リストボタン編集だより

来信より
○大阪の全国集会に参加した方の感想より
…本当に困っている人、死にたいと思っている人にとっては沖縄問題も貧困問題も関係なく、その人を救えるのは身代りとなって下さったイエス様以外にいないと思います。
あの全国集会ではキリスト教を知らない人にはイエス様は伝わらないでしょう。
伝道というより、信徒の交わりという意味が大きいと思いますが、でもキリスト教の集会でありながら、あまりにも福音が少ないです。キリスト教は「神様が私達の為に何をしてくださったのか?」を伝える事が伝道であり、それを賛美することが信仰だと思います。主人公は神です。
「私たち救われた者が社会問題に対してどう関わって行くか?」がキリスト教ではありません、これでは主人公は人間になります。
私達、神の民として神様を礼拝し、キリストの御国を述べ伝えるという大切な使命を与えられていますが、でも、私達はこの世の政治や経済でも神様の祝福が現実に具体的に現れてくるよう祈っていく事、そしてその為に奉仕していく事の責任も与えられています。
私達も神様任せでなく、キリストの僕としてこの世の中で奉仕していく、仕えて行く、大切な使命が与えられています。
でも、やっぱり、あの全国集会は福音が少ない。一人一人はとても素晴らしいお話でしたが、イエス・キリストが伝わる事が少なかったと思います。
(関西の方)

大阪での無教会全国集会に参加して、多くの方々との出会い、また、いろいろな方々の発題から学ぶことも多かったのです。
その運営のためになされた多大の御愛労に感謝しています。
しかし、そこでは残念なことにここにあげた方も指摘しているように、あまりにも社会問題に偏重した内容であり、福音が告げられることが少なかったと感じました。
冒頭の主題講演、それは「I have a dream. イユコンチョーラニ 基地コンチョーラニ」というような福音とは関係のないしかも英語や沖縄の方言が主題として掲げられていました。 人はまずそのタイトルを見て、それに参加しようかどうかを決めることも多いのです。
このようなタイトルでは、いま苦しみに打ち倒されようとしている人、この世の闇にあって苦闘している人が、参加しようという気持ちを起こさせるでしょうか。
そして内容は今回の大阪大会が、「福音に生かされて」という主題であったにもかかわらず、沖縄問題ばかりであって、まったくといってよいほど福音が語られなかったのでした。
また、7名による発題は、平和への実践、裁判員裁判、貧困問題、日韓問題、集会の高齢化、若い世代に福音を伝える、無教会の問題等々。 それにしたがって分科会での話し合いがなされました。
そして1日目の夜には、2時間を費やして沖縄問題が語られました。
これを見てもわかりますが、社会問題研究会といった様相を呈していたわけです。
福音そのもの、膨大な内容を含む聖書からの力あるメッセージそのものが語られず、大部分が○○についての問題というものであったのです。
○○問題というのをいくら議論しても研究しても魂の救いは与えられず、悪に立ち向かう霊的な力は出てこないのです。
救いは聖書の言葉、神の言葉を単純に信じることによって与えられ、さらに聖霊の注ぎによってその救いが確立されるからです。
「あなたがたが聖霊を受けたのは、あなたがたが律法を行ったからか、それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからなのか。」(ガラテヤ書3の5)とパウロが鋭く問いかけているのは、今日の私たちにも同様です。
救いは、そして聖霊は、研究や討議、議論からくるのか、それとも、福音を信じたからなのか、と。
社会問題は、私たちがいつもその現状について知っておかねばならいことです。
しかし、人間の魂の救いは、いかに社会問題を議論し、研究したところでまったくなされないのです。
いかに社会が混乱しようとも、闇であろうとも、あるいは経済的に豊かであろうとそうしたことに関わりなく、そこに魂の救いの光、その闇に打ち倒されない力を与えるのは、神への信仰、主イエスによる罪の赦しにより、神の愛を知ること以外にはないからです。
それは、個人においても、健康であると病気であるにかかわらず、その人の救いはあくまで、主イエスの復活の力と、十字架の救いによる他はないのと同様です。
すでに救われた者が、そこから各自が社会のそれぞれのところで、働く。そうした働きを証しし、経験を分かち合い、互いに学び、議論することは重要です。
しかし、こうしたキリスト教の集会は、全国の集会に呼びかけられているものであり、そこには苦しみにある人、まだ信仰の十分でない方、未信仰の人も含まれるわけです。 それゆえに、最重要なのは、まず福音を、自らが救われたその確信をもって伝えることであるはずです。
この日本であまりにも欠けているのは社会問題に関する議論や知識でなく、福音そのものなのですから。

まばたきの詩人コンサート

10月24日(日)午後二時から、徳島聖書キリスト集会場において、水野源三の詩にたくさんの曲を作曲された阪井和夫さんと、浜田 盟子さんによるまばたきの詩人コンサートが行われました。
水野源三は、幼いときから、病気のために全身が動かなくなったうえに、言葉も発することができず苦しみと絶望にあったときキリストを知らされ、まったくその生活が変えられて、まばたきで合図をして、母親がそれを書き取るというかたちで、たくさんの詩を作った人です。
神は、そうした特別な苦難を通し、そこから流れるように清い詩を作らせたのだとわかります。
阪井和夫さんは全盲ではりの仕事をしながら、浜田さん、ときには他の歌手などと共に全国のさまざまの地でこのようなコンサートをされています。
徳島での私たちの集会の主催のコンサートとしてはこれで三度目です。前回は、一九九三年でしたから、一七年ぶりのことでした。
以前のコンサートは、キリスト教センターという超教派の会館(賀川豊彦を導いたローガン記念館としてたてられたもの)で行われましたが、今回は、徳島聖書キリスト集会場での開催でした。
私たちの集会場は、三月に福音歌手の森祐理さんが来て証しをされ、賛美も歌って下さいましたが、和室で小さなイスですきまもあまり取れないような状態でぎっしり集まったというので、森祐理さんも驚かれていました。
今回も、同様でおよそ七〇人近い人が集まったので、部屋一杯となりましたが、広い公共の会場でなく、狭い和室であったので、いっそうその歌や演奏が生のかたちで伝わり、心に響いてきたと感じました。
水野源三のことはキリスト者には広く知られていますが、今回は初めてその人のことを知ったという方も参加され、集会場付近に配布した数百枚の案内のチラシを見た女性が、その母親を伴って参加されたという例もありました。
また長い間、集会に参加したことのなかった方々も何人か加わり、中には今回、14年ぶりに集会場に参加してとてもよかったと言われた人もあり、こうした特別集会には多くの人の祈りが重ねられることもあって、主が特別に祝福を与えてくださることも感じたことです。
私も水野源三のことはその詩集は第一詩集からすべて持っていたし、その他の関連した書物も目を通していて、よく知っていましたが、今回のコンサートによってその詩が適切なメロディーと歌によってよりいっそう立体的に迫ってくるものを感じました。
そしてその身動きできないで何十年も過ごし、言葉も発することのできない水野源三が、今も実に雄弁に語り続けていることの不思議、そしてそれをなさしめておられる生ける主のはたらきにあらためて感謝したことでした。


音声ページトップへ戻る前へ戻るボタントップページへ戻るボタン次のページへ進むボタン。