私たちが互いに愛し合うならば、神は私たちの内にとどまってくださり、
神の愛が私たちの内で全うされているのです。


(Tヨハネ四の12)
リストボタン 沈黙の賛美

一年で最も寒さ厳しいこのときに、わが家の梅が次々に咲き始めている。ほかの木々や野草などはその寒さに身をひそめているようなこのとき、そのような寒さも何の妨げにもなることなく、次々と花を咲かせ、近づくとほのかな香りを漂わせて咲いていく。
そして冬の澄みきった青空を背景にして咲く梅は、その沈黙を通して神を賛美している。そしてそれはいかなる不純なものもないゆえに、完全な賛美である。
沈黙であれば伝わらないということはない。神がともにいますとき、その沈黙もまた雄弁なのである。
聖書の詩人は、宇宙に響く沈黙の賛美を深く聞き取っていた。
…天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。
昼は昼に語り伝え、夜は夜に知識を送る。
話すことも、語ることもなく、声は聞こえなくても
その響きは全地に、その言葉は世界の果てに向かう。
(詩篇十九の一〜五)

リストボタン岩なる神に

海の波、それはたえず生まれ、変化していく。時として大波で揺れ動く。しかし、海を少し深く入ればもうその波はない。この世の出来事も同様である。毎日、新たな出来事がおきる。政治や社会問題、またスポーツなど日々ニュースとして現れる。それらは波のようにいつも揺れ動いている。
しかし、少しこの世の奥にあるもの、目に見える現象の背後にあるものに目を向けるなら、そこには、そうしたこの世の動揺や変化にいっさい影響されない世界がある。
旧約聖書の詩人は、そうした揺れ動かないものをはっきりと知っていた。それをしばしば岩と表現している。現代のキリスト者は神のことをこのように岩として浮かんでくる人がどれほどいるだろうか、とても少ないように思われる。
この世のさまざまの苦しい出来事にあっても揺るがぬ心、それは確かに次にあげる詩の作者のように神を岩としている人である。それほどに固く魂を神に結んでいる人の状態である。
…主はわたしの岩、砦、逃れ場、わたしの神、大岩、避けどころ、わたしの盾、砦の塔。
主のほかに神はない。神のほかに彼らの岩はない。
主は命の神。わたしの岩をたたえよ。わたしの救いの神をあがめよ。(詩篇十八より)

詩篇十八篇では、このように繰り返し、神こそわが岩と言われている。たしかに神こそわれらの岩、そこにすがっていれば、流されないしこの世の動揺に巻き込まれない。
何か小さなことでもすぐに動揺し、ちょっとした他人のひと言でも気になって仕方がないという心の状態、それはいわば揺れ動く草に結んだ心である。神を信じないなら、そして信じていても心のうわべだけでの信仰の場合には、たえずこのような揺れ動く状態となる。 人間はみな程度の多少はあってもこうした状態である。
そのような状態だからこそ、私たちに岩なる神が与えられているのである。

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