リストボタン詩篇46篇に基づく讃美歌について

宗教改革という歴史的に大きな出来事につながったルターの歩みとその戦いは、詩篇46篇にみられる神への不動の信仰によって支えられ、励まされたのがうかがえる。詩篇46篇を神からの霊感によって作った作者の信仰は、ルターにもそのまま伝わり、世界の歴史に大きな影響を与えることにもつながった。
聖書の詩は、単なる故人の感情とか一時の感慨を記したものでなく、それが神の言葉とされて聖書に収められていることからうかがえるように、背後に神の手が働いていた。
ルターが詩篇46篇をもとにして、自らの作曲したメロディーに合わせて作詞したのが、「讃美歌」二六七番であり、「讃美歌21」の三七七番である。
讃美歌の歌詞は次のとおりであるが、この歌詞には初めて歌う人、あるいはそうでなくとも、以前から歌っているという人でも、はっきりとその意味を知ったうえで歌っているとは言えない人たちも多いと思われる。

1、神はわがやぐら わが強き盾
苦しめる時の 近き助けぞ
おのが力 おのが知恵を
頼みとせる
陰府の長も など恐るべき

・神のことを 「やぐら」と言っているが、一般の人には、やぐら といっても、火の見やぐら、やぐら太鼓、やぐらこたつ、といったものしか連想できないだろう。だから、神はわが やぐら、といっても 神の力強さというのはまるで浮かんでこない。 また、後半の、
「おのが力、おのが知恵を …」と続く歌詞も、一般の人にとってはとてもわかりにくいもので、現代では、「おのが力」とか、「陰府の長」、「など…べき」などといっても理解しづらい人が多数であろうし、そもそも「陰府の長」と言われてもそれが何なのか、すぐに分る人などほとんどいないはずである。それゆえ、この一連の歌詞も、意味が分からないままで歌うということになりかねない。
私の手もとに、一九三一年発行の「讃美歌」があるが、それとまったく同じである。今から八〇年以上前の言葉であるからわかりにくいのも当然である。
これを、新しくできた讃美歌21の歌詞と比べてみよう。

(讃美歌21)1、神はわが砦 わが強き盾、
すべての悩みを 解き放ちたもう。
悪しきものおごりたち、
よこしまな企てもて 戦を挑む。

指摘したような、不可解な言葉、わかりにくい言葉はほぼだれでも分る言葉に変えられている。

2、いかに強くとも いかでか頼まん
やがては朽つべき 人の力を
われと共に 戦い給う 
イエス君こそ
万軍の主なる 天つ大神

・ここでも、「いかでか頼まん」といった表現、あるいは、「天つ大神(おおかみ)」という名前は、現代では一般的にはほとんど使われない言葉である。
また、大神というのは、大御神(おおみかみ)を簡略化した用語である。そして、戦前は、大御神とは、天照大神(あまてらすおおかみ、あまてらすおおみかみ とも読む)を連想させる言葉であったし、現在でも、年配の人はそうではないかと思われる。そして、天照大神とは、天皇の祖先の神だと戦前では特に強調され、教えられていた。
そして、大御〜 という表現は、天皇に関係するときに使われる。例えば、大御心(おおみこころ)といえば、「天皇の心」であり、大御言(おおみことば)といえば、「天皇のことば。みことのり。」を意味する。(広辞苑)
このような、天皇や神道的ニュアンスを持った独特の用語を使うよりも、そんな連想のない、現代のだれにもわかる言葉を神への賛美として使うのがより望ましいことである。
讃美歌21ではこの二節の歌詞は、これらの問題ある歌詞は除かれ、次のように変えられ、この歌詞が、従来の「讃美歌」の歌詞よりもいろいろな意味でよくなっているのがわかる。

(讃美歌21)2、打ち勝つ力は われらには無し。
力ある人を 神は立てたもう。
その人は主キリスト、万軍の君、
われと共に たたかう主なり。

次に三節に移る。
3、悪魔 世に満ちて よしおどすとも
かみの真理こそ わが内にあれ
陰府の長よ 吠えたけりて
迫り来とも

・ここでも、「よしおどすとも」という表現は、たいていの若い世代の人には不可解であろう。また、すでに述べた、「陰府の長」というのが大抵の人にとっては不可解であるうえに、それが 吠えたけって迫る、などと言われても、誇張したような表現とか意味不明の表現だということになる可能性が大きい。これも讃美歌21では、だれもがわかる表現へと変えられている。

(讃美歌21)3、悪魔世に満ちて 攻め囲むとも
われらは恐れじ 守りは固し
世の力さわぎ立ち 迫るとも
主の言葉は 悪に打ち勝つ

最後の節は、全体の内容を締めくくるものとなるが、これも従来の讃美歌では、一般の人にはわかりにくいものとなっている。

4 暗きの力の よし防ぐとも
主の御言葉こそ 進みに進め
わが命も わが宝も 取らば取りね
神の国は なおわれにあり

「よし防ぐ」とか、「取らば取りね」といった表現も、わかりにくい。
これも、讃美歌21では、わかりやすく、かつ締めくくりとしてふさわしい歌詞に変えられている。

(讃美歌21)4、力と恵みを われに賜わる
主の言葉こそは 進みに進まん。
わが命 わがすべて 取らば取れ。
神の国は なおわれにあれ。

讃美歌の歌詞は、ひと言ひと言が重要な意味を持つゆえに、メロディーとの関連があるので、変えることが難しいのも多いが、いろいろと努力されているのがうかがえる。
なお、「わが命 わがすべて 取らば取れ」の部分は、一九三一年版の讃美歌では、「わが生命も わが妻子も とらばとりね」となっていた。 それが、一九五五年版では「わが命も わがたからも…」となり、さらに讃美歌21では、「わが命 わがすべて 取らば取れ」となった。この移り変わりも、よりよい歌詞、わかりやすい歌詞にしようとの努力がうかがえる。
「わが妻子」と言っても、未婚の人や病気などでなくした人もいるので、一般的でないから、戦後の版では、「わが宝」となって一般的な表現に変えられ、さらに讃美歌21では、「わがすべて」とさらにわかりやすい表現へと変えられた。
以上のように、戦後まもなく改訂がはじめられ、一九五五年に発行された従来の「讃美歌」は、その表現、用語、そしてその選曲が圧倒的に欧米にかたより、さらに一八〇〇年代のものが当然のことながら、多数を占めていることからも、その改訂が求められてきたのは当然のことであった。
そうした検討を経て、讃美歌21が一九九七年に発行された。これについては、昔から歌い慣れてきた従来の讃美歌が歌いやすく心にしみ込んでいるということや、愛唱されてきた賛美がなくなったとか、曲と歌詞がうまくあっていないように思われるのもあり、また曲をより原曲に近づけたために、歌いにくくなったのもあるなど、問題点もいろいろある。
しかし、戦前では当たり前であった天皇制用語、神道用語、さらに一般の人にはわかりにくいような文語的表現などをできるだけ避けて、よりわかりやすい言葉にしたこと、欧米だけでなく、広く世界のすぐれた賛美を収録してグローバル化した現代にふさわしいものとしたという点などはすぐれた改革点だと言える。
昔からの讃美歌には、文語的な力強い表現、含蓄ある歌詞も捨てがたいものがあるし、それらを保存して歌っていくという別の重要性もある。
しかし、文語訳聖書から口語訳に移ったとき、文語訳の優秀性のゆえに、口語訳への移行を望まなかった人も多かったが、次第に口語訳へと移行し、現代では文語訳を礼拝に用いているという教会は特殊な例を除いては存在しなくなった。
文語的な、格調高い表現にこだわっていたり、伝統や習慣を重んじていたら、万民への福音伝達という、より大いなる次元のことがおろそかになることがある。
中世の長い期間、ラテン語訳の聖書が神の言葉とされ、英語などに訳すること自体を異端とされたりしたほどであった。ルターと同じ時代のイギリスのティンダルは、英訳聖書をさまざまの苦難をへて完成したが、捕らえられ、処刑されてしまったほどである。しかし、彼の訳した英訳聖書がのちの欽定訳聖書(King James Version)となって、世界で最も広く読まれる聖書となった。
讃美歌においても、文語の歌詞が、江戸時代の終わり頃からキリスト教が入ってきて以来、長く当然であった。従来の「讃美歌」には、口語の讃美歌は一つも含まれていない。聖書もほとんどすべての教派において、万人にわかりやすい口語となっている状況にあって、賛美は神の言葉をもとにしているべきであるから、当然、賛美も口語でするのが本来のあり方となってくる。
実際、讃美歌21でも全面的に口語での賛美に変えようというのがはじめの方針であったが、全面的に口語にすることの困難さと、従来の歌詞への愛着の強さのために、断念し、部分的に文語のものも入れるようになったのであった。
また、讃美歌第2編には、「みことばをください」という口語の讃美歌が入っている。これが作られて二年後にこの第2編の讃美歌が作られたこともあって、このような口語の賛美を入れること自体に讃美歌を検討する委員会では反対が多かったという。しかし、実際に讃美歌第2編に含まれると、この歌は全国的に歓迎され、愛唱されるようになった。
こうした神の言葉や賛美ということの本来の意味を考えていくとき、だれにでもわかるということは不可欠のことであって、従来の「讃美歌」のように、全部わかりにくい文語、現在使っていない言葉で賛美をする、ということ自体、万人への福音という精神には合わないということになる。
なお、友よ歌おう、リビングプレイズ、プレイズ&ワーシップ、あるいは、現在の日本の賛美集のうちで、最もグローバルな賛美集である、「つかわしてくださいー世界のさんび」(*)というのもすべて口語である。カトリックの典礼聖歌集は二〇年ほど前に出版されたものであるが(約280頁)、それもほとんどすべてが口語の歌詞での賛美となっている。

(*)「つかわしてくださいー世界のさんび」という、賛美集としては異例の名前であるが、これは、世界教会協議会やその他の教派を超えた集会で用いられてきた賛美集から選ばれて作成された、70を越える国々の294曲の賛美集であったが、日本語版は、そこから35曲を選んで作られた。(日本キリスト教団出版局発行)自分の安心や救いの喜びを歌うだけでなく、救われた人は、それぞれがふさわしい場へとつかわされていき、証しをし福音を伝えていくという精神をこの賛美集のタイトルにしている。キリスト者とされたときから、自分の救いに安住していることなく、新たな場へと遣わそうとする神のご意志があるからである。

詩篇46篇をもとに、ルターが作詞・作曲した讃美歌(*)は広く歌われるようになった。

(*)そのドイツ語歌詞の最初の部分は次のようなものである。
Ein feste Burg ist unser Gott, ein gute Wehr und Waffen.
(アイン フェステ ブルク イスト ウンザー ゴット、 アイン グーテ ヴェール ウント ヴァッフェン)
(私たちの神は堅き砦、よき守り、そして武器である。)
Er hilft uns frei aus aller Not, die uns jetzt hat betroffen.
(エア ヒルフト ウンス フライ アウス アラー ノート、ディ ウンス イェッツト ハット ベトロッフェン)
(神は、今も我々に降りかかるあらゆる苦難から私たちを助けて自由にして下さる。)

このルターの讃美歌は、のちにバッハのカンタータ(*)にもルターの讃美歌と同じ名前で取り入れられたので、より広く知られるようになった。(BWV80番)

(*)ラテン語のカンターレ(cantare)「歌う」に由来する言葉で、独唱・重唱・合唱と管弦楽からなる声楽曲を言う。バッハの教会カンタータが有名。  

この詩篇46篇をもとにした讃美歌として、ほかに愛唱されてきたのは、讃美歌286番(新聖歌297番)である。

1、神はわが力 わが高きやぐら 苦しめる時の 近き助けなり
2、たとい地は変わり 山は海原の中に移るとも われいかで恐れん
3、神の都には 静かに流るる
きよき河ありて み民を潤す
4、御言葉の水は 
疲れを癒して 新たなる命 
与えて尽きせじ

以上のように、詩篇46篇はその内容が、とくに神への堅き信頼に貫かれているゆえに、宗教改革者ルターの信仰を励ますものとなり、そこから広く愛唱される讃美歌が生まれ、側面から助ける役割をも果たしたのである。
詩篇の内容は、それ自体一つの泉となりそこからあふれ出てさまざまの国々へと流れ込み、そこで聖なる霊の風を送り、あるいはいのちの水となって多くの人たちの魂をうるおし、力を与えてきたのである。


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