たとえ山々は揺れ動くとも―詩篇46篇

聖書全体のなかでも、とくに神の守りに対する不動の確信というべきものを豊かにたたえているのがこの詩である。それゆえ、この詩は 「聖なる信頼の歌」(THE SONG OF HOLY CONFIDENCE)と言われる。
また、宗教改革という歴史的なはたらきをすることになったマルチン・ルターがこの詩に深い共感を与えられ、この詩の内容に合わせて歌詞をつくり、作曲した。それは、日本の讃美歌にも取り入れられ、長く愛唱されてきた。
その意味でこの詩は、世界的なはたらきを五百年以上も続けてきたということができる。
信頼にもいろいろある。日本においては、信頼といえば、多くは人間に対してであり、あるいはお金や組織(会社)などへのものであるが、それらはみないざというときにはあえなく崩れ去るようなものでしかない。
いかなることがあろうとも、壊れることのない神への信頼こそ、聖なる信頼ということができる。
私たちは何によって確固たる精神を抱くことができるのだろうか。社会的な状況は絶えず移り変わる。それに大きく影響されるのが、人間である。周囲の人たちがこう言えば、自分もまたそれに流される。状況が変わって、別のことを言い出すとすぐにそれに従っていく。戦前の日本の天皇や戦争や平和に関する考え方など、太平洋戦争の前と後では決定的に変わった。太平洋戦争の戦争中では、中国などへの侵略戦争をも、こともあろうに聖戦だと言っていた。
このように激変する人間の考え、それは現代もまったく同じである。周囲が軍備を持つべきだ、といえば、平和憲法の重要性を深く知ってきたはずの日本人が簡単にその波に押されて、やはり正式の軍隊を持つべきだ、と言いだす。
平和な時代、戦争の時代、また経済成長の大きかった時代、そして不況の時代等々、人間の考えは次々と変わっていく。
人間そのものも老齢化して、考え方は大きく変化していく。
そうした一切のことが起ころうとも変ることがない確信、不滅の確信というものは、人々の中に見出すことは困難である。
その中で、この詩は、揺れ動く世界のなか、また闇に迷う無数の人たちの上に星のように輝いている。

…神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。
苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。
わたしたちは決して恐れない
地が姿を変え
山々が揺らいで海の中に移るとも
海の水が騒ぎ、沸き返り
その高ぶるさまに山々が震えるとも。(詩編46の1〜4)

避けどころ(隠れ家)を持つ人たち、それは何と幸いなことだろう。魂の隠れ家を持たないとき、私たちは、病気などの苦しみの時、他者から非難、攻撃され、あるいは中傷されたときには魂が大きく傷つきあるいは、壊れてしまう。そしてひどい場合には生きていけなくなる。
そのようなときに、隠れ家を持つ人は、そこで安らぐことができる。傷口をいやすことができる。壊れかかった心を修復していただき、ふたたびフレッシュないのちの息づく魂へと変えていただける。
その隠れ家を持つということ、それはどこから来るか。それは天地創造の神から来る。それゆえにこの詩の作者は、天地創造のことをここで述べているのである。天地創造をした神であるのならば、天地にいかなる動揺や破壊が生じようとも、そこから修復することが可能になるのは当然のことになる。
無から有を創造した神は、当然、壊れたものをも修復できるからである。
たとい山々が揺れ動き、深い淵からあふれ出ようとするときでも―これは天地の大いなる動揺、災害、などを含んでいる― 動かされることがない、それは人からでなく、神から来る力であり、確信である。
私たちも何か困難に直面したとき、天地創造をされた神を思い起こす。そのとき、私たちの眼前にある難しい問題とみえるものも、おのずから、溶けていくようにその問題が消えていく。
天地創造をすることのできない神々、そういうものにすがっていたら、目的地へは行くことはできない。

…大河とその流れは、神の都に喜びを与える(*)
いと高き神のいます聖所に。
神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。
夜明けとともに、神は助けを与える。
全ての民は騒ぎ、国々は揺らぐ
神が御声を出されると、地は溶け去る。
万軍の主は、わたしたちと共にいます。
ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。(5〜8節)

(*)大河 と訳された原語(ヘブル語)は、ナーハールで、一般の川を指すとともに、ユーフラテスのような大河をも指すことがある。日本語訳も口語訳、新改訳、関根正雄訳などすべて、「川」と訳している。新共同訳で大河と訳されているのは、豊かな川の流れを強調するためであろう。

上にあげたこの詩の二つ目の段落においては、直前の節にある、全世界の激しい動揺や混乱(山々が揺らぎ、海の中に移る、地が姿を変える、海の水が騒ぎわきかえる…) とまったく異なる状況が記されている。
大河とその流れが、神の都をうるおすという。神の都とはエルサレムである。死海付近からバスなどでエルサレムに向かった人は、だれでも、木一本も生えていない死海のほとりの砂漠的状態の地から、エルサレムに向かう登り道にも、ずっと草木が見当たらない砂漠的状態に驚いてしまう。しかも、そのような山を上って標高800mの山の頂上部に、エルサレムという都会があるのだから、普通の国の首都という概念にはまるで合わない。
そのような山の上の町であるから、大河など流れているはずはない。 にもかかわらず、エルサレムに川の流れがあり、それが喜びを与えると記されている。ここにこの作者が受けた啓示がある。いかに渇いているところであっても、神がそこにいますゆえに、川が豊かに流れるということである。
このことは、ほかの旧約聖書の箇所においても印象的な記述がある。

… 彼はわたしを神殿の入り口に連れ戻した。すると見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方へ流れていた。…見よ、水は南壁から流れていた。 川岸には、こちら側にもあちら側にも、非常に多くの木が生えていた。…
川が流れて行く所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。この水が流れる所では、水がきれいになるからである。この川が流れる所では、すべてのものが生き返る 。(エゼキエル書47の1〜9より)

ここにも、エルサレムの神殿からあふれ出て流れていく川が示されている。これは預言者エゼキエルが遠く捕虜となって連れて行かれたバビロンの地で啓示されたときの内容である。
ここにも、その水は神殿からわきあふれる、とある。神殿とは神がおられるところ、神が現れるところであったから、その水は神からあふれてくるのだという意味がこめられている。
現実には、この世には、さまざまの混乱や問題がいつも生じているし、ときにはたいへんな災害も戦争も起きる。 この詩では、天地の大異変のような出来事があろうとも、神のおられるところからは、命を支える水があふれ出てくる。これは、人間にはできないことで、神がそのようになされる。
現代の私たちにおいても、この世はいたるところでさまざまの困難な問題で紛糾している。自分が事故や病気になって、重い症状のときには、心も混乱してしまう。そして助けも与えられないときには、神はいないのではないか、という深刻な疑問も心の中に生じてくる。これは旧約聖書のヨブ記に長い内容をもって記されている。
そのような時であっても、私たちがあくまで神にすがり、主を仰ぎ続けるときには、時至れば私たちの魂の奥からいのちの水がしずかに流れてくる。そして揺らぐことのない心へと変えられる。
魂の夜明けが必ずある。
水の流れ、これは聖書の記されたイスラエル地方は、雨量が少なく、川もヨルダン川以外は、一年をとおして流れている川などほとんどない。それゆえに、水の流れを待ち望むのは日本人の比ではない。日本では、どこに行っても水は豊かに流れているからである。
水の流れは、聖書には、その最初から特別な重要性をもって現れる。最初の地上世界の状況は、創世記2章によれば、神が雨を降らせなかったゆえに、草木も生えていない砂漠的状況であった。しかし、そこには、水が地下から湧き出て、大地をすべてうるおしていた。
さらに、エデンという場所からは、一つの川が流れ出て、そこに造られた 世界で最初の果樹園とも言えるエデンの園をうるおしていた。
さらに、そこから、全世界へと流れ出て、うるおしていたという記述がある。(創世記2の6〜14)
この詩編四十六篇にある、「川とその流れは、神の都に喜びを与える」という記述は、こうした創世記の記述と深いところでつながっている。
このような、神ご自身からあふれ出る川の流れ、あふれる水を持っているものこそ、この世のあらゆる動揺や混乱、不安から解放され、揺らぐことなき状態へと変えられると言おうとしている。
キリスト以降の時代に生きる私たちにとって、このような魂の世界に流れる川とは、すなわちキリストであり、聖霊にほかならない。

…祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。
「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。
わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネ7の37〜38)

私たちが、この世の闇の力や混乱から助け出され、真に救われているということは、魂の奥から流れ出るいのちの水があることによってわかる。しかも、その助けは「夜明けとともに」与えられる。
川が流れる、それは人間の心の世界だけでない。周囲の自然もまたその内には「川」が流れている。身近な草木にも、連なる山なみにも、青い空や海など、みなそれらの内にもある種の川が流れている。それはそうした自然は神によって、神の愛によって創造されているからであり、そこには神の愛が刻まれていると言えよう。
私たちがそのことを信じて見つめるとき、それらの自然の中に、たしかに見えざる川の流れがある。星の光にもいのちの流れがあり、青く澄んだ大空や雲にも、そこから流れ出ているものを感じる。

…すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ
神が御声を出されると、地は溶け去る。(7節)

現実のこの世界の状況、それは混乱と動揺に満ちている。そして、いかに力あるものに見えても、神の声によって、それらは溶けていくように力を失い、あるいは崩れていく。
神の一声、それはいかに絶大な力を持つことであろう!
いかなる暗黒、混沌であっても、「光あれ」のひと言によってすべてを変えられるお方なのである。
現代の私たちにおいても、真に神からの語りかけのひと言を受けるときには、心の内なる混沌や闇はたしかに消えていく。

…万軍の主は私たちとともにいます。
ヤコブの神は私たちの砦の塔。(8節)

万軍の主とは、わかりにくい表現である。 この万軍と訳された原語(ヘブル語)は、「万象」ばんしょう(宇宙のすべて―詩篇33の6)とか、天使たちや星々を意味する場合もある。万軍の主というときは、もともとは、イスラエルの軍隊を導く主、という意味であったが、のちには、そのような狭い意味から、宇宙万物を創造され、支配されている主、という意味へと広がっていった。(*)

(*)現代の英訳聖書の代表的なものの一つは、ギリシャ語訳旧約聖書と同様に、次のように、万能の主と訳している。The LORD Almighty is with us.(NIV)

それゆえに、この詩篇46篇の8節においては、「万能の主は、私たちとともにおられる」という意味で言われている。万能の神であり、正義と愛の神であるゆえに、悪と戦い、打ち破る神でもある。ヤコブの神とは、イスラエルの神と同じ意味であり、イスラエルの人々が信じ、導かれてきた神こそは、敵対する者が近づけば、撃退し、私たちを守って下さる砦だ、という実感がここにある。

… 来て、主のみわざを見よ、主は驚くべきことを地に行われた。
主は地のはてまでも戦いをやめさせ、弓を折り、やりを断ち、戦車を火で焼かれる。
「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々にあがめられ、全地にあがめられる」。
万軍の主はわれらと共におられる、ヤコブの神はわれらの避け所である。(詩篇46の9〜12)

この世の大いなる混乱のただなかにおいて、この詩の作者は、神のいますところに、目には見えない霊的な水の流れを実感した。そこから、作者は、歴史の流れのなかに働く驚くべき神の力を啓示された。それは、真理にさからって動く人々の群れはみな滅んでいくということである。もはや戦うこともできないように、弓、槍などの戦争の武器も破壊される。そうして、武力が力なのでなく、宇宙や世界を創造された神こそが、本当の力あるお方、万能のお方なのだと分る。
ここに引用した「主は地のはてまでも戦いをやめさせ、弓を折り、やりを断ち、戦車を火で焼かれる。」(10節)
これは、神が諸国の武力を徹底的に破壊してもはや神のご意志に逆らって戦いをできないようにさばきを行われるという意味で言われている。
こうした神のご意志は、預言者イザヤの書にも現れている。

…主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし
槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず
もはや戦うことを学ばない。(イザヤ書2の4)

そして、そこから、世界の歴史においても、その戦争はみな神のご意志にさからって行われてきたものであるから、最終的には、神のさばきのときには、このように武力を破壊され、永遠の平和を造り出される。
それは教育や平和会議とか軍縮の会議によってではなく―それらをいかに積み重ねても今日に至ってもなお、戦争はなくなろうとはしない―神の万能の力によってのみ達成される。そしてそれは、最終的にはキリストの再臨によってなのである。
たしかに、万物を創造したゆえに、新しく創造することもできる神の力の臨むとき、それがキリストの再臨のときであり、そのような時でなければ永遠の平和というのはいつまでも来ることがないであろう。
現実の生活のなかで、天地異変というべき大いなる出来事が起ころうとも、永遠の岩である神に頼るならば、決して動揺しない。そのような強固な確信を持ちつつ歩んでいく。そしてその確信のなかにあって、魂にはいのちの水が流れている。魂の力と、うるおいを同時に与えられているこの作者の内面の世界こそは、現代の揺れ動く確信なき世界への適切なメッセージとなっているのである。


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