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明けの明星、土星
12月中旬ころ、夜明け6時前に東の空(東南東の空)に向かいますと、すばらしい輝きの金星が見えます。明けの明星です。黙示録において主イエスにたとえられているほど、古代から特別に信仰的にも注目されてきた星です。
その右(南寄り)には、春の代表的星座として知られる乙女座の一等星スピカが輝いており、そのさらに右上方には、土星が見えます。
スピカも土星も明るい一等星ですが、金星が特別に強い輝きであるために、それほど強い光とは見えないほどです。そしてもっと北寄りの空には、牛飼座の明るい一等星アークトゥルスも見えます。
夜明けの明星の輝きは、夕方に見える宵の明星とはことなり、まだみんな寝静まっている闇の中に、ひとり目覚めてその光をこの世界に投げかけている、そして夜明けを告げているゆえにいっそう霊的な光を感じさせてくれます。
この明けの明星は、これから三月始めのころまでは、夜明けに輝き続けるので、朝の早い人は晴れてさえいれば、毎朝この輝きを目にすることができます。
この金星、土星などは、都会のライトが多いところでも見えるので、明けの明星を見たことのない人はぜひ見てほしいと思います。そして、聖書の最後の章である、黙示録22章の16節で言われている聖句を思いだすことで、私たちも迫害という恐ろしい闇のただなかで、夜明けに輝く明星を見つめて、再来のキリストを待ち望んでいた初期のキリスト者たちと、その思いを共有したいと思います。
なお、この頃、夜9時ころには、南西の空には以前からずっと見えている木星が見えていますし、東からは、オリオンの有名な星たち(赤いベテルギウス、青白いリゲル、三つ星)や、大犬座のシリウス等々が上がってくるのが見えますので、西にも東にも明るい強い輝きの星が見えます。
こうした星たちは、目に見えるものとしてはもっとも清い輝きを持っていると言えます。いかなる人間の業によっても汚されることなく、また何千、何万年たっても変ることなく輝きを続けているからです。
しかも闇に輝いているということで、聖書の最初にあらわれる、神の大いなる力、闇と混沌のなかに、光あれ!との神の言葉によって光が生じたということをも思い起こさせるし、すでに述べたように聖書の最後の書である黙示録にもキリストにたとえられてあらわれるゆえに、重要な意味を感じさせるものです。
さらに、世界のキリスト教文学では最も大いなるものと言われるダンテの神曲では、地獄篇、煉獄篇、天国篇のそれぞれの最後に「星」stella という語が置かれていて、ダンテも星の輝きに深い信仰的、キリスト教的な意味をくみ取っていたのがうかがわれます。
夜明けにもすでに書いたように明るい星々が見えますので、星に関心のある者、星によって神とキリストへの思いを強められる者にとっては喜ばしい季節です。

クリスマスについて

クリスマスという言葉は、クリスト(キリスト)+マス(ミサ)という二つの言葉から成っています。マスとはミサのことで、プロテスタントでは礼拝という意味にあたります。
クリスマスが祝われるようになったのは、プロテスタントがまだなかった時代なので、ミサという言葉が用いられていたのです。
ですから、クリスマスとは、キリストを礼拝する日であって、サンタクロースの日では全くないのですが、日本ではキリスト不在のクリスマスという奇妙な現象が広く行われるようになっています。
この点では、日曜日が本来はキリストの復活を記念し、礼拝する日であったのに、日本に日曜日の制度が入ったときには、たんに仕事を休む日、休憩や自由な娯楽の日とされてしまったことと似たところがあります。

アドベント
クリスマスシーズンは、待降節からはじまります。待降節というのは、英語ではアドベント(advent)と言います。この語は、ラテン語がもとになっていて、「ad- (⋯へ)+-vent (来る)=⋯へ来る」という意味(到来、あるいは来臨)です。キリストが私たちのところに来てくださるときを待ち望む期間として、11月30日に近い日曜日からクリスマス前までの期間をいいます。今年なら、11月28日(日)から12月24日までとなります。
また、この言葉は、世の終わりにキリストがふたたび来られるという再臨についても用いられます。
私たちにとって、主イエスが私達のところ―この世界に、また日々の生活のただなかに、そして私たち一人一人の心の中に来てくださるということは、クリスマスや世の終わりのときだけでなく、日々の願いです。ですから、クリスマス前の期間だけでなく、毎日がキリストの到来(アドベント)を待ち望む心をもって生活したいものです。

クリスマスの日
私たちはクリスマスといえば、12月25日ですが、この日が確定していったのは、4世紀になってです。おなじキリスト教でも、東方正教会では、現在も1月6日となっています。 (東方正教会とは、ロシアや東ヨーロッパ諸国のキリスト教です。)
また、12月25日はじっさいにキリストが誕生した日ではなく、誕生を記念する日です。キリストがいつ生まれたかは正確には分からないのです。古代においては、キリストの誕生がいつであったかは重要視されておらず、したがってその日を特別に祝うということもなかったのです。
それよりも、はるかに重要であったのが、キリストの復活でした。それゆえに、現在の日曜日が休みであるということも、キリストの復活の記念をする礼拝の日としてはじまったのです。聖書にも「主の日」という言葉がありますから(黙示録1の10)、日曜日の礼拝のことを、主日礼拝というのです。
復活の記事は、聖書にたくさん見られます。四つの福音書のすべて、そして使徒言行録、パウロやペテロ、ヨハネの手紙など至るところにみられます。しかし、キリストの誕生のことは、マタイ福音書とルカ福音書だけに書いてあります。
しかし、キリストが神の本質を備えてこの世に実際に来てくださったこと(生まれて下さったこと)が、この世界がキリストの福音によって新しくされていく出発点にあり、そのことを感謝し、祝うようになったのです。
ヨハネ福音書の最初に記されているように、神がイエスという一人の人間の形をして来られたということは、歴史のなかで決定的に重要なことになったからです。
そして、すでに書いたように、キリストがこの世に来て下さったという過去のことを感謝し、祝うだけでなく、現在も私たちの世界や一人一人の心の中、生活の中に来て下さることを待ち望む礼拝の日ともなっています。


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