リストボタン二人の詩人とキリスト者
ダンテ・神曲 煉獄篇第二十二歌


第五の環状の道から、第六の環道に通じる道へと登りはじめるとき、天使は、ダンテの額から、Pの一文字を消した。Pとは、罪を意味するラテン語 Peccatum(ペクカートゥム)の頭文字である。
 それは、一つの環状の道から上部の環状の道へと上っていくときに、天使によって消されていく。
 私たちがこの世で受ける苦しみの数々は、たしかにそうした数知れない間違った思いや言動(罪)への罰であり、同時に清めともなっていることは確かなことである。私たちは苦しみや悩み、いろいろな困難がなかったら神を求めず、キリストによる赦しなども求めない人間となっていくからである。
そういう意味で、たしかに信仰生活における苦しみは、清めともなっていく。私たちの犯した間違いや、あるいは他者からのいわれなき攻撃、また人間関係からの苦しみ、さらには事故や病気といったさまざまな悲しみの涙もまた私たちを清める働きをも持っている。
悲しむひとたちは幸いだ、なぜなら、そのひとたちは神から慰められ、励まされるからだ、と主イエスは教えられた。その悲しみによって神への切実な思いが起こされ、清めを受けるのである。
また、そのような苦しみや悲しみが深く大きいほど、私たちは真剣に神を求める。神の言葉を求める。そして確かに上よりの励ましの言葉を受ける。
「わたしが語った言葉によってあなたがたは既にきよくされている。」(ヨハネ十五の三)
天使は、義に渇く者たちの幸いを告げた。「渇き」それは、この煉獄篇においても、二〇歌から二十一歌にかけても、基本に流れているテーマである。
「知らないということのゆえに、これほどまでに知りたいという激しい願いがわき起こったことはかつてなかった。」(煉獄篇二〇の一四五行〜)と書かれている。
この第二〇歌の最初にも、 「…さらに問いただしたかったが、彼の気持ちを汲んで、私はまだ未飽和の海綿を水の中から引き上げた」とある。最初と最後にこのように、より真理を知りたいという強い渇きが置かれている。
人間は光を求める強い渇きを持っている。それこそが、動物とは本質的に異なる点である。この神曲そのものが、そうした光への激しい渇きを持っている作品であり、その渇きが正しくいやされるのは何によってなのか、ということが根本的な内容になっているのである。
そして、これは新約聖書そのものの根本にあることだ。
この煉獄篇第二〇歌の最初に天使が、引用したのも、新約聖書の主イエスの言葉からであった。主イエスは、正しいことをする人は幸いだ、と言われずに、正しいことに飢え渇くひとたちは幸いだ、と言われたのである。
サマリアの女とイエスとの対話の記事も、この「渇き」の問題が人間の最大の問題であることを告げている。
…イエスは女に答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、またかわく。
しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがる」。
女はイエスに言った、「主よ、わたしがかわくことがなく、また、ここにくみにこなくてもよいように、その水をわたしに下さい」。(ヨハネ四の十三〜十五)

それゆえに、ダンテも煉獄篇二十一歌の最初に、このサマリアの女とイエスのことが置かれているのである。
「身も心も貧しいサマリアの女が、イエスに求めた水を飲まないかぎり、永久にいやされることのない自然の渇きが、いま私を悩ませていた。」
渇きを感じて、それをいやすものを求める、そこに与えられる。
求めよ、そうすれば与えられる、という主イエスの約束がある。
また、二十一歌においても、煉獄の山で生じた大いなる地震と賛美の歌声に関する疑問―何ゆえにこのようなことが生じたのか、という強い渇きを覚えたことが記されている。
その説明を聞いたとき、ダンテは、次のように言っている。
「…その説明がどれほどありがたかったか、筆舌に尽くしがたい。
渇きが激しかっただけに、飲み干したときのうれしさもそれだけ激しかった。」(七三〜七五行)
 ダンテの渇き、それは、真理への渇きであって煉獄の歩みとともに満たされていくものなのであった。
第二二歌においても、最初にダンテは、「義に渇く者の幸いをわれらに告げ、《渇く》を祈りの結びの言葉としたあの天使を。」と記している。
 こうした真理(神)や永遠的なものへの強い渇きは、すでに旧約聖書から繰り返し記されている。その最も集大成というべきものが詩篇なのである。
 詩篇の一五〇篇の詩が大なり小なりそうした渇きとそれを満たすものについて触れていると言えようが、次ぎのように渇きそれ自体をはっきりと記している詩もよく知られている。
…神よ、鹿が谷川をしたいあえぐように、
わが魂もあなたを慕いあえぐ。わが魂は渇くようにして神を慕い
生ける神を慕う。…(詩篇四二篇)
 
 これは、詩篇の第二巻の最初に置かれ、編集者がその渇きを重要なものとみなしていたのがうかがえる。
事件に遭遇しても、新聞などでさまざまの災害や事件を見ても、また自分自身の身に生じるさまざまの出来事についても、たえず私たちは渇いている。それをなにが満たしてくれるのか、わからないのが大多数の人々の実感である。
こうした日々の出来事にあっても、それらに接するばかりでは渇くばかりである。そしてその渇きのゆえに何を見てもあまり感じなくなっていく。まず私たちはダンテも言っているように、そうした根源的な渇きをいやしてくれるキリストからの目には見えない水を飲むことによって、まず渇きをいやされる必要がある。

第五の環状の道から第六の道へと登り道を歩むとき、ウェルギリウスは、自分がスタティウスから、特別に敬愛されているのを知らされて、自分自身もまたスタティウスへの敬愛が点火されたことをもとにして、次のように語った。

「徳によって燃えたたせられた愛は、他の愛を次々と燃え立たせていく。その炎が外に現れさえすれば。」(一〇行)

ここで、愛というものは、自分だけで燃えるのでなく、他者へと燃え移っていく本質が言われている。このことはキリスト教の愛とは無関係によく知られていることである。だれかに、あなたを愛しています、と言われたら、その人も相手の人への思いが点火される、ということはよくあるだろう。
逆に、誰かから、はっきりとあなたは嫌いだ、といわれたら自分もその人を嫌いになるか、そうでなくとも、何かいやな気持ちになることが多いだろう。不安や、動揺、怒りや憎しみなども同様である。
このように、何らかの人間の感情は相手に伝わっていく。そのなかでも、取りわけ愛は、それが人間的な愛であってもこのように燃え移っていく。それがそうした人間的なものであったり欲望がからんだ愛であるほどに、それが燃え移ると自分をも相手をも破滅に陥れる。それが、地獄篇の第五歌に見られる。

「愛はやさしい心にはたちまち燃え上がるものですが、彼も私の美しい容姿のゆえに、愛のとりことなりました。
愛された以上愛しかえすのが愛の定め、…その愛は私ども二人を一つの死に導きました。」(地獄篇第五歌百〜百六行)

こうした外見や欲望のゆえの愛は、死へと導く。それはすでに聖書においても、ソロモンやダビデもそうした愛によって、深い淵にはまり込み、厳しい裁きを受けることになったが、それはどのような時代であってもこの間違った愛や欲望によって破滅していく無数の魂が存在してきた。
ダンテは、そうした感覚的な愛とは全く異なる愛を述べている。
それは、「徳」によって点火された愛、ということである。 徳とは、欲望をおさえることのできる節制、正しい心、忍耐、勇気、なにが価値あるものかを見抜く英知等々である。
こうしたものによって生まれた愛ならば、それは相手にもよき愛を点火し、さらにそれは他者にも伝わっていく。
このダンテの神曲の内容そのものも彼のそうした徳から生まれた神と人への愛が満ちており、、それはさらに多くの人の愛を燃え立たせてきたのである。
だが、神の持っておられるような愛は人間は決して生まれながらには持っておらず、神から、聖なる霊の実として受けるほかはない。
「聖霊の実は、愛、喜び、平和、寛容…」とパウロが記しているとおりであり、また、主イエスが、「私につながっていなければあなた方は何もできない。実を結ぶことはできない。」(自分中心の心からは、真実な愛や正義にかなうことは何もできない)と言われたこともそのようなことを指している。
愛は他者を燃え立たせる、それはキリストの愛について最も完全にあてはまる。キリストが自分を愛して下さっていると実感した者は、その人の魂のうちに、やはりキリストに対する愛が燃え上がるのを感じる。その炎が他者にも伝わっていく。それが伝道ということであり、二千年の間、絶えることなく燃え続けてきたのである。

第五の環状の道から、第六の環道に至る登り道において、ダンテは、 スタティウスとウェルギリウスを前にして従って行った。スタティウスとは、前の煉獄篇二〇歌の後半部に記された煉獄の山が大きく揺れ動き、大いなる賛美がわき起こったそのもとになった人である。一人の人間が煉獄での清めを終えて身を起こし、山の登りをはじめるときにそのような山が動くのであった。
スタティウスは、当時の力ある詩人であった。そしてウェルギリウスの詩によって大きな啓発と導きを与えられたのである。 ウェルギリウスは、スタティウスに問いかけた。
「あなたは、いかなる太陽、またはともしびが、あなたの夜の闇を払って、のちにひたすら帆をあげて、あの漁師(ペテロ)に従うようになったのか」と。
太陽とは、神の啓示をあらわし、ともしびは人間の教えを意味している。漁師に従って、帆をあげる、とは、キリストの第一の弟子であったペテロの信仰に従っていくということで、キリスト者となったことを意味する。
どのような啓示や教えによってキリスト者になったのか、それがとても不思議なことであったゆえにこのように問いかけたのである。
それに答えてスタティウスは次のように言った。
それは、ウェルギリウスがまず、自分をパルナソスの山に送ってくれた。この意味は、ギリシャ神話に現れる重要な山でそこには詩に関する神々が住んでいるとされ、詩の霊感を呼び起こす泉があるとされていた。
詩というのは、神々によって霊感を与えられ、通常の人間が思いつかず、考えることもしないような高い内容をうるわしい言葉で表現するものであるから、人間の生まれつきの才能や努力ではできないという基本的な見方がここにある。
 ホメロスはギリシア古代の重要な詩人であり、それは後世に大きな影響を及ぼした。そのホメロスは、「詩の女神の乳をだれよりも多く授かった」と表現されており、また、ウェルギリウスは、ローマやギリシャの大詩人たちとともに、自分たち詩人の「養いの母(乳母)」が住むパルナソスの山の話しをする…。
 と記されている。ギリシアのパルナソスの山には、詩の女神が住んでいて、詩的霊感を与えるとされていた。
 ここで繰り返し使われている、養いの母とかミルクを飲むといった表現は、スタティウスも使っている。
「…ウェルギリウスの主著である『アエネイス』こそが、詩的情熱の火種であり、炎であった。それこそが、詩作の上での生みの母であり、育ての母(乳母)なのだ。」
 このように、乳母、育ての母(nutrice 英語では nurseで語源的には共通の語)やその関連の言葉を繰り返し用いているのは、詩作という重要な仕事のためには、自分の努力ではできないのであって、より優れた人物や天からの霊感を受けなくてはならないということをダンテ自身が深く実感していたからであろう。
 聖書においても、エジプトから解放された民が導かれていく土地が、「乳と蜜の流れる地」と表現されている。神の豊かな恵みが乳と蜜で表現されている。
 また、次のような箇所もある。

…今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入るようになるためである。(Tペテロ二の二)

 キリスト者にとって、聖なる霊こそが、育て成長させる乳の役割をしているゆえにこのように記されている。
 たしかに、私たちが前進していくには、いわばミルクのようなものをたえず飲み続けていかねば進めない。それが主イエスご自身も強調された、いのちの水であり、聖なる霊である。
 
スタティウスは、ウェルギリウスの著作により、詩の世界にまず、導かれたこと、さらにその著作の内容によって、詩の世界からキリスト信仰の世界へと導かれたことを語る。スタティウスをローマの神々の世界から、キリスト信仰へと導いたのは次のような言葉であった。

「新しい世紀は来た。
正義は、人間の最初の時が帰り来た。
天上より新しい子孫が降って来た。」

スタティウスは、これはまさにキリストのことを預言しているものだと知らされたのであった。
彼は、ウェルギリウスに対して言った。
「あなたのゆえに私は詩人となり、あなたのゆえにキリスト者となった。」(*)

(*) Per te poeta fui,per te cristiano.―原文、per 〜によって、te あなた、fui 〜であるの過去形、poeta 詩人、cristiano キリスト者。 Through you I became a poet through you a Christian.―R.M.DURLINGによる英訳。原文の簡潔な表現は日本語に訳すると、二倍ほどの分量になっている。)

このように、スタティウスにとって、ウェルギリウスは、詩の世界とキリスト教の世界という二つの世界へと導く者となったのであった。
ここに、ダンテはこのスタティウスの言葉によって、詩とキリスト教という世界を並べておくことによって、ダンテ自身にとってもこの二つの世界の深さ、広大さの中に生きているのを示そうとしているのがうかがえる。
ダンテにおいては、詩というのは、真理を表現するきわめて重要な手段なのである。真理を乗せて走る船のようなものなのであった。
真理はさまざまの形をとって表現されるが、詩のかたちをとって表現されるときに、大いなる力を発揮するということを知っていたゆえに、彼は、神曲において人間や社会の現実を厳しく見つめてそれを批判し、また神の正義に立って裁き、それを整然としたリズムや韻を含んだ形で表現したのであった。
同じ水の分子でも、一滴の雨粒と、雪の結晶になったのでは大きな違いがあるようなものである。
詩とは真理を表現する手段である、ということはいかなる他の古代の詩にも増して、旧約聖書の預言者(*)や詩篇において明確に見られることである。

(*) そのような代表的なひとつの詩を次に引用する。

…荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ
砂漠よ、喜び、花を咲かせよ
野ばらの花を一面に咲かせよ。…
そのとき歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。
口の利けなかった人が喜び歌う。
荒れ野に水が湧きいで
荒れ地に川が流れる。
熱した砂地は湖となり
乾いた地は水の湧くところとなる。…
そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ…
主御自身がその民に先立って歩まれる。(イザヤ書三五章より)

 この雄大な詩は、人間世界の荒廃や苦しみ、悲しみが最終的に解決される世界を啓示され、いのちの水の流れを見、そこに花咲くうるわしい状況を知らされた人の手による。 これはまさに神の霊にうながされて描き出したものであり、パウロのように霊的な高みに引き上げられて見せられたことを書いたと思わせる内容である。


また、このスタティウスの言葉によって、すぐれた著作は、後に続く人間に大きなよき影響を与えるものだということを示している。
スタティウスは、ウェルギリウスに次のようにも言った。
「夜に灯火を自分の後ろに掲げて歩く人は、
自分自身には益するところがないが、
後から続く人のために道を照らし、啓発する。
あなたはまさにその人だ。」

ウェルギリウスの詩というものの本質は、そのように自分の感情や思いを単にあらわすのでなく、後から来る人、未来の人たちへのともしびとしても書かれているのが示されている。
ここにも、詩の本質が真理を担い、同時代の人たちだけでなく、後世の人たちにも掲げて指し示すものであることが暗示されている。
この点で、聖書の内容を書いた人たち(預言者や使徒あるいは神に召された記述者)は、まさに、自分の後ろに灯火を掲げて歩んだ人たちであった。自分のためでなく、後から歩んでくる人たちに本当の道を指し示すために書いたからである。
スタティウスは、キリスト紀元六〇年頃に生まれた。当時はすでにキリスト教徒への迫害が厳しく行われていた。ウェルギリウスの書物によってキリストへの道が開かれ、さらに自分が成長したころに、キリスト者たちが迫害を受け、それに耐えている状況を知ってキリスト者たちを助けた。
しかし、キリスト者となってからも、迫害を恐れて隠れキリスト者となっていた。そうした生ぬるい生き方のゆえに、第四の環道を四〇〇年以上も歩き続けることになった。
彼は、自分が学んだローマの重要な作家や詩人たちがどこへ行ってしまったのか、地獄に落ちているのかどうかと尋ねる。
自分はキリストによって救われるという保証を得ている。しかし、まだキリストを知らなかった人たちはどうなったのか、この疑問は現代の私たちにおいてもしばしば現れる疑問である。
自分の肉親たち、あるいはキリストの真理に背を向けている人たちは、どうなったのか。また今生きているそうした人たちはどうなるのか、という疑問である。
私たちとしては、ただ神の万能の御手にゆだねるほかはない。しかし、愛の神ゆえに、私たちの予想や生前の言動などを越えて、それぞれの人間の魂の深みを見たうえで、神は最善になされていると信じることができる。

第五の環道からの登り道を終えてたどりついた第六の環道を、ダンテと二人の詩人は進んで行った。

…先に立って進む二人の詩人のあとに、ひとり孤影をひく私は、
二人の詩人の語らいに耳を傾けたが、詩作に関して、啓発されるところが非常に多かった。… (一二七〜一二九行)
 偉大な詩作ということは、思想の表現であり、また信仰の表現であり、それを特別なリズムや韻をもったかたちで作り上げるのであり、どこまでも奥行きの深いことであった。それゆえ、ダンテ自身も絶えずこうした先人に学んでいくという姿勢がある。
 私たちにおいても、この地上の歩みにあって、聖書や神曲のようなすぐれた書物に親しむことはその著者たちと神との語らいに耳を澄ませ、目を開かれていくことなのである。 

…御言葉が開かれると光が射し出で、無知な者にも理解を与える。(詩篇一一九の一三〇)

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