主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆きの日々は終わる。

(イザヤ書六十の二〇より)


 応答がある世界

人間は応答を求める。動物のなかには単独で生活するネコ科のトラやヒョウなど、またクマなどいろいろいるが、群れで生活するシマウマやライオンなどもまた多い。
しかし、人間は社会的動物と言われるように、単独で生きることはできない。神のかたちに創造されたとある。神は愛であるゆえに、愛は人間同士関わりの中で存在するように、人間は本質的に愛による応答を無意識的にせよ求めている存在である。
この世界そのものがそのように応答する存在として造られている。これは神の創造されたままの自然についても言える。
例えば、青い空が広がっている。それを心を注いで、愛を注いで見つめるとき、その青空が私たちを見つめているのを感じるようになる。風を受けても何も心を注がないときにはただ強い風とか寒い風というようなものでしかない。しかし、その風も神からの何らかの愛にかかわるメッセージを含むのだと信じて受けるときには、たしかにそのような心にはある種の神の国からのメッセージが発せられているのが分かってくる。
私たちの方で、何らかの愛をもって見つめるときには、その対象もまた、何らかの愛をもって私たちに応答してくるのである。 これは万物を愛なる神が創造したこと、さらに新約聖書には、「すべてのものは、ことば(ロゴス)によって創造された。創造されたもののうち、ことば(*)によらないでできたものは一つもなかった。」と記されているようにキリストの愛によっても創造されているからだ。

(*)ここで「ことば」とは、新約聖書の原語のギリシャ語でロゴスであり、この地上に約二千年前に生まれる前のキリストを表す。このロゴスという語は「理性」「言葉」などを意味するが、古代ギリシャの哲学者によって、ロゴスはこの宇宙の根源的な理性的存在を意味するとされていたこと、それに加えて、旧約聖書での神の言葉によって万物が創造されたという特別な重要性を兼ね備えた言葉として、キリストがまさにその双方の完全な成就した存在だとされて、このロゴスというギリシャ語がキリストを表すものとして用いられている。

求めよ、そうすれば与えられる、という有名な言葉も実はこのような相互の関係をも含むのである。私たちが周囲の自然に対して心を開き、語りかけ、そこからの応答を求めていくときには、相手の自然からも応答が与えられる。
天地に広がる大空や雲、星、樹木、草花、あるいは山々や谷川等々の自然は、神の直接の被造物であり、そこにはいかなる人間的意志も混入していない。それらは人間が存在するまえから存在しているものだからである。
それだけに、私たちはそうした自然によって、神のお心、ご意志の一端を知ることができる。
こうした自然の中に深い応答を実感した心の世界は、旧約聖書の詩篇で見ることができる。はるか数千年も昔からそのような深い感性があったのに驚かされる。

…主よ、あなたの慈しみは天にあり、
あなたの真実は雲にまで達している。(*)
あなたの正義は連なる山々のようであり、
また裁きは深い淵のようだ。(**)
神よ、あなたの慈しみはいかに貴重なことか。
人は、あなたの翼のかげを隠れ場とする。
人々は、あなたの家の豊かさに満たされ、
あなたの喜びの流れから飲む。
あなたの光によって、私たちは光を見る。(詩篇三六の六〜十より)

(*)新共同訳では、「あなたの真実は大空に満ちている」であるが、原文は 「雲」を意味する語が用いられているので、多くの英訳も …your faithfulness to the clouds.と訳されている。一部の英訳は新共同訳のように …your faithfulness to the skies.(NIV)と訳している。なお、口語訳、新改訳も「…雲にまで及ぶ」。

(**)「裁き」と訳された ミシュパト は、口語訳聖書では、裁きという訳語の他に「正義、公正、公義、公平」など多様な訳語が用いられていて、日本語のような単純な意味ではない。

私たちはこの詩の作者が、愛をもって青くひろがる大空や真っ白い雲を見つめ、心を注ぎだすときには、それらの青空や雲などから神の慈しみや真実が応答して帰ってくるのを体験していたのを知ることができる。そして、近くに、また遠くに連なる山々はただじっとしているのでなく、神の正義の揺るがぬ本性を私たちに語りかけているのであり、またその正義による裁きは深い淵のごとし、と表現し、海の無限の深い姿が象徴しているように、計り知れない深さをたたえていることを意味している。
こうした自然の応答の世界は、当然人間世界にも広がっている。
十二弟子を最初に主イエスが派遣されたとき、次のように言われた。

…町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。
その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。
家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。 (マタイ十の十一〜十三)

平和(平安)を相手に祈っても受けいれないような場合、その平安は祈った人に帰ってくるという。私たちが真実なよき心でなしたことは、相手になしたことであるとともに神になすことである。それゆえに人間が応答しない場合には、神ご自身が応答して、その平安を私たちにかえして下さる。
祈りも同様である。私たちがだれかのために祈るとき、相手から具体的な応答があるわけではない。しかし、この場合にも神がその祈りに答えて下さって、祈る人の心に平安や力を与えてくださる。そしてそうした人知れずに祈る心にはいつか、ふとしたときに具体的な何かが生じて、たしかに祈りが聞かれていると分る場合もある。
有名なぶどうの木のたとえも、こうした応答のあるつながりを言われたものである。

…わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。
枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。(ヨハネ十五の四)

まず私たちが今も生きてはたらいておられるキリストにつながっていよう(キリストのうちに留まろう)とするならば、それに応えて、主イエスもまた私たちの内に留まって下さるというのである。そしてその内に留まって下さるキリストがよきものを生み出して下さる。
神は愛であり、キリストも愛であるゆえに、このようなことが実際に行われる。愛とは絶えざる応答の世界であるからである。


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