な人間、社会的に尊敬される存在といった意味にもなっていった。そこから、最も動かされない重みがあり、この世のあらゆる悪の力にも動じない厳粛な存在ということで、神こそ栄光ある存在ということにつながっていった。日本語の「栄光」という訳語は、光輝くといったニュアンスがあるが、元のヘブル語には光といったニュアンスはなく、重みのあるという意味であったのは注目させられる事実である。
神こそわが岩、という表現は詩篇にも多くみられる。それも神の不動の確実さ、重々しさを表すものである。
ここで、詩の作者が、神はわが栄光と言っているのはどういう意味であろうか。
現代英語訳聖書(TEV)が、「YouGod give me victory」と訳していることからわかるように、神こそわが栄光、という意味は、神こそ私に神の不動の力、を実感させて下さるお方、言い換えれば、神は私に悪に対する勝利を与えるお方である、ということになる。

聖なる山から答えて下さる神
神からの答えは祈り求めたらすぐに与えられるとはかぎらない。二節で記されているように、自分に敵対し、自分を苦しめるものだけが増えるように思うときがある。それでも主に従って、固く信じて主に向かって声を上げ続けるならば、時が来たら必ず神は答えてくださる。この神の答えこそが、大いなる力となり、多くの者が敵対しても打ち負かされないと状態へと変えられる。

主に向かって声をあげれば
聖なる山から答えて下さる。(五節)

この短い言葉を実際に私たちが経験するかどうかは、私たちの日常生活を大きく変えることにつながる。この世はどのような状況にある人においても絶えず次々といろいろな心の重荷となってくる問題が生じてくる。その場合私たちはどう考えたらいいのか、いくつかの道があるときどれを選んだらいいのか、とても悩むことがある。
また、自分の失敗や罪、そこからくる人間関係の苦しさ、あるいは能力の不足、病気の苦しみなど、だれでもこの世で生きるかぎり次々と生じる問題の解決に悩まされる。
人に相談することもあるが、難しい問題ほど誰にもその深刻さはわかってはもらえないものである。
そのような場合、この詩にあるように、神がそうした人生の問題に答えて下さる時にはそれらすべてから立ち上がる力を与えられる。
かつて、旧約聖書の預言者エリヤは、特別に神からさまざまの奇跡を行う力を与えられ、偽りの預言者の力を滅ぼすなど神からの祝福に満ちた力を与えられていた。そのような者であっても、あまりのこの世の悪の力の執拗さに気力を失って、もう命をとって下さいと神に頼み、砂漠地帯に出てそのままなら死んでしまうほどのところに行った。
もう死ぬという寸前でエリヤが立ち上がり、新たな使命に向かって立ち上がることができたのは、神からの応答があったからである。(列王記上一九章)
死の寸前にあったエリヤは御使いによって命を助けられ、そこから遠い神の山に向かった。四〇日四〇夜も歩き続けるほどの距離であるから、一日に二〇㎞を歩くとしても八〇〇キロもの道のりになる。これは文字通りの意味でなく、象徴的な意味と考えられるが、相当な距離であったことは確かであろう。現在のベエルシバから、シナイ半島のシナイ山までは直線距離でも三〇〇キロ近くもある。 そのような長距離をエリヤが行ったのは何のためか、それはそこで神からの答えを受けるためであった。そしてエリヤは確かに神からの答えを新たな力と使命とともに受け取り、来た道をふたたび帰って行ったという。
死に瀕したもの、もう悪との戦いに疲れて死にたいと希望して実際に砂漠地帯のオアシスで死を目前にしていたエリヤがこのように信じられないほどの変わりようを見せるのは、神の助けをうけ、神の言葉をうけることによってであった。
数百㎞もの道のりをただ神からの直接の言葉をうけるために行ったということ、四〇日四〇夜歩き続けたという表現のなかに、ただひたすら神が行けというところへどこまでも前進していく一人の人間のすがたが表されている。
そして静かな細い声を聞き取り(列王紀上一九・12)、さらに新たな使命を与えられて、来たのと同じ道を再び引き返して来た道よりさらに遠距離にあるダマスコの荒野へと行けと言われた。
砂漠同然のところが広がっている地域では現代のような旅とはおよそ異なる困難があったであろう。ここにも神の言葉によって力を与えられて方向を明確にされた魂は通常では考えられない行動が可能になることを示している。
詩篇第三篇において、苦しみのなかから神に叫び、祈ることによって神からの答えを与えられたとある。
預言者エリヤは実際に遠い神の山に到達し、そこで与えられた神の言葉によって、死ぬ寸前という状態からまったく方向転換したのであった。
主に向かって声をあげるとき、聖なる山から答えて下さる! これは現代の私たちにおいても、決定的に重要なことである。
武力や経済的な力、あるいは周囲の人間などから守られるのでなく、生きて働く神の守りがあるならば打ち倒されない。
この詩篇の中心にあるのは、こうした誰でもがその生活の中で経験するさまざまの悪との戦いそれはしばしば自分自身の中にある悪との戦いでもあるのなかで、いかに神を信頼し続けるか、ということ、そしてそこから神の応答が必ず与えられるという事実なのである。

眠りにつくときも目覚めのときも
私たちの多くは、この詩で言われている二つのこと、すなわち、どこまでも神への信頼をもって祈り続け、叫び続けることと、神からの答えを与えられること、を欠いているゆえにさまざまの問題に打ち倒されてしまう。
しかし、この詩の作者は魂の苦しい戦いのすえに、神からの応答を与えられ、そこで初めて深い平安を体験したのである。
その魂の静けさがつぎのように表現されている。

私は身を横たえて眠り
また目覚める。
主がささえてくださるから。
いかに多くの民に取り囲まれても
決して恐れない。(六~七節)

ここには、悪に取り囲まれて苦しみうめいていた過去の心の状態とは、まったく異なるように変えられたのがわかる。それほど、神からの応答を受けたということは、この詩の作者に大きな変化をもたらしたのである。
そしてさらに六節のように「眠るときにも、目覚めるときにも」はっきりと神がそばにいてくださると実感できるようになる。一日のなかで一時的に神を近くに感じるのでなく、主の支えの中で眠り、目覚めるということができる。
「神様は応えてくださった」という経験を与えられるとき「主が実際に支えていてくださる。」ということを朝ごとに、夕ごとに実感するようになる。
そうなれば、どんなに多くの民が攻撃、中傷、批判してきても、不思議と恐れないでいられる。このように神からの語りかけというは非常に強い力を与えるのである。
この詩のはじめの部分には、「私を苦しめる者はどこまで増えるのか、多くの者が私に立ち向かう」というように、悪の力に取り囲まれていた作者は、自分を苦しめる者の力が増え続け、自分はますます追い詰められていくといった恐れを強く感じていたのであった。
しかし、その状況から神への信頼をどこまでも失わないときには、時至ると、不安と恐れに満ちたかつての状態とは大きく変えられて深い主の平安のうちに憩うことができるようになったのがわかる。そして自分を囲むのは、多くの敵対する力でなく、実はそれらのもっと内側に自分をしっかりと守る神の助けを見ることができたのである。
 ステファノは最初の殉教者となったが、復活したキリストをはっきりと神の右に見た。これも彼の命がけの行動の応えであった。
彼は、決して見捨てられていないのだという神の答えが与えられ、それゆえに群衆から石を投げられ、罵倒されても不思議と恐れないで、主の支え・神の支えをはっきり感じながら死んでいった。
私たちがさまざまのことを恐れるのは、結局のところ神からの答えがないからであり、主の支えを実感できないからであり、この二つのことがあれば、どんなことがあっても、たくさんの敵対する者があっても恐れないで歩んでいくことができる。信仰的に絶えず前進する人というのは、絶えず神に向かって声を上げ、そして答えを受け取っていく人である。
そして眠りの時など一日の折々に、主の支えを実感する。いくら信仰を何十年と持っていても、真剣に声を上げようとしないで、答えも聞こうとしないでいると、主の支えというものを実感できなくなり、信仰がだんだんと衰えていくであろう。

悪の力を砕いて下さい
 私たちはキリストが来られたのちの時代に生きている。現代においても、悪そのものや、真理や正義、愛などを本質とする神に敵対する悪の霊、けがれた霊そのものを打ち砕いて下さい、というのは切実な願いである。旧約聖書では「悪人を滅ぼしてください」というように、実際の悪い人間が出てくるが、新約聖書の時代になってからははっきりとそれは分離され、悪人のために(彼らの内にある)悪の霊が退くように祈れ、と言われている。
この詩で出てくる表現、「悪人の歯を砕いて下さい」というのは、歯を悪の力のシンボルとして、サタンの力を砕いてくださいという祈りとして受け取ることができる。
その祈りによって神が悪の霊を追いだすとき、悪い霊につかれた人も良くなる。
それが新約聖書にはいろいろな実際の例で示されているし、主イエスも十二弟子たちを選び、彼らを送り出すとき、何を与えたかといえば、第一に汚れた霊(悪の霊)を追いだす力であった。

イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊を追いだすための力を与えられた。
(マタイ十・1
私たちも絶えずこのように神の支えを得て、悪そのものが神の力で滅ぼされるようにと祈りたいと思う。

 「すべての敵の顎を打ち 神に逆らう者のあごを砕いてください」(詩篇三・8
この箇所では、新共同訳では右のように祈願文となっている。しかし、口語訳、新改訳では次のように、神の御性質そのものを表す表現となっている。

あなたはわたしのすべての敵のほおを打ち、悪しき者の歯を折られるのです。(口語訳)
あなたは私のすべての敵の頬を打ち、悪者の歯を打ち砕いてくださいます。(新改訳)
なお、関根正雄訳では「あなた(神)は、敵の歯を砕いて下さった」と過去形で訳している。
日本語の表現としては、祈りの言葉なのか、それとも神が悪の力を打ち砕くという神の御性質をそのまま真理として、詩の作者の確信を述べているのとは意味が異なる。なぜこのように訳が違ってくるのかと、疑問になるであろう。
これは、ヘブル語の過去形(完了形)というのが、現代語の過去形とは異なり、現在のことにも、また未来のことにも使うことがあることによる。
それゆえに、口語訳と新改訳では現在のこととして訳しているが、新共同訳では、未来に生じること、祈願を表すこととして訳されている。
しかし、外国語訳、例えば英語訳でみると、三〇種類ほどのうち、大多数が次のように現在完了形や現在形に訳していて、祈願のように訳しているのはごくわずかである。

You strike all my foes …
NJB)(あなたは、すべての私の敵を打って下さる)
you strike all my enemies …
NRS)(同右)
You have struck all my enemies…
NKJ) (あなたは、すべての私の敵を打って下さった)

原文であるヘブライ語の完了形という時制は、過去形に訳されることが多いが、文脈や状況のとりかたによって現在形や祈願文にも訳すことができるので、このように訳が分かれている。
「あなたは全ての者の顎を打ち、歯を砕いてくださったのだ、あるいは砕いてくださるのだ。」と確信を述べていると受け取ることができる。
このように訳文の表現は異なるものがあるが、いずれにしても悪の力がどんなに来ても、神様の力は必ずそれに勝って、打ち砕くのだという確信が豊かに見られる。

救いは主のもとに
こうした確信に立ったうえで、作者は自分や同胞の人たちが全く救いへと導かれるように祈る。それは神こそ悪の力を徹底的に排除することができると信じているからである。
最後に作者は、人間の救い究極的な幸いは、ただ神のもとにある確信を述べる。

救いは主のもとにある。
あなたの祝福が、民の上にあるように。(九節)

 人間はたいてい究極的な意味での救いを金の力や政治、また国際的な協力といった目に見えるものに置こうとする。 しかし、そうした金や政治などは、制度の変革や魂の問題の外側にある問題の解決には有用であるが、人間の魂そのものに救いを与えることはできない。
現代では最も大々的にマスコミで繰り返し扱われるスポーツにおいては、勝ったからといって、魂の救いがあるのではない。そうした勝敗は人間の深いところの魂の問題には何も関係していない。それゆえに、聖書が記された同時代にギリシャやローマではスポーツ、競技が盛んに行われて今日も遺跡として残っている大競技場があるほどであるが、聖書において一切記述がない。キリスト教精神というのは、弱い者を顧みるという本質があるが、スポーツは逆である。ボクシングなどで典型的に現れているが、弱いものを打ち倒して勝ち進むところにそのおもしろさがあるため、注目が集まっていく。弱いものを助ける、などといっていたらスポーツの試合にはならず、弱いものが見捨てられるのがマスコミによく登場するスポーツの世界である。
しかし、本当はそのように勝ち負けにこだわらず、それぞれがスポーツによって気楽に身体を動かして楽しみ、心身ともにリフレッシュしたらいいわけで、負けても何も悪いことはない。むしろ負けたほうが傲慢にならないだけ良いこともある。
また富がどれだけあるかとか、身体の健康ということもまた、魂の救いとは関係しておらず、かえってどこも病気などで苦しんだことのない人は、救いに遠い傾向があるほどである。
救いは、この世のそうしたいかなるものにあるのでなく、宇宙を創造された神のもとにある。さまざまな敵対する者の中から、神への信仰にすがり続けた時には神からの答えと、日ごとの神の支えの実感がある。
形式的な宗教ほど儀式的で、神殿や寺院などに行ったときだけお経を唱えたり、儀式をしたりするが、あとの生活の場ではまったく思いだすこともないといった状態になる。日本人は一般的には、多くが仏教徒だと言われるが、日々の生活のなかで、仏教の教典の言葉を思い起こし、それにしたがって生きていこうとするようなことはとても少ないと思われる。私自身、小学校、中学、高校、大学とながい教育の場で、教員から仏教の教えとか神道の教えといったことを聞いたことは一度も記憶がないし、生徒、学生たち同士でも話題になったことも一度もなかった。そのことだけ考えても、日本人にとって宗教が生きて働いている人はきわめて少ないと言えるだろう。
私の家では、家の宗教が真言宗だということは聞かされていたが、真言宗の教典というのは家になかったし、法事などで真言宗でやっているのだと聞いても参加者は真言宗の教典の内容が何であるか知らない状態であった。このような状況であるから、日々の生活のなかで、その教えにしたがって生きるということは無理な話であり、葬式や法事、盆といった時だけ、形式的に仏教の儀式をやっていたのである。
聖書においても、キリストの時代やそれ以前数百年も前から、唯一の神を知らされて、本当の礼拝のあり方も示されていたにもかかわらず、絶えずこうした形式化の波を受けてきたのがみられる。主イエスもそのような形だけの宗教というものを厳しく批判され、そのために当時の宗教指導者たちから憎しみをうけ、最終的に十字架につけられるということにまでなったのである。
そうした形式的な信仰のあり方と対照的なのが、この詩篇に記されている信仰のすがたである。
夜、床につくとき、朝起きるとき、それは最もプライベートな時間である。そうした時間に思い起こすことが何であるか、そのようなときに深く実感するものこそ、私たちの魂に深く刻まれていることだからである。
この詩の作者は、まさにその深い個人的な魂のすがたを示しているのであって、数千年を経たのちに読んでいる私たちにとっても、その魂の風景こそは、私たちにそのまま入ってくるし、私たちと共有することができる。
こういう自分の体験に基づく確信を持った人は、その満足を自分だけで終わらせず、周囲の民の上に祝福がありますようにと静かな祈りとなっていく。
本当に救いを受けた人は自分だけで決して満足せず、人々の上に祝福があるように、よきことがあるように絶えざる祈りが自ずから出てくる。
それゆえ、この詩の最後は、自分に与えられた祝福が広く他者にも及ぶようにとの祈りと願いをもって終わっているのである。

救いは主のもとにあります。
あなたの祝福が、
あなたの民の上にありますように。(九節)

ここで取り上げた詩がどうして詩篇の三番目に置かれているのかというのは、個人の魂の歩む道というものを凝縮させた形がこの詩に示されているからなのである。
私たちは日々、国際社会、政治的な問題にも接する。そしてそこでさまざまの社会的な悪の問題に直面する。そのようなときに、詩篇第二篇のような内容を身近に感じていることが不可欠であるし、自分が一人悪の力に攻撃され、あるいは病気という闇の力からの攻撃のようなものに苦しめられるとき、神のことを見失うことなく、祈り続けていくところに勝利があり、救いがあるという真理を第三編が示している。社会的な問題を見つめつつ、さらにその背後の神を見つめることの重要性をこうした詩篇は私たちに語りかけているのである。


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