リストボタン点と線

私たちが生涯ですることができるのは、ほんのわずかである。かつての日本と中国との戦争で、点と線ということが言われた。広大な大陸で日本軍が主導権を握れたのは、わずかに都市とそれをつなぐ鉄道、道路などでしかなかった。
八月は新聞や報道番組でもそうした戦争にかかわる報道がなされ、このような言葉も以前から関連記事で目にすることがあった。
そして私たちの生きる領域についても考えさせられた。
私たちがどんなに一生かかって研究したとしても、あるいはさまざまのことを経験したとしても、それはこの全世界、宇宙のきわめて小さい点と線のような領域でしかない。
 ほかの人の生涯の歩み、経験などもいくら聞いても、同様である。
病気で長く苦しんだ人のことを聞いても、もし自分がそのような苦しい病気を経験していなかったら、わずかにいわば細い線のような理解でしかないだろう。
特に、病気やからだの障害のために、寝たきりの状態でいるような場合、ずっと病院や自宅のベッドにいる生活となるから、まさにその生活は点のような狭いものとなる。そしてその生きた跡も、広い世界に出歩くことも、職業につくことも、結婚もできないとすれば、それはとても細く弱々しい線のような人生である。
専門家という人たちはたくさんいる。それもまたその専門という点の世界に生きたということである。日々の生活もその専門の研究の道も一本の道、線である。相撲とか野球などスポーツ選手は、とくにそうした点と線の生活だと言える。
例えば、野球であれば、くる日もくる日もボールを追いかけるという小さな点の領域での生活であり、毎日そのことを見つめて生きていくゆえに、一つの線上を行き来しているといえるだろう。
 いや、自分は世界を旅行した、世界を舞台に働いた、などという人がいるかも知れない。しかし、そのような人もまたある種の専門領域に秀でたからこそ、世界をあちこち移動したのである。いくら世界を旅行したり生活したとしても、それもそこで接したきわめて少数の人との関わりであってそれも点のようなもの。日本からその地点への往復、そこから別の土地への移動など、すべて線にすぎない。
私たちの生きた領域とそこへの歩みは、このように点と線でしかないと言えるが、それもまた、少し年月が経ってみると、その点と線も自分も忘れ、ほとんどの場合ほかの人たちにも消えて見えなくなってしまう。一部が本などになって残るがそれもその人の活動した点と線を書き残したにすぎない。
 さらに、視点を地球から遠く離れたところに置いてみるなら、人類すべてを乗せて動いている地球そのものが、針の先のような一点になってしまうし、太陽のまわりを線状に回っているだけである。さらに遠くに行けばそれらすべてもまったく見えなくなる。
このように考えると、万事は空しくなるように思われる。何をしてももともと小さな点と線でしかなく、さらに時間が経つとみな消えてなくなってしまうからである。
こうした点と線というきわめて限定された領域に生きる私たちに、その空しさを根底から一掃してくれる道がある。
それはすでに今から数千年前からはっきり聖書に示されている。
私たちが神のわざを本当に深く啓示されたとき、どのように感じるであろうか。それは旧約聖書のどれよりも、詩篇が個人的な実感として記している。
主よ、あなたの慈しみは天に、あなたの真実は大空に満ちている。(詩篇三六の六)

ここには、人間の点や線のような狭さ、小さいこととは対象的に、神の愛と真実が広大無辺の天に満ちているという実感が記されている。そしてこのような実感がえられるのは、私たちの存在がきわめて小さいものでしかないという実感があるほどに、神の大きさ、広大さを感じ、天地に満ちているということを深く知らされる。
私たちの小さいことが空しさにつながることなく、かえって、神の愛と真実の広大さを知らされることへと導かれるのである。
点と線の人生が、主と共にあれば、広い領域をおおう人生となる。私たちが神とともにあり、神の真実や愛が天地に満ちていると感じるとき、私たち自身も天地に広がりをもっているかのように感じられてくるであろう。
 事実、聖書には、ただキリストを信じているだけで、神の国の無限の霊的な遺産を相続することになると約束されているのである。

あなたがたは、御国を受け継ぐという報いを主から受けることを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。(コロサイ 324

 神の国を受け継ぐ相続人になるという想像もできないような恵みをいただけるのならば、この美しき天地もみな神の国、神の御支配のもとにあるものゆえ、これらの内に宿る力や美、清さもみんな私たちが受け継ぐということになる。
 それは点と線でなく、無限の広大な霊的領域が与えられるということであり、聖なる霊がそうしたことを暗示する。聖なる霊はすべてのことを教えると言われているとおりである。

主イエスが約束されたように、聖霊が注がれるなら、私たちの魂の内からいのちの水がわきあふれて流れるようになるという。言いかえれば私たちの魂の深いところのものが、世界を潤すというのである。
 無限によきものが与えられる約束と同時に、神の国にあるいのちの水が流れ出て周囲の領域へと流れ出ていくという。
水野源三のように身動きできないような重度の障がいをもった人でも、彼の詩をみるときには、たしかに彼の魂が人間の世界を流れ、うるおしているように感じる。

仰いだときから

一、主なるイエスを仰いだときから
行きなれた道にかおる白い花
みどりの林に歌う小鳥さえ
私に知らせる神の慈愛を

二、主なるイエスを仰いだときから
見慣れた消え行く夕映えなる空
屋根ごしに光る一番星さえ
私にしらせるみ神の力を

三、主なるイエスを仰いだときから
聞き慣れた窓をたたく風の音
夜ふけの静かに降る雨の音さえ
私にしらせる御神の恵みを
(水野源三「わが恵みなんじに足れり」九七頁)

・まだ暗き 長病む部屋に聞こえくる ひばりの声に 神の愛知る

これらの詩は、彼に注がれた聖なる霊が、彼の魂から泉となって周囲にあふれ出たもの。そして周囲をうるおしてやまないものとなっている。
点と線のいずれは消えてしまう人生、それが天地をうるおすようなものに変えられる道、それがキリストの道なのである。


音声ページトップへ戻る前へ戻るボタントップページへ戻るボタン次のページへ進むボタン。