リストボタン主は待っていて下さる―私たちも待ち望む

聖書においては、二種類の「待つ」ということが記されている。
(1)主が私たちを待ってくださっている。
(2)私たちが主を待ち望む。
 私たちが病気や困難のとき、「主を待ち望む」ということは、だれでもにあるし、今もそのような切実な心で待ち続けている方々も多い。苦しみにあえぐ時、「神様、助けてください。」と祈り、心の中で叫ぶ時、私たちは神を待っている。
それに対して、「主が待ってくださっている」ということを実感している人は少ないと言える。
しかし、神のお心を示した聖書においては、その最初のところから、神が待っていてくださるということが記されている。
聖書の最初の人間と神との関わりは、創世記2章から現れる。
神は最初に創造された人間(アダムとエバ)を食べるによく、見てもよいあらゆる良きものを備えた園に住まわせた。そして何でも自由にとって食べることができるが、ただ一つの木の実だけはたべてはいけないと言われた。
その神のいましめを守るのは容易なことだと思われる。水も食べ物もなく、飢えと渇きに苦しんでいる人ならば、近くにある水や食べ物を何としてでも食べよう、飲もうとするだろう。しかし、アダムとエバの置かれたエデンの園には、至るところによき木の実があり、水も豊かに流れていたのである。ただ一つの木の実を食べないですませることはなんでもない容易なことであったはずだ。
それにもかかわらず、エバは蛇の誘惑によって簡単に食べてはいけないという木の実を食べてしまい、夫のアダムにも勧め、彼もまたいとも簡単に神のいましめを破って食べてしまった。
そのようなアダムを見て、神はただちに厳しく叱責し、罰すると予想される。しかし、驚くことに、神はアダムに、いきなり叱りつけて厳しい罰を与える、というようなことはされなかった。
「どこにいるのか」
というのが、神の最初のひと言であった。
するとアダムは、自分が神の唯一のいましめを破った、大きな罪を犯したにもかかわらず、ごめんなさい、といった謝罪はひと言も口にしようとせず、「おそろしくなって隠れた」といった。
そのようなかたくなな心に対してもなお神は、次のように言われた。
「取って食べるなと命じた木の実から食べたのか。」
神は当然すべてを見抜いている万能の神であるから、アダムがどこにいるのかもちろん知っておられた。にもかかわらず繰り返しこのように問いかけたのである。そこには罪を犯したアダムが、立ち返って、自分の罪に気付き、神に赦しを乞うことを待とうとされる姿がある。
現代の一般の人々は、この神話のような記事とは何の関係もないと思っている人がおそらく圧倒的に多いであろう。
しかし、じつは現代の私たちもまさにこのような態度なのである。神のお心に背いたことをしていながら、自分がどこにいるのか、どれほど真理から遠いところにいるのかさえも考えようともしないで、逆に自分は正しいのだと言い張る心である。
神は人間の行うことに関してこのようにまず、問いかけておられる。どこにいるのか、人がともにいるべき神からどこまで離れてしまったのか、ということである。
このような神の問いかけは、さらに次の創世記の記事にもみられる。
アダムの子供たちは、カインとアベルであった。神はアベルの捧げ物には目を留めたが、カインのものを目を留めなかった。そのためにカインはアベルを妬み、なんとアベルの命を奪ってしまったというのである。
ずっと以前、初めてこの創世記を読んでいったとき、こんなにも簡単に兄弟の命を奪うようなことが聖書に記されているのを見て、なんというひどいことが書いてあるのか、と思った。そしてとても不可解であった。
しかし、実は、これが人間の世界の実態なのだと知らされていった。実際に殺すということはもちろんごく少数である。しかし、「憎むことは殺すことなのだ」(Tヨハネ3の15)という厳しい霊的な基準に照らしてみるとき、少しひどいことをされたり言われたりすると相手を憎むとか怒りが生じるだろう。それはすなわち相手の存在をいらないと思うことであり、そのような心の方向は殺すことに通じる。
 兄弟殺しという重い罪を犯したカインに対して、予想されるのは、ただちに厳しく罰せられるということである。しかしここでも全く意外なのは、神がまずカインに言った言葉は次のようであった。

…お前の弟アベルは、どこにいるのか。(創世記4の9)

ここでもアダムと同様、「どこにいるのか」という問いかけなのである。いうまでもなく神はすべてを見ておられたからアベルがどうなったのかは知り抜いていた。それでも、カインにこのように言われたのである。
まず神は罰するということをせずに、罪を犯した者が立ち返ってその罪を知り、神に赦しを乞い、神のもとに帰ってくることを願っておられたのを示している。
創世記には神話的な表現でありながら、そこに深い人間への洞察があり、神からの啓示が豊かに示されている。こうした記述がなされてから数千年経った現在においても、私たちに対して、犯した罪がただちに目に見えるかたちで罰せられるということはなく、やはり心の耳を澄ますならば、「あなたはどこにいるのか」と問いかけるみ声を聞くことができるであろう。
こうして神は、人間に対して今、どこにいるのか、すなわち神とともにいるのか、それとも背いて遠く離れているのかを問いかけるのである。
遠く離れていることを自覚し、それが大きな罪であることを知らされ、神から遠く離れてしまっていること、言い換えると滅びへと向かっているのに気付いたとき、人は初めて神に立ち返ろうとする。
神はそれを待っておられるのである。
このように、聖書は最初から、待ち続ける神という姿をアダムやカインたちに対する姿勢によって示している。
また、後になってイスラエルの人たちがエジプトで一つの民族となるほどにふえ広がってそれがエジプトによって苦しめられることになり、そこからモーセが神によって召しだされ、彼が人々を導き出す。
しかし、エジプトから神の約束の地(カナン―現在のパレスチナ)へは、五〇〇キロほどであり、1日に30キロほど移動するとすれば、20日もあったら到達する近距離である。だからこそ、イエスの誕生のとき、生まれたばかりのイエスをロバにのせて、ヨセフとマリアはエジプトまで逃げて行ったのであり、また帰る時がきたので、大した苦労もなく帰って来たことがうかがえる。
アブラハムやヤコブの子供たちもまた、飢饉のために食料がなくなったとき、エジプトまで行って、また帰って来ている記述があるように、短期間で往復できる距離だとわかる。
にもかかわらず、エジプトから脱出したイスラエルの人たちは、目的地のカナンに到着するまで何と40年もかかったと記されている。
この途方もない歳月、それはいったいどういう意味があったのか。そこには神はあえて遠回りさせることによって、困難な状況を経験させ、本当に神に従っていくことの重大性を悟らせるためであったと言えるだろう。そしてその長い歳月を神は人々が本当に神に聞き従うようになるように、待ち続けたということができる。
さらに後の時代になって、預言者が遣わされるようになった。しかし、神の言葉を受けた預言者たちであるのに、人々は耳を傾けようとせず、背き続け、ときには彼らを殺してしまうことさえあった。
主イエスはこうした状況を次のように言われた。

「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。
さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。
だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。
また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。
そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。(マタイ21の33〜37)

このたとえで主人は、ぶどう園を作り、搾り場や垣も作り、見張りの塔など必要なものをすべて備えて農夫たちに貸した。そして収穫のときだから僕たちを農夫たちのところに送ったのに彼らは収穫を差し出すどころか僕をひどいめに遭わせ、殺すことさえした。それでも主人は罰することもせずに別の僕たちをさらに送ったがまたおなじようにひどい目に遭わせた。それでもなお、主人は農夫たちを罰することなく、さらに最も大切な自分の息子を送った…。
このような主人は常識では考えられないほどの寛容さを持った人である。だが人間というのは、これほど与えられた恵みを深く受け取ることのできない存在なのである。アダムもせっかくあらゆるよいものを備えてもらっていたのに、与えられたことに感謝することなく、かえって神に背き、それを指摘されてもなお、罪を認めようとしなかった。
このイエスのたとえも似たところがある。あらゆる必要なものを備えてもらっていながら、感謝するどころか、主人に対して敵対していく。
人間とはこうした不可解な罪深い存在だと言おうとしているのがうかがえる。
そして、神はそのような罪深い人間であってもその人間を待ち続けている存在であるということも表されている。
神の忍耐、私たちの悔い改めを待ち続けるその忍耐は、途方もないほどのものである。
旧約聖書にさまざまの預言書がある。そこには神が遣わされた預言者の言葉が記されている。その預言者たちこそ、主イエスのたとえの神が遣わした僕にほかならない。
預言書を読むときには、こうした主イエスのたとえにある神の忍耐と、待ち続けておられる神の愛を感じ取る必要があるのだと知らされるのである。
また、そうした神の待ち続ける姿は、次のような箇所からも知ることができる。

… 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。
まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。(イザヤ書53章より)

罪なきにもかかわらず、一人、周囲の人々のあざけりや見下す言葉を受け、鞭打たれ、しかも黙って死に至るまで耐えていくこと、それは自らの命をかけて悪しき人の悔い改めを待ち続ける姿である。
人々の犯した罪を身代わりに受けて、その苦しみをも甘んじて受ける、何一つ反論もしないで担っていくこと、そこにはかつてだれも知らなかったほどの深い心、待ち続ける心がある。
人々が自分たちの誤りに気付いて立ち返ることを待つ。神の力が働いて彼らが自分たちの重い罪に気付いて立ち返ることを待つ神の心がある。
愛とは、待つ心である。祈る心もまた待ち続ける心である。

最大の使徒であったパウロにおいても、彼はキリストの真理に背を向けて、キリスト者を迫害する指導者であった。キリスト者を迫害し、殺すことまで考えてキリスト者たちをとらえてエルサレムに連行しようと国外にまで出かけて行った。
そのようなさなかに、突然上よりの光が臨んだ。まさに闇のなかに光が突然射してきたのである。キリストの真理に対しては全くわからず、闇にあったパウロであったが、そこに光あれ!とのご意志があるときには、たちまちその光が迫害のリーダーの心の奥深くに射し込んだ。
その時語りかけたのは、復活したキリストであった。そして次のように語りかけた。
…サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか。(使徒9の4)

ここでも、復活のキリストはいきなり叱責したり、罰するのでなく、問いかけたのであった。
そしてその問いかけによって、パウロは闇のなかにキリストの光を見出したのであった。

新約聖書においては、よりはっきりと待って下さっている神、あるいはキリストのことが記されている。
 主イエスは、疲れた者、弱った者に向かって「私のところに来なさい。(待っているのだよ)」と言われた。
ここでは愛のお方である生きたイエス様が私たちを待ってくださると言われている。
 人は行動の上でも、また心の中でも罪を犯すものである。
神は、そうした私たちを見捨てないで、私たちが罪を悔い改めて、神の許に立ち帰るのを待っていてくださる。(ルカ伝の放蕩息子のたとえ話。)人間はなかなか待てないが、この放蕩息子の父親(すべての人の父なる神さま)は、息子が帰ってくるのを愛と忍耐をもって待ち続けた。
十字架のイエス、それはまた私たちを待ち続けて下さっている主の愛をも意味している。次の賛美はそのことを歌ったものである。

イエスは罪に苦しむ 汝が身を
今呼ぶ
重き荷をば降ろして 安き得よや」と
イエスはなおも忍びて 汝が身を待つなり
来たれ罪と汚れの 有らば有るまま
「帰れや 帰れや 帰れや」と主は今呼びたもう (新聖歌一七六番)

 天で主は待ってくださっている。ならば、たった一人で死んでもいいのだ。と、強く思わされる。お金持ちの食卓から落ちる物を食べていたまったくの孤独な乞食であったラザロは死と共に天に迎えられた。
待ってくれる人がいるということは、人間にとって幸いな、また大切なことである。
夜、仕事から帰ってだれも家で待っている人がいなくて、真っ暗な室内に入るのと、誰かが待っていてくれて「お帰りなさい」と声をかけてくれるのとでは大きな違いがある。だれも待ってくれていないその寂しさをまぎらわすために、ペットを飼ったり、また最近ではものを言うロボットを置こうとする人も増えている。
そうした毎日の生活における場面の延長上に死後の世界がある。私たちの死後、愛をもって待っていてくれるお方がいるどころか、裁きをしようと待っている者がいるなどと考えるときには、老年となって死が近づいてくるときに魂の平安は決してないであろう。
キリストを信じるときには、愛に満ちたキリストが私たちを迎えて、主と同じ栄光の姿にしようと待っていて下さるという。これこそ、最終的な希望であり喜びである。
 「主を待ち望む」ということは、聖書に一貫して言われていることである。メシアの到来を啓示されたイザヤの時から七百年待ち続け、イエスが来られた。
そしてそのイエスというお方は、さきに引用したイザヤ書53章にすでに預言されているように、いかなる侮辱をも黙って受け、死に至るまでその苦しみを耐えて、人々が神のもとに立ち帰るのを待ち続けた神の愛そのもののお方であった。
 主がふたたび来たりて、万物を新たにされるという再臨のとき、それがどのようなかたちで来るのかは、私たちには理解できない。復活のすがた、私たちが主の栄光とおなじように変えられるといっても、どのような姿か、それはほのかに思い描くしかできない。
同様に、この再臨というその後の新しい天と地とは、黙示録にあるように、太陽も月もなく、ただ神とキリストが輝くというそのような状況はただ漠然と思い描くのみである。
しかし、私たちが新しい栄光の姿に変えられる復活が確実にあるように、この世界、宇宙が新しい天と地に変えられる再臨もまた確実にある。
主の再臨が遅い、という気持ちは初代のキリスト者からすでにあった。

…ある人たちは、(主が再び来られることが)遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。
そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。(Uペテロ3の9)

その再臨ということは、私たちが最終的に待ち望むことである。黙示録の最後にあるように、再臨の主を待ち望む信徒たちの祈りに答えて、主は言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」(黙示録22の20)
神ご自身はどこまでも私たちを待って下さるお方であるが、私たちもまた、主を待ち望む希望は最後の時まで続く。

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