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クォ・ヴァディスより

今までこういう愛があるとは、推測さえしなかった。愛というものは、ただ火のような欲望だと思っていた。
ようやく今、心地よく、計り知れない落ち着きを感じることがあるものだとかった。これは私には新しい事だ。
この樹々の落ち着きをみていると、それが自分の中にあるような気がする。今になってわかったのは、人間がこれまで知らずにいた幸福があるということだ。
今になってわかったのは、どうして あなたもポンポニアもあんなに晴れ晴れとしているかということだ。そうだ、それはキリストのおかげ
パウロが私にこう言ったのです。
「私はあなたに神がこの世界に来たこと、世界を救うために十字架にかかったことを信じさせた。
キリストは復活したのだから、神だったことをどうして信じないでいられようか。
それにあの人たち(パウロやペテロ)は、町のなかでも、湖の上でも山の上でも、キリストを見たし、嘘をついたことのない他の人々も見た。
私は、ペテロの話しを聞いたときから信じていた。
あのとき、私はもう、世界中でほかの人がみんな嘘をついても「私は(復活したキリストを)見た!」といっているあの人は、嘘をつかないということが自分にはわかった。
しかし、私はあの教えを恐れていた。あの教えには、知恵もなければ、美しさも幸福もないと思っていた。
しかし、世界を支配するのは、嘘でなくて、真理であり、憎しみでなく、愛であり、罪でなくて善であり、不信でなく信仰であり、復讐でなくて憐れみである
その教えがわかった今、そうしたことを願い求めないなら、私はどういう人間だということになるだろう。
ほかの(ストア哲学などの)教えもやはり正義を欲しているが、人間の心を正しくするのはあの教えだけです。あの教えはその上、人間の心をあなたやポンポニアのように美しくし、あなたやポンポニアのように真実にします。
それが見えないなら、私は盲目です。そのうえ、神なるキリストが永遠の命と、神の全能によってのみ与えられるような絶えることのない幸福を約束したとすれば、人間としてそれ以上何か望むだろうか。
私は今、なんのために、自分が徳を収めるべきかを知っている。それは、善と愛がキリストから流れ出ているからです。
真理を説くと同時に、死を滅ぼす教えをどうして愛せずにいられようか。
私はあの教えは幸福に反対すると思っていたが、そうしているうちに、パウロがあの教えは幸福を少しも奪わないばかりか、幸福をさらに付け加えると信じさせてくれた。
あの教えが神々の教えのなかで一番いいものだということを、理性が示しているし、胸が感じている。この二つの力にだれが反抗できようか。

二人の魂には、言葉では言い表せない平静が流れ込んだ。そうしてヴィニキウスは、この愛が深く清いばかりでなく、まったく新しくてそれまで世界が知らず、また与えることもできないようなものなのだと感じた。
この愛に向かって、ヴィニキウスの胸にあるすべてのもの、リギアもキリストの教えも糸杉のこずえにしずかに眠る月の光も穏やかな空も集中し、全宇宙がこの一つの愛に充たされているように思われた。

光が太陽から出るように、真の幸いは(主にある)愛から流れ出るのです。法律学者も哲学者もこの真理を教えず、この真理はギリシャにもローマにもなかったのです。ローマになかったと言えば、全世界にもなかったという意味です。
徳のある人々が心がけているストア派の教えは乾いていて冷たく、人々の胸を刀のように堅くし、それを善いものにするというよりもむしろ無関心にさせます。
私は、リギアの不死の魂を愛し、二人はキリストの内にあって愛し合っているのですから、こういう愛には別離も裏切りも心変わりも老衰もありません。
若さと美しさが過ぎ去り、われわれのからだが衰えて死がやってきても、魂が残っている限り、愛は残るのです。
(「クォ・ヴァディス」(*
河野与一訳 中巻193 197頁岩波文庫 同 下巻311頁 )

*)「クォ・ヴァディス」ポーランドのシェンキェヴィチ作。「クォ・ヴァディス Quo vadis」とはラテン語。 クオー (どこへ)vadis ウアーディス(あなたは行く)を意味する。このタイトルそのものは、「主よ、どこへ行かれるのか」(Domine ,quo vadis)(ヨハネ福音書1336)からの引用。
作者は、ローマ帝国の歴史を詳しく研究し、それを二人の主人公の人間的な愛からキリストにある愛へと導かれていく状況を、ペテロやパウロなどの聖書の人物を登場させつつ、岩波文庫版で上中下の三冊、九百頁の大作に仕上げた。この作品は、50以上の言語に翻訳され、映画化もされた。また、この小説が評価されて作者のノーベル文学賞受賞(一九〇五年)につながったと言われている。岩波文庫ではこの引用に用いた河野与一訳の後、木村彰一訳 全3巻が 一九九五年に発行された。


・この引用した箇所では、主人公のローマ軍人が自分がまったく知ることのなかった新しい愛を、リギアというキリスト教の女性や、ほかのキリスト者との関わりから知らされていくことが記されている。
たしかに、全世界で至る所でさまざまの「愛」が語られ、愛によって育てられ、人を生かしあるいは支え、あるいは滅ぼしてきたと言えよう。
そうしたこの世の愛と根本的に異なる愛があるのをこの軍人は知らされていく。
たしかにこの世にかつて現れたことのない太陽が現れたと言えるほどであった。
確実に、また豊かに、真の幸いは神の愛から流れ出る。それゆえにもし神の愛を知らなかったら本当の幸いを知らないで死んでいくことになる。 人々がキリストに結びついて、主にあって愛し合うときには死を越えてそれは続いていく。裏切りも変質もない。信じる人たちはキリストのからだと言われているように、キリストによってまとめられて永遠の存在となる。
このことは、キリスト者同士が、主にあって、聖霊の実としての愛を互いに持っているときには、年齢や性別、能力、主人と奴隷といった身分の差、あるいは異国の人などに関わりなく、だれにおいても成り立つことである。
キリストの愛(神の愛)だけが、心変わりも、老衰もない。 信仰と希望と愛はいつまでも残るという 聖書の言葉が思いだされる。


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