リストボタン聖なる火のはたらき

火は私たちの生活にとってきわめて重要である。人間と動物とを分ける大きな違いの一つは火を道具として常に使うかどうかということでもある。火を使って食物の消化をよくし、栄養分の吸収も効率的にして、大脳にブドウ糖を効果的に送り込み、高度な大脳の働きができることにつながり、人間の複雑、かつ高度な活動ができるようになっていると考えられる。
火は冬の寒さから身を守るものとなり、暗闇のなかの光ともなった。
しかし、この世には、よいことにも悪いことにもなるいわば両刃の剣のような火もある。それは科学技術が生み出した火である。
二度にわたる世界大戦で、おびただしい人たちが死んだり、重い怪我をして生涯を破壊されてしまうようになったのは、弓や剣の力ではなく、新しい火、爆発的に燃える火のゆえである。それは火薬、砲弾、爆弾の類である。
古代から人間同士の戦いはあったが、せいぜい一つの戦いでの犠牲者は数千、数万といった犠牲者であったであろう。しかし、第一次世界大戦においては、一挙に膨大な犠牲者を生み出した。わずか四年あまりで死者は二千万人を越え、負傷者は二千二百万人に及ぶという。そしてそれから二十数年後にはじまった第二次世界大戦においてはそれよりはるかに多くの人たちの命が失われた。
このようなおびただしい犠牲者は、爆発物という新たな瞬間的な火の力による。これが、さらに、桁違いの火の力へとすすんでいった。それが、第二次世界大戦の終わりころに製造された原爆である。そのすさまじい火は、たった一発で、数十万人をも殺傷し、あらゆるものを焼き尽くし破壊しつくすものであった。
このように、火は人類に不可欠のものとして有用な働きをしてきたのであったが、現在では、各地の戦争、内乱での死者の大多数は、こうした科学技術の産物である砲弾や爆弾という火の一種によって命を失った人たちであり、またさらに多数の人たちは重い傷を負って生涯苦しみにさいなまれることになった。
現代の世界の最大の問題といえるのは、悪魔の火ともいうべき、核兵器を使ったテロや戦争の問題である。もしこのようなことが生じれば、世界は壊滅的打撃を受けるからである。
 このような科学的な意味における火の問題に隠れて、目には見えない火(霊的な火)の重要性が日本ではほとんど忘れられている。
人間に自然にそなわっている愛の心というのは、神の愛の影のようなものだと言われる。それと同様に、この世の火というのは、神の火と比べるとその影のようなものである。
科学でいう火も強いエネルギーを持つ。しかし、それよりはるかに大きいのが神の火である。
聖書において火がもっている光の側面を初めて記しているのは次の箇所である。

…主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。(出エジプト記十三の二十一)

神の力によって奴隷状態のところから解放され、荒れ野を四十年もかかって目的地に旅する生活にあたって、とくに必要なものは導きであった。きわめて多数の人たちをひとつの行動にまとめていくのは大変なことであり、人間の感情や信仰そのものも乱れ、混乱していく危険性があり、また自然の厳しさのゆえに食物もなく、敵に襲われるかもしれないという危険に満ちた旅である。
自分たちの判断ということになると次々といろいろな意見が出て、かえって道を間違うであろうしそのときにはみな滅んでしまうことになる。光は導き手として不可欠である。
さらに、この世に燃え盛る火として、悪の火がある。

…悪は火のように燃え
茨をなめ尽くす。
森の茂みに燃え尽き
煙の柱が巻き上がる。(イザヤ九の十七)

ここには、悪の力もまた燃える火のようにさまざまのものを破壊していくことが記されている。私たちの現代の状況をみても、悪の火といえるようなものが、よきものを燃やして破壊していくのが感じられる。幼い子供は一様に純真であるが、それがどうして人の命を奪ったりするような心へと変容していくのか、驚くべきことである。
これは、純朴な心がこの世の悪の火によって焼かれ、燃やされて消滅していったと言えるだろう。
しかし、火は、旧約聖書では悪に対する神の絶大な力を象徴するものとして多く用いられている。それは次のような例である。

…わたしが継がせた嗣業をお前は失う。また、お前を敵の奴隷とし、お前の知らない国に行かせる。わたしの怒りによって火が点じられ、とこしえに燃え続ける。(エレミヤ書十七の四)

これは、神の道に背き、神の愛を受けいれようとしない民にさばきが行われることを指しているが、このように、火はさばきの力をあらわすものとしてしばしば預言書では現れる。
何か物を打ちたたいても、物は外見では壊されるがそれを作っていた物質そのものはそのまま残る。しかし、火で焼くときには、それは徹底的に破壊されてしまう。ほかの手段とはまったく異なる力を持っているために、神のさばきの力の強さがこのように示されているのである。

…主なる神は、太ったものの中に衰弱を送り、
主の栄光の下に炎を燃え上がらせ、
火のように燃えさせられる。
イスラエルの光である方は火となり、
聖なる方は炎となって、
一日のうちに茨を焼き尽くされる。(イザヤ十の十六〜十七より)

これは、神の真実に敵対して不正なことをつづけ、悪によって肥え太る者や民族への裁きをこのようにあらわしている。
あるいは、次のようにも表現されている。

…主は必ず火をもって裁きに臨まれ、剣をもってすべて肉なる者を裁かれる。主に刺し貫かれる者は多い。(イザヤ六六の十六)

このように旧約聖書においては、世界にみなぎる悪の勢力は時いたれば必ず、神の火でたとえられる強い力によって滅ぼされるということが繰り返し強調されている。
そして、旧約聖書の最後に置かれた書である、マラキ書の最後の部分にやはりこの神の火が現れる。

…見よ、その日が来る、炉のように燃える日が。
高慢な者、悪を行う者は、すべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。
彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。(マラキ三の十九)

キリストを待ち望む預言が、このように同時に神のさばきの火を待ち望むことを伴っているのである。それは、人間を苦しめ、世界を混乱させ数々の悲劇を起こしているのは悪の力であり、救い主はその悪を根源から滅ぼすお方であるとして期待されていたからである。
このような待望は、新約聖書になって最初に現れる洗礼のヨハネも持っていた。

…斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。
わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。(マタイ三の十〜十二より)

このように、イエスのすぐ前に、道をそなえる者として現れた洗礼のヨハネは、メシアを旧約聖書から言われてきた悪の力を焼く火の力をもったお方として人々に指し示したのであった。
それとともに、メシアとは、自分がするような水の洗礼でなく、聖霊を注ぐお方であると予告した。このように洗礼のヨハネが示されたのは、世の救い主として来られるお方は、何よりも、悪の力を滅ぼして新しい世界を来らせるお方だということであった。
火の力を持つお方であり、人々にそのような火の力と、聖霊の力を与えるというのである。
これは決して洗礼のヨハネだけが受けた啓示ではない。ヨハネ福音書にも、それと通じる内容が記されている。

…わたしにつながっていない人があれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。
そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。
(ヨハネ十五の六)
ここでも、主イエスが示す愛や真実に背を向け、踏みにじろうとする人は必ず裁きを受けるということなのである。その人の内部のよきものが焼かれてしまうということが言われている。
イエスご自身が持っておられる、その裁きの力、悪を滅ぼす力に関しては、次のようにも言われている。

…この石(イエス自身を指す)の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」 (マタイ二十一の四十四)

主イエスは、いなくなったただ一匹の羊をどこまでも探し求めるお方であり、だれもが汚れているとして見捨てていたハンセン病や目の見えない人、口のきけない人たちをその愛をもって受けいれ、いやされたような神の愛を完全に持っておられた方であった。
他方では、そのような弱き人たちを苦しめ、清いものや善きものを踏みつけようとする悪の力に対しては、このように明確に滅びがくるということを宣言されたのである。
悪の力を滅ぼす力があるからこそ、その悪にほんろうされ、苦しめられている弱き人たちを救うことができたのである。
愛のお方なら裁くことはないとか、矛盾していると考える人たちがいるが、実はそうでなく、深いところで共通のものが流れているのである。
私たちが罪から救われる、赦されるということは、罪をおかさせる悪の力を除いて下さることにほかならない。主イエスは、十字架にてみずから死ぬことによってその悪の力を滅ぼされたのである。
洗礼のヨハネが予告した、イエスの本質、それは悪を滅ぼす火のような力と、聖なる霊を与える存在であったが、まさにイエスはそのとおりであった。
そして、イエスに従う者にもそのような力を与えると約束したのである。
それは、復活したイエスが弟子たちに四十日間も現れて教えたなかで、唯一残された言葉として聖書に記されている。

…ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。 (使徒言行録一の五)

この聖霊を与えるということは、イエスが復活した後四〇日間に語られた多くの言葉のうちの最も重要な約束であった。それゆえに使徒言行録の最初にこのことだけを記したのであった。
そしてこの聖霊を与えるということこそは、悪をも滅ぼす力をも含んでいた。 聖霊は神ご自身の本質を持っているからである。
また、悪を滅ぼすという面だけでなく、積極的にあらゆるよきものを持っている。聖霊が与えられていることは、私たちがキリストを私たちの救い主であると実感することで分る。何も特別な奇跡のようなこととか、異言のような特別なことがなされる必要はない。私たちが、主イエスを罪の赦しのために十字架にかかって死なれたということを信じることができたなら、それは聖霊を注がれているしるしである。パウロも、人は聖霊によらなければ、神のことを「お父さん」と呼べないといっている。

…あなた方は、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「父よ」と呼ぶのである。
(ガラテヤ書四の六より)
その聖霊こそは、また燃え続ける。旧約聖書では、神の火とは、悪の力を焼き滅ぼし、平和な世界を来らせるという意味で言われてきたが、新約聖書になってからは、それだけでなく、あらゆるよきものを生み出すものとして、聖霊の火というのを信じる者に与えられることになった。
聖霊が初めて多数の人たちに同時に与えられた出来事が使徒言行録に記されている。
それは、多くの人たちがイエスの命じられたように聖霊を注がれることを祈りつつ集まって待ち望んでいたときであった。

…五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。
また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。(使徒言行録二の一〜三より)

ここで、聖霊とは炎のようなものであり、それは舌であらわされているように、神の言葉を語ることにおいては激しい情熱のようなものを与えることを暗示している。
実際、この聖霊が与えられて初めて弟子たちは力を受けてキリストが復活したことを力強く証言するようになった。それまでは、復活したイエスのことを知ってもなお、部屋に扉を閉め、鍵をかけていなければならない状態なのであった。
聖霊が注がれなかったら、彼らの内なるともしびは消えたままであった。聖霊こそは彼らの魂に点火して、聖なる炎を燃やし続けていく力となった。
しかし、その燃え始めた内なる火は、絶えず心して祈りを持って守り続けないと、その人から消えていく。
主イエスが「求めよ、そうすれば与えられる」と約束されたことは、聖霊に関してこそ完全な意味であてはまることであった。
一時的に求めるのでなく、絶えず求め続けること、私たちの生活は聖霊を求めての日々となるべきなのである。
それによって私たちは聖霊の実としての愛、喜び、平安…といった最も大切なものをその実として与えられる。(ガラテヤ書五の二二)
そこから、私たちはよく知られている次の言葉に導かれる。

…いつも喜べ、絶えず祈れ、すべてのことに感謝せよ
(Tテサロニケ五の十六〜十八)
聖霊の火が燃え続けているときには、自然にこれらのことができるようになるということなのである。
それゆえ、この言葉のすぐあとに、「霊の火を消してはならない」と言われているのである。
キリストこそ、永遠に燃える霊の火そのものである。それは私たちの心に住み、魂に点火して私たちの存在を神の国のために燃やし続けてくれる。
そして特に強く燃やされた人たちは、いかなる危険をも越えて、また家庭の喜びや安定した仕事、平和な生活を楽しむことなど一切を捨てて、大西洋やインド洋、あるいは太平洋という幾万キロの波濤を越えて、日本にまで到達し、携えた福音を伝え続けたのであった。
そうした聖霊によって燃える心は、日本人にも燃え移って広がってきた。そして教育や一夫一婦のような社会的な制度、非戦の思想、弱き者への配慮の重要性、障がい者への深い意味など次々と古い考え方を新たにしていった。
単なる一時的な人間の情熱的な火、あるいは人を滅びに向かわせる悪の火はいまも燃え続けている。
 しかしそれらすべての悪の力を究極的に滅ぼす神の聖なる火が燃え続けている。
私たちもその聖霊の火を豊かに受け取り、また他者へと手渡して行きたいと願うものである。
これこそ、ほんとうの聖なる火のリレーであり、キリストからはじまって、二千年無数の人たちに点火されて受け継がれ、世の終わりまで受け継がれていくのである。

す。CDは、ふつうのCDのプレーヤ(CDラジカセなど)で聞くことができる形式にしてあります。費用は、県内手渡しの人は一回分(一か月)百円、県外は、送料共で二百円です。何カ月かまとめて切手で送付してくださって結構です。

○「いのちの水」誌の部数
時々、「いのちの水」誌を知り合いの方や集会の友人たちに回して読んでいると言われる方がおりおりにあります。そのような場合、その必要な数だけお送りすることができます。(そのための費用とかはとくに必要はありません。)

○今まで希望者に販売してきた、MP3のファイルで録音した聖書講話のCDで、再生が不良なものは取り替えますので、お手数ですが左記までお送り下さい。パソコンでの書き込みの際に時折ミスが生じることがあるからです。対象のCDは、ヨハネ福音書、創世記、ルカ福音書です。

○高知での四国集会
去年の松山での四国集会のときの時点では、高知での四国集会の開催は困難ということでしたが、来年度の四国集会は、高知で開催されることになりました。
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